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2018-11-12

江戸と東京

馬場孤蝶(1869-1940)の
 明治の東京
は、国会図書館デジタル化資料から落とすことができる。昭和17年刊行。
馬場孤蝶は、所謂「江戸っ子」ではない。本人は
 十歳の時に東京へ来た
と書いている。孤蝶は明治2年生まれなので、明治12年からの東京を知っていたことになる。

その孤蝶は
 江戸から続いた東京は、震災前に滅びた場所もあれば、震災ですっかり滅びてしまった所も多い
と感じていた。
孤蝶は昭和15年に亡くなっており、『明治の東京』は没後の出版である。孤蝶は東京が空襲で焼けるのは見ずに済んだ。米軍による初の本土空襲があったのは昭和17年4月18日のことだ。震災でほとんど失われた江戸と震災後再建された東京とは、空襲で焼き尽くされた。

さて、その
 震災ですっかり江戸の面影が失われてしまった東京
で、孤蝶はこんなことを書いている。


 東京ではこの頃は一帯に空地が尠くなってゐる。二十年も前までは、牛込、小石川などでも、商業中心になってゐる部分を少し離れると、一寸した家には、七八坪の庭は附いてゐたものであるが、今は餘程場末にでも寄らなければ、庭と言ふべき樣な空地のついてゐる家は餘り無い樣である。(略)
 私の知人で知名のある文學者は、二三代からの所謂江戸っ子であるのだが、その人が嘗つて京都の高等學校へ勤める事になって一年ほど行って居た。
 で、ある年の暮に東京へ歸って來て、正月になって私と一緒に電車に乘って、牛込の田町邊りから、お茶の水まで行った。その間もしきりに窓から外の景色を眺めて居たが、お茶の水で降りて、橋を渡りかけると、その友人は、微笑を含んだ低い聲で、
東京の景色は雄大だねえ」と言った。(略)
 確に東京の景色は雄大だ。私は今市ヶ谷の本村町に居るが、市ヶ谷の外濠の景色は私にとっては何時も心持がいい。市ヶ谷見附、新見附などから見ると、今頃は高臺や濠內の樹の色などが、黃色に色づいてゐて、如何にも秋らしい落着いた眺めである。
 勿論、人工的の景色には相違ないが、始めは人の手で樹を植ゑ、堤を築き、濠を掘ったのであっても、それを自然の懷に任せて少し長く放っておけば、自然はこれを取り上げて何等かの景色にして呉れるのだ。
 東京の町へ殆ど禁錮されてゐるような我々にとっては、さういふやうな自然の景色の中でも、自由にさ迷ふことが何十分か出來る場合には非常な慰藉になると思ふ。

あまりにも建て込んでしまった今の東京を見て、
 雄大
と思う人はほとんどいないに違いない。
 一寸した家には、七八坪の庭は附いてゐた
なんて風情は、よしんば運良く東京大空襲を掻い潜って遺っていたにせよ、バブル期に消滅した。

孤蝶は、「東京の言葉」について、次のように書く。


 殊に明治になっては、東京在來の上流社會は全滅してしまったと云っていい位であるのだから、それ等の社會の傳統ある言葉は消滅し去って、今日の東京語は主に商人、職人の言葉のみが殘った譯であり、それへ持って來て、次第に、地方語からの侵略が加はって行くといふ現狀である。
 今日の東京の所謂身分のいい人々といふのは、大抵地方の身分の餘りよくなかった人々の末であるのだから、その言葉の如きも、從來の標準語の規模から云へば決していいものとは云へないであらう。それ等の子弟で今日物を書く人々の言葉の、從來の日本語の格から云へば、甚だ拙いものであるのは、その父兄たちに言葉の訓練が缺けてゐた爲であらうと思ふ。

 孤蝶は、具体的に誰とは言っていないのだが、明治維新以来の「東京」を振り回して、大威張りな誰か特定の人々を指しているように思われる。これが東京空襲以前の「東京人」の「東京の言葉」なのであり、それから60年以上を経た現在は、もっと事態は進んでいる。
 それでも何故か時々、京都の人が言う「あそこの家は東京の人」の、極めて厳密な「東京」とは認めて貰えない「東京人」が「東京」を振り回すのは変わらないままだ。

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2018-11-06

59歳の暴走 NHK佐賀局長更迭 酔って女性スタッフ入浴中に乱入 籾井勝人会長時代の「あの」秘書室長

なんだって、59歳にもなって
 酔って、女性部下の入浴中に乱入
するんだか、理解不能。
毎日より。


女性スタッフ入浴中に侵入 佐賀放送局長処分
NHKは5日、佐賀放送局の湧川高史局長(59)に「職員の服務規定に反する不適切な行為があった」として、14日間の出勤停止処分にした上で、同日付で局長職を解任し、人事局付に異動させる人事を発表した。
 NHK広報部は不適切な行為について、「関係者のプライバシーに関わるため答えられない」としているが、関係者によると、湧川氏はNHKスタッフらと温泉施設に行き、飲酒後、女性スタッフが入浴していた風呂に侵入したという。
 湧川氏は籾井勝人前会長の在任時に秘書室長を務め、2016年4月25日付で佐賀放送局長に異動していた。【井上知大】

どうやら、
 文春砲
が発動したらしい。

湧川高史前佐賀局長の関係するNHK作成のサイトの記事は、概ねなくなっていると思われるが、さすがにこれは消せない。


NHK新佐賀放送会館の優先交渉権者選定について
新佐賀放送会館建設工事については、施工者選定に技術提案交渉方式を採用して進めてまいりました。
選選定委員会を平成30年8月3日に開催し、優先交渉権者を選定いたしました。
今後は、技術協力業務委託契約に向け交渉を進めてまいります。
(略)
3.審査委員名簿
氏  名 所属・役職
審査委員長 三島 伸雄 佐賀大学理工学部都市工学科 教授
審査委員 日野 剛徳 佐賀大学理工学部都市工学科 教授
審査委員 湧川 高史 NHK佐賀放送局 局長
審査委員 加藤 勝博 NHK技術局開発センター建築施設部 部長
平成30年8月9日

日経によると、2014年3月11日付の次年度管理職人事で、経営企画局副部長から秘書室長へ昇進していた。
人事、NHK
(2014/3/11 0:04)
▽ (3月17日)人事局主幹(秘書室長)大槻悟▽秘書室長(経営企画局副部長)湧川高史

で。
朝日の記事には
 経営企画局副部長時代の湧川高史氏が、当時の籾井勝人会長の国会答弁に、後ろからメモを渡す写真が掲載されている。当時は「二人羽織」と揶揄された。
で、この後秘書室長へ昇進。朝日は2014年3月12日に


朝日◆NHK秘書室長に湧川氏 籾井会長答弁のメモ手渡す
「経営企画局の湧川高史副部長を秘書室長に昇進させる人事を発表」「副部長から局長級の秘書室長への抜擢は異例の昇進。」17時01分

という記事を配信していた(現在はリンク切れ)。

ただ、
 佐賀局長に転出
したのは、籾井会長に「粛清」されたから、というのが当時の『週刊文春』2016年5月5日・12日合併号の見解である。この時は、反籾井派とされた理事4人を解任、政治部長も熊本局長に転出した。

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