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2022-04-26

梵巴蔵漢文大蔵経の平行句を探してくれるとんでもないデータベースで、日本語は参加できていない件

ちょっと必要があってPāli語の経典
 Majjhima Nikāya(漢訳の中阿含に相当)
を調べていたら、行き当たったのが
 梵巴蔵漢文大蔵経の平行句を吐き出してくれるデータベース
 Buddha Nexus
https://buddhanexus.net
だ。巴(Pāli)梵(Sanskṛt)蔵(Tibetan)中(Chinese)の大蔵経の文章を適当に入れると、ニューロネットを利用して
 梵巴蔵漢文大蔵経の平行句を即座に検索してくれる
のだ。便利すぎて、一瞬なにが起きたかと思った。その上
 既存の現代語訳
も用意している。

 

このように仏教学でオンライン検索が可能になるまでは、
 平行句探し
は、論文作成の作業ではかなりの時間を必要とするもので、梵巴蔵漢の四つの語学に堪能でないと難しかった。語学の実力が足りず、間違って、似ているけど違うフレーズを引用したりすると、学会やメールで、至極丁寧な言い方や書き方で、しかしながら中身は
 おまえはアホか
という強烈なお叱りをいただいても致し方なかった。
コンピュータが探してくる平行句なので、当然ながら
 結果をそのまま使うのではなく、一応、自力で吟味して使う
という昔と変わらない手順は必要だが
 探し出すための、時間が読めない作業の負担
はぐんと減った。いや〜、
 平行句があるなら、必ず提示せよ
ってのが、今の仏教学の水準ですね。

 

ところで
 現代語訳の部分
なのだが、非常に残念ながら
 日本語訳
は採用されていない。採用されていない理由は推測するしかないが
 著作権等の関連でデータが提供されていない
のだろうと思う。
ああ、もったいない。
せめて
 南伝大蔵経の日本語訳(初版は昭和10(1935)〜15(1940)年)
くらいは、提供できないのだろうか。日本の仏教学の成果がこうした世界的に利用されるだろうデータベースで何も貢献できないなんて、残念で仕方がない。

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2022-04-25

第26回手塚治虫文化賞は魚豊『チ。—地球の運動について—』が受賞 24歲は最年少受賞

今年の第26回手塚治虫文化賞は
 魚豊『チ。—地球の運動について—』
が、満場一致で受賞。
魚豊さん、おめでとうございます。
まだ24歳、哲学科2年で中退、というなかなかの経歴。哲学科に行くくらいで、アーレント読んだりしていて、端倪すべからざる作家。当然ながら
 中二病には罹患済み
で、善悪の二項対立のような凡庸なパースは描かない。

 

昨年の暮れ、ふとしたきっかけでこの作品を知った。画力も台詞も圧倒的。ぐいぐいと引き込まれ、あっという間にKindleで既刊全部揃えちゃったもんなあ。今月18日に完結。単行本の最終巻を待っているところ。
神の摂理に違う
 地動説
を研究する人々は、C教(という設定)の権威を汚す異端者として、無慈悲に拷問され、転向を迫られ、死に至り、焼き尽くされる。1集には
 12歲の天才ラファウ
が登場、寄る辺なき孤児が卓越した知力でこれから地位も力も得られようとしたときに地動説に出会う。真理を探究するか、見過ごして地位と権力への道を進むか。ラファウは前者を選び、凄惨な拷問が予定されていた日の前夜、自ら死を選ぶ。遺体は焚刑に処せられる。
ラファウが残したというよりは、ラファウ以前の地動説研究者達が密かに書き残した所説は、隠され、伝承されていく。
小学校高学年くらいの子どもには、必ず大人も周囲も圧倒する、ラファウのような奴がいる(自殺はしないけど)が、「神童」の手の内を明かしているのが読ませどころだ。

 

続く2集以降では、凡庸な暴力の恐ろしさが淡々と描かれる。
 C教の真理を守る
ために、ありとあらゆる狡知と悪辣な技術を懲らした拷問具が作られ、地動説に関わる者たちに使われる。

 

真理は暴力に屈するのか。是非、一度読んでほしい。
魚豊さんの受賞インタビュー。
前編https://digital.asahi.com/articles/ASQ4P5RCSQ4NUCVL048.html
後編https://digital.asahi.com/articles/ASQ4P5RJ0Q4NUCVL04J.html

 

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2022-04-12

今こそ杜甫を読もう

日本の隣国ロシアが、ウクライナに侵攻して2ヶ月が過ぎた。
コロナ禍も収まらない。
何か正しいこと、何か役に立つこと、何か誰かの力になれること、そうした
 善いこと
をしようとしても、自分の力が及ばないかもしれない。

戦乱と混乱に身を翻弄された人物といえば
 杜甫
だ。
 世の役に立ちたい
と思い続けた男は、そのたび
 時(時勢)
に裏切られ続けた。それでも、杜甫は
 自分が授かった筆の力
を信じた。
住む場所を追われ、地位を失い、食べるものにも事欠くような日々。
いま起きているのとよく似た悲惨な状況のなかで、家族を守りながら、杜甫は詩を紡ぐ。

大学やメディアでは
 コロナ禍下の新しい文学
とか、
 メディアが激変した情報戦争の様相
とか、何か
 わたしたちが今接している状況を「新しそうな看板を掛け替えること」で塗りつぶそう
とする人達がいる。広告屋と同じだ。
よく見直してほしい。歴史の中には、
 今と同じような状況で悩み苦しみ、踏み潰され、あらがった人達
が大勢いる。

人間のすることは昔からそんなに変わらない。
大きな違いは
 人間が簡単に大規模な「天災」を天の代わりに引き起こせるようになった、
ということだ。
 災厄下、戦禍に対して人がどう振る舞えばいいのか
そのことは、これまで何千年も人間が対峙してきた課題だ。

杜甫の生涯もそうした時代だった。彼の詩の一文字一文字は
 鳴くと血を吐くと伝えられる不如帰(ほととぎす)のその血の一滴
と同じだ。
杜甫を読もう。
わたしたちが必要としている標(しるべ)はごくごく近くにある。

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