音楽を手放す
最近、視力の低下は甚だしいのだが、相変わらず、脳は
見えているように見る
画像処理にいそしんでいる。脳が視覚に対してどのくらいの領域をどの程度使っているのか、それはよくわからないけれど
過度の負荷が掛かっている
のは否めない。
わたしの生活史で顕著な視力低下は、何度も起きているのだが、その度に視覚情報処理のために過度の負荷が生じ、それを補うために
何かを手放す
ことでつじつまを合わせてきた。
最近は、とうとう
音楽を手放す
ことになった。
自覚して手放すわけではない。それと意識せずに
本当に音楽を聴かなくなった
のだ。たぶん
音楽を楽しむ
のは、今起きている脳内の画像処理の過負荷と
バッティング
するところがあるのだろう。
ただ、
外国語を聞き取る
領域は、がんばって死守している。目の調子が悪くなると
外国語の聞き取りに難が生じる
のは、海外調査の時に、何度も経験している。調査で短期間に目を酷使すると、最後は
音が聞き取りにくくなる
のだが、その中でも
外国語を聞き取る能力
がダメになりやすいのだ。
これを守るためには、
行動制限
が一番効くので、最近は外出は必要最小限にとどめるように心がけている。
まあ、
この視力で墨字が読める
こと自体、14歲の頃に
眼科の常識ではほぼあり得ない
ことだと主治医や弱視学級の恩師が驚いていたので、文字を読み、外国語を聞く生活を続けるためには、健常者と同じことを同じようにするのは贅沢にも程があるというものだ。
そもそも
文字を読む
ことが、
最高の贅沢
である身体能力しかなかったのだから。健常者の研究者が、いきなり大学生の頃のわたしの視力になったら
研究者の道を断念する
だろう。でも、それが始まりで、よく見えると言うことが理解出来なかったから、あまり深く考えずに、文字を読み、外国語を含む言葉を聞き、勉強を続けてきた。
他の人には
目が悪いわたしが文字を読み続けるのは、まあ、喩えるなら、アルコール依存症になっても、酒を飲み続けるようなものですよ
と説明すると、なんとなくわかってもらえる。
今の状態は
反射光は見にくいが、透過光ならOK
なので、パソコンやタブレット経由で拡大して文字を読むことが増えた。その点、現代の
国会図書館デジタルコレクションの充実
や
電子書籍出版
は、仕事の大きな助けとなっている。
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