江戸と東京
馬場孤蝶(1869-1940)の
明治の東京
は、国会図書館デジタル化資料から落とすことができる。昭和17年刊行。
馬場孤蝶は、所謂「江戸っ子」ではない。本人は
十歳の時に東京へ来た
と書いている。孤蝶は明治2年生まれなので、明治12年からの東京を知っていたことになる。
その孤蝶は
江戸から続いた東京は、震災前に滅びた場所もあれば、震災ですっかり滅びてしまった所も多い
と感じていた。
孤蝶は昭和15年に亡くなっており、『明治の東京』は没後の出版である。孤蝶は東京が空襲で焼けるのは見ずに済んだ。米軍による初の本土空襲があったのは昭和17年4月18日のことだ。震災でほとんど失われた江戸と震災後再建された東京とは、空襲で焼き尽くされた。
さて、その
震災ですっかり江戸の面影が失われてしまった東京
で、孤蝶はこんなことを書いている。
東京ではこの頃は一帯に空地が尠くなってゐる。二十年も前までは、牛込、小石川などでも、商業中心になってゐる部分を少し離れると、一寸した家には、七八坪の庭は附いてゐたものであるが、今は餘程場末にでも寄らなければ、庭と言ふべき樣な空地のついてゐる家は餘り無い樣である。(略)
私の知人で知名のある文學者は、二三代からの所謂江戸っ子であるのだが、その人が嘗つて京都の高等學校へ勤める事になって一年ほど行って居た。
で、ある年の暮に東京へ歸って來て、正月になって私と一緒に電車に乘って、牛込の田町邊りから、お茶の水まで行った。その間もしきりに窓から外の景色を眺めて居たが、お茶の水で降りて、橋を渡りかけると、その友人は、微笑を含んだ低い聲で、
「東京の景色は雄大だねえ」と言った。(略)
確に東京の景色は雄大だ。私は今市ヶ谷の本村町に居るが、市ヶ谷の外濠の景色は私にとっては何時も心持がいい。市ヶ谷見附、新見附などから見ると、今頃は高臺や濠內の樹の色などが、黃色に色づいてゐて、如何にも秋らしい落着いた眺めである。
勿論、人工的の景色には相違ないが、始めは人の手で樹を植ゑ、堤を築き、濠を掘ったのであっても、それを自然の懷に任せて少し長く放っておけば、自然はこれを取り上げて何等かの景色にして呉れるのだ。
東京の町へ殆ど禁錮されてゐるような我々にとっては、さういふやうな自然の景色の中でも、自由にさ迷ふことが何十分か出來る場合には非常な慰藉になると思ふ。
あまりにも建て込んでしまった今の東京を見て、
雄大
と思う人はほとんどいないに違いない。
一寸した家には、七八坪の庭は附いてゐた
なんて風情は、よしんば運良く東京大空襲を掻い潜って遺っていたにせよ、バブル期に消滅した。
孤蝶は、「東京の言葉」について、次のように書く。
殊に明治になっては、東京在來の上流社會は全滅してしまったと云っていい位であるのだから、それ等の社會の傳統ある言葉は消滅し去って、今日の東京語は主に商人、職人の言葉のみが殘った譯であり、それへ持って來て、次第に、地方語からの侵略が加はって行くといふ現狀である。
今日の東京の所謂身分のいい人々といふのは、大抵地方の身分の餘りよくなかった人々の末であるのだから、その言葉の如きも、從來の標準語の規模から云へば決していいものとは云へないであらう。それ等の子弟で今日物を書く人々の言葉の、從來の日本語の格から云へば、甚だ拙いものであるのは、その父兄たちに言葉の訓練が缺けてゐた爲であらうと思ふ。
孤蝶は、具体的に誰とは言っていないのだが、明治維新以来の「東京」を振り回して、大威張りな誰か特定の人々を指しているように思われる。これが東京空襲以前の「東京人」の「東京の言葉」なのであり、それから60年以上を経た現在は、もっと事態は進んでいる。
それでも何故か時々、京都の人が言う「あそこの家は東京の人」の、極めて厳密な「東京」とは認めて貰えない「東京人」が「東京」を振り回すのは変わらないままだ。
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