「哲史文」の素養亡き技術第一主義は国を滅ぼす 及川古志郎海軍大将の戦時下(昭和18年 1943年)における反省
最近
哲史文といった人文系の教育には意味が無い
という議論があって
大学を高等職業訓練校に変貌させる案
がじわじわ進んでいる。
ところで、日本が先の大戦で、敗色が濃くなっていた昭和18年のこと、
哲史文亡き技術教育に邁進した陸海軍の軍人教育への反省
が海軍大学校で行われていた。
実松 譲『海軍を斬る』図書出版社 1982年2月25日より
戦況が悪化の一途をたどりつつあった昭和十八年のある日のこと、場所は目黒の海軍大学校(いまの国立予防衛生研究所)の一室である。聞き手は京都帝国大学の高山岩男教授(哲学)、同席していたのは東大教授の矢部貞治であった。海軍大学校校長・及川古志郎は、しずかに語り出した。
「日本は、米英両国を敵にまわして戦っている。こうした事態になった理由はいろいろあるだろうが、その主因の1つは、わが陸海軍の軍人教育は、もっぱら戦闘技術の習練と研究だった」
つまり"戦争屋"つくりに専念したことである。かれは言葉をついだ。
「すべての軍人にとって大事なのは、政治と軍事との正しい関係とはどういうことなのか、ということである。こうした教育をかえりみなかったことが、いけなかった」
及川によれば、それが政治と軍事との間に葛藤をきたし、ついに破綻をきたした。
「この禍根をふかく掘りさげて究明し、文武の統合の道を樹立しないかぎり、日本は救われない」
この時、海軍大学校に呼ばれていた高山岩男は、次のように述べる。
哲学と兵学
元京都帝国大学教授 高山岩男
昭和30年の秋だったと思うが旧知の及川古志郎大将が拙宅を尋ねて参られ、旧陸海軍の中堅だった10名ほどが集まって岡村寧次大将宅で研究会をやっているので、月に1回くらいそこで哲学の話をしてくれぬかというお頼みであった。
実は及川大将とは対米開戦間もなく、海軍大学校長のとき講演を頼まれ、その後彼が兵理学と称したものの研究に協力して以来、大将の悲願を私は知っていたのである。
それは明治以後発足した陸海軍人育成の学校教育は戦闘技術の研究錬磨に全力を注ぎ、将帥に不可欠の「軍事と政治の調和統合」という大事なものを疎かにして来た。この欠陥を修正するのでなければ日本は救われぬ。そのため戦争哲学というかその種の「兵理学」を根本から哲学的に検討し、これを建設したいと悲願を吐露され、協力をもとめられた。
私は明治維新を担当した武士たちをたたき上げた経学・史学・文学の三位一体を大将は現代風に復活したいと願っていると解し、難問中の難問で力はないが、協力を約し、海軍大学校で研究を始めた。その後戦局も苛烈となり、未完のまま敗戦を迎えて、放棄されていたわけである。
(以下略)
「偕行」平成5年3月号 「白団」物語より。
高山岩男のいう
経学・史学・文学の三位一体
が
哲史文
である。
及川古志郎が
文武の統合の道
と言ったとき、
文
として念頭にあったのが、この
哲史文
だ。
第二次世界大戦中の出来事を自分の都合のよいように勝手に
美化・簡略化
し、こうした戦中・戦後の
真摯な反省
を知らず、顧みず、再び
戦闘技術の研究錬磨に全力
を注ぐのと同じ形態の教育に移行しようとしている政府は
先の大戦で命を失った数多の犠牲者への敬意を欠いている
としか、いいようがない。
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