2018-04-30

春の叙勲 よく見るとアグネス・チャンとジェーン・バーキンが

春の叙勲の名簿を見ていたら、


 ◇旭日小綬章
アグネス・チャン=陳美齢(英、元日本ユニセフ協会大使)62
ジェーン・バーキン(英、歌手・女優)71

と続いて名前が挙がっているのでびっくり。

アグネス・チャンは今更説明の必要がないだろうが、カンボジア難民救援会のアグネス・チャンじゃんね。みんな忘れているかも知れないけど。
で、
 ジェーン・バーキンといえば「エルメスのバーキン」
ですよ。バスケットに荷物を詰め込んでいるバーキンと隣り合わせに座ったエルメスの当時の社長が、
 全部入れられるバッグを作ってあげましょう
と作ったのが、あのバーキンというわけですね。

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2018-01-22

川合康三・富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋二・緑川英樹訳注『文選』詩編(一)岩波文庫 2018年1月16日

満を持して
 『文選』詩編 現代語訳の岩波文庫本
の刊行が始まった。
訳注には
 川合康三(唐宋文学)
 富永一登((六朝文学)
 釜谷武志(漢代〜六朝文学)
 和田英信(中国古典詩全般と日本漢文)
 浅見洋二(唐宋文学)
 緑川英樹(唐宋文学)
の六氏が携わっているので、twitter上では早速
 「六人注文選」
なる愛称がついた。現在、『文選』の詩編を読むのには最適な六人の中国文学研究者が選ばれたと言って良いだろう。専門は必ずしも六朝文学ではないのが『文選』という書物の「あり方」を如実に示している。
川合康三先生の巻末「あとがき」によると、この『文選』詩編の刊行に当たっては、
 岩波の編集者も参加した上で、毎月一回、数年間かけて担当者が訳注を作成し、更に数年掛けて、訳文や注釈に手を入れて、一般の読者が読みやすい形にした
旨が書かれている。『文選』を読むためには、膨大な「下調べ」が必要だ。その
 水面下の水鳥の水掻き
の部分は、本文からは窺い知れないほど、徹底的に手が入っている。

『文選』を大学の中国文学専攻の学部演習で読む場合の標準的なやり方は次の通りだ。
1. 中国音を調べ、まず中国音で通読する(大学によっては省略されるかも知れない)
2. 伝統的な「漢文訓読」で訓点(返り点と送り仮名)を付す
3. 韻文(詩は韻文)の場合は、押韻の箇所を指摘し、韻の種類を『廣韻』で調べる
4. 典拠のある語を調べて説明し、意味を述べる(『文選』の場合は、李善注の中味を調べ、かつそれでも足りない部分を補う)(補注: 典拠はもちろん、原典にあたる。すでに佚書になっている場合は、その旨も指摘する。出典『大漢和辞典』なんてことをやらかすと、その後、研究室内で信用を失う)
5. 全体を通釈する(通釈では、場合によっては五臣注や日本にのみ残る『文選集注』も参照して訳文を作成する。読みがたい語の場合は、日本の訓点を援用することがある。)
学部の授業では、大体、1首に1時間掛ける。
京大中文では
 3-4回生の必修科目
であり、
 古典文学志望だろうと、現代・当代文学志望だろうと、『文選』を読む
ことになっていた。わたしが3回生の時は、残念ながら、川合康三先生が、1年間の在外研究で、Harvard大学燕京研究所に出られたので、半年だけ巻三十一「江淹雜體詩三十首」を途中までやって終わった。わたしは「班婕妤 詠扇」を担当した。
岩波の
 『文選』詩編読解月例会
では、中国音で読んだかどうかはともかく、上記の手順で、まず担当者のレジュメがたたき台となり、一つ一つ訳語や注釈する語彙の取捨選択が行われたことと思われる。

ところで京大中文が
 『文選』必修
なのは、
 『文選』成立以降の中国文学が『文選』抜きでは成立しえなかった
からである。

中国の高等文官選抜試験である科挙では、詩文の才も試されるのだが、その基礎的な準備に『文選』は「デファクトスタンダード」の教科書として君臨した。唐宋以降の文学では、『文選』に典拠を持つ言葉が広く「文人間の常識」として用いられている。
 中国の文人
とは
 職業的作家
だけではなく、
 科挙をパスした秀才たち(=高級官僚試験の合格者の称である)
が含まれる。「秀才」彼らこそが
 世を動かす実利の世界で官界遊泳しつつ、新しい時代の文学の基準となる作品を生み出す役割も果たす
のである。
科挙合格には、『文選』内の語句を薬籠中のモノとするだけでは足りなくなるのが宋代後半で、川合康三先生は、「解説」で

つまり『文選』は一見さも文学らしい詩文を作るために必要な素材であったとともに、独自の文学を創ろうとする者にとっては克服すべき対象であったのだ。

と鋭く指摘している。この「解説」は『文選』を足掛とした中国文学史の端的な見取り図でもある。今後、大学の教養程度の中国文学史概説・漢文学概説等の講義では、必ず「参考文献」としてあげられることとなるだろう。
すでに訳稿は完成しており、今後逐次出版されることとなる。全六巻の刊行が待ち遠しい。
また、川合康三先生の「解説」では、昭明太子蕭統の序に関説されているのだが、
 漢文に馴染みの薄い一般読者
のためにも
 是非、二巻以降に「文選序」の訳注も入れて頂きたい
ものだ。

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2017-12-05

羅繼祖「跋新修本草」

今となっては、最善本ではないので、再び刊行されることはないだろうけれども、1985年に上海古籍出版社から景印出版された
 森立之手鈔『新修本草』
には、この本を中国に持ち帰った
 羅振玉
の孫である
 羅繼祖の跋
がついている。当時としては丁寧な出版で、平装版だけど、景印は美しいし、朱書や朱印はちゃんと朱で印刷されている。
何故、羅振玉が森立之の手鈔本を持ち帰り、孫の繼祖が跋を書くことになったかは、本文を読むと分かるのだけど、現在はあまり注意されていない文章のように思うので、ここに転写する。
文字の誤りがあるかも知れないので、その点はご寛恕下さい。



《新修本草》影鈔本十卷(十冊) 先祖羅振玉於光緒辛丑(一九〇一)奉兩江、湖廣兩督赴日本視察教育時,得之於東京書肆。每卷後有森氏手跋。越七年,又由先祖題識於卷端。先祖比次去日,買到許多醫書。其中影寫和舊鈔,大都為森氏開萬冊府藏本,有些還有森氏題識。先祖對這些書都曾一一作跋。
 先祖見背,楹書零落,即《大雲書庫藏書題識》所著錄的也已多數易主。惟此《新修本草》殘本和明正統陝西官本《玉機微義》(亦爲森氏舊藏),仍保存在我手裏。一九七九年夏,我讀了吳德鐸同志《從<新修本草>看中日兩國的學術交流》一文(《中華文史論叢》一九七九年第二期),其中說到:
 「在羅振玉所寫這篇書錄(按指書端題識)中,有一個非常重要、値得中日兩國本草學、科學史和版本書志學者注意的問題……日本學術界影印他們所存的天平寫本時,只找到六卷,其它四卷(卷十三、卷十四、卷十六及卷二十)連同小島父子補輯、仿寫的卷三均不知去向。値得重視的是,羅振玉所得的十卷,不僅有這四卷,並且都是據仁和寺本傳寫的,它們恰好正是仁和寺本所藏在日本己亡佚的部分。……」
 呉文還訂正了先祖在題識中把「六」寫成「八」的筆誤。
 這部書從光緖辛丑到現在,在我家整整八十年未見天日,現在經有關方面的努力,由上海古籍出版社影印出版,爲中日兩國的本草工作研究者提供實物資料,實在使我感到欣慰。正如吳文所說,《新修本草》能引起中日兩國學術界普遍的重視,是和日本幾位醫學名家多紀、小島、森、澁江等的辛勤勞動、努力鑽研分不開,而他們的這種精神也是値得兩國人民學習和欽敬的。至於森氏此本與他本的異同,以及吳文指出的各點,需要專家們去深入研究,恕我不在這裏再贅一辭了。我的跋文,也只想明一下這部書能保存在我家直到今天的經過。
 又,先祖《敦煌本本草集注序錄跋》(《永豐鄕人稿》乙下)裏提到藏有一部日本醫家森約之校輯的本草集注手稿。森氏此書曾由我在先祖去世後讓給了日本黑田源次博士,至今可能還藏於遼寧醫科大學圖書館。這是森氏的一家之學,如能就原稿整理印行,也是兩國醫學界的盛事,很希望它能夠實現。
羅繼祖 一九八〇年九月七日於長春吉林大學宿舎之後書鈔閣

1980年代前半というと
 日中友好
は日中両国のスローガンであり、中国は日本からの円借款などで、近代化を推し進めていた時期である。
こうした時期にこんな形で、森立之手鈔『新修本草』が出版されていたことは、覚えておきたい。

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2017-10-16

清・王念孫『讀書雜志』が「王念祖」になっている件@北京大学図書館/archive.org

必要があって
 高郵王氏父子の著作
を見なくちゃいけない。
こういうときは
 近年、北京大学図書館がコレクションに寄与
している
 archive.org
を覗くと、いいことがある。

果たして、あったのだけど、これ何だ?
20171016_140301
拡大
Bd
 王念祖
って誰よ?

登録する時に誰かがタイプミスしてそれっきりなんだろうけど
 王念孫
に直しておいて欲しいものだ。

archive.orgだけど、最近は
 素直に漢字で検索が通る
ようになっていて、超便利。

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2017-09-24

Nスペ 総書記 遺(のこ)された声 日中国交 45年目の秘史@9/23 21:00-21:50(再放送は2017年9月28日(木)午前1時00分~1時49分=27日深夜)

1989年4月15日、「百花斉放・百家争鳴」路線を掲げた結果、中国共産党の「中共八大元老」ら保守派の巻き返しによって失脚した胡耀邦元総書記が亡くなった。これが天安門事件の起きるきっかけとなる。胡耀邦元総書記の掲げた「百花斉放・百家争鳴」のスローガンを掲げ、自由を求める民主化推進派の学生達を中心とするグループが、連日北京市内で民主化を求める集会を開く。この民主化を求める潮流は、一党独裁の中国共産党の存在意義を脅かすものであり、遂に首都北京に軍隊を投入、中国共産党による公の場での人民弾圧、6月4日の「(第二次)天安門事件」に至る。虐殺された犠牲者の遺体を引き取りに行くと逮捕されるために、家族や知人は、現場にも病院にも近づくことが出来なかったと伝えられている。
投入された人民解放軍には少なからぬ少数民族も含まれていた。北京語を理解出来ない少数民族を投入することで、効果的に戦略を進めようとしたのであろう。まだ事が起こっていなかった時、中央民族学院の少数民族の教員や学生が、北京市内に駐留している少数民族の兵士達への通訳を買って出て、侵攻を食い止めようとしたが、その努力は水泡に帰した。市民虐殺に手を貸した1人が、「中共八大元老」の1人でもある四川の楊尚昆で、その手兵と称された27軍が天安門事件の虐殺を行った軍隊の1つと言われている。

『白い巨塔』や『大地の子』で知られる山崎豊子は胡耀邦総書記在任時に3年に渡り、複数回、異例の長時間インタビューを許され、しかも録音も残すことが出来た。
山崎豊子の残したカセットテープを発掘、その中から、日中関係に関する重要な発言をピックアップした番組がこのNスペである。
80年代当時は、日本の首相と中国の総書記とは、何かあったらすぐに話せる関係だった。日本の援助によって、いまの中国の発展の基礎が築かれていたその時期だ。圧倒的な経済的な格差が、こうしたことを可能にしていた。中曽根康弘元首相の靖国参拝直後に、中国との調整が図られたこともその1つだ。(翌年は参拝していない)歴史教科書の記述についても、速やかに調整が図られた。
胡耀邦総書記が長老派に断罪されて「下台」した時に挙げられた「罪科」の1つが「日本の青少年3000人を中国に招待した」だった。菅直人もその時訪中した1人である。
 「日中関係をこれからの若者に委ねて、更に発展させたい」
という胡耀邦総書記の意向は、中国共産党の保守派にとっては、歓迎すべきものではなかった。この胡耀邦総書記の3000人招待時に総書記の傍で日本語通訳をしていたのが唐家璇(のちの外交部部長)。今回のNHKの番組では「胡耀邦に関することなら」と異例と言っていいほど大物達が取材に応じているのだが、唐家璇元国務委員もその1人。唐家璇は、「天安門事件が日中関係を決定的に変えた」と発言している。
なお、番組内では胡耀邦の「愛国主義が「誤国主義(自国の利益のみを追求し、他国を顧みない偏狭な愛国主義)」になってはいけない」という発言を繰り返し使用している。
すでに経済規模で中国に抜かれ、科学技術や教育水準でも後塵を拝しつつある日本と、「核心」習近平国家主席の中国が、かつて胡耀邦総書記の中国が目指していた日中関係に戻ることはないだろう。
しかし、今回のこのNスペ、中国では当然配信厳禁なのだろうな……。
中曽根元首相は、胡耀邦総書記の墓参を中国に打診したが一度も許されておらず、10年前に、供養のために90本の桜を贈り、墓の周りに植えて貰った。今回、胡耀邦の息子が来日して、中曽根元首相を訪問、墓に咲く桜の様子などを見せていた。不名誉な状況で亡くなった胡耀邦の子息もまた、父の名を大声では語れない日々が続いているという。

おまけ。

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2017-09-21

中島長文校・伊藤令子補正『魯迅『古小説鈎沈』校本』(全780ページ、10.99 MB)のデータを公開@京都大学学術情報リポジトリ紅

魯迅が手がけた
 古小説鉤沈
は、類書などから
 散逸した隋以前の「古小説」を輯佚
したものだが、類書からの輯佚には底本の問題等が存在し、また、当時の魯迅の研究環境の問題もあり、必ずしも、文字が正しいとは限らない。
今回、京都府内に現在住んでいるか、府内の機関に所属している(伝統的な)中国学研究者対象の研究助成
 橋本循記念会研究助成
を平田昌司先生が代表者となって受け、中島長文先生、伊藤令子氏が手がけた
 魯迅『古小説鈎沈』校本(電子版)
が完成し、京都大学学術情報リポジトリ紅にアップされた。全部で780ページ、11MBほどの大作だ。
魯迅『古小説鈎沈』校本
斯界を裨益すること大である。改めてお三方に感謝を捧げたい。

目次を掲げておく。[]内の数字はページを表す。


目次:
『古小説鈎沈』校本序 [1]
附録(旧序 一・旧序 二) [7]
校例 [11]
『古小説鈎沈』主要校勘書目 [15]
目次 [21]
古小説鈎沈序 [25]
青史子 凡三條 [27]
裴子語林 原輯一八〇條 刪三條 新附一一條 凡一八八條 [30]
郭子 原輯八四條 刪二條 凡八二條 [101]
笑林 原輯二九條 新附一條 凡三〇條 [130]
俗説 原輯五十二條 新附一條 凡五十三條 [141]
殷芸小説 原輯一三六條 刪二條 新附二〇條 凡一五四條 [158]
水飾 [228]
列異傳 原輯五十條 新附五條 凡五五條 [232]
古異傳 凡一條 [260]
戴祚甄異傳 原輯一七條 新附二條 凡一九條 [261]
祖沖之述異記 原輯九〇條 新附三條 凡九三條 [270]
荀氏靈鬼志 原輯二四條 新附一條 凡二五條 [312]
祖台之志怪 凡一五條 [326]
孔氏志怪 凡一〇條 [335]
神怪錄 原輯二條 刪一條 凡一條 [342]
劉之遴神錄 凡三條 [343]
齊諧記 原輯一五條 刪一條 凡一五條 [345]
幽明錄 原輯二百六十五條 新附十一條 凡二百七十六條 [355]
謝氏鬼神列傳 凡一條 [498]
殖氏志怪記 凡二條 [499]
集靈記 凡一條 [500]
漢武故事 原輯五十三條 刪一條 新附十三條 凡六十五條 [501]
妬記 凡七條 [548]
異聞記 凡二條 [554]
玄中記 原輯七十條 新附二條 凡七十二條 [556]
陸氏異林 凡一條 [584]
曹毗志怪 原輯一條 新附一條 凡二條 [586]
郭季産集異記 原輯十一條 新附四條 凡十五條 [588]
王浮神異記 凡八條 [593]
續異記 凡十一條 [596]
錄異傳 凡二十七條 [601]
雜鬼神志怪 原輯二十條 新附二條 凡二十二條 [619]
祥異記 凡二條 [633]
宣驗記 原輯三十五條 新附一條 凡三十六條 [635]
冥祥記 原輯百三十一條及自序 新附三條 凡百三十四條 [655]
旌異記 原輯十一條 新附二條 凡十三條 [758]
後記 (平田昌司) [769]

おまけ。

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2017-01-29

「云云」と書いて何と読む? 余聞

現代日本語で
 云々
と書いてあったら
 うんぬん
と読むのだけれども、その話を聞いて思い出したのが
 『史記』封禪書
だ。
 封禅(ほうぜん)
とは、中国の帝王が行った
 とんでもなく大規模な祭祀
である。吉川忠夫先生による『世界大百科事典』の定義より。


中国の帝王がその政治上の成功を天地に報告するため,山東省の泰山で行った国家的祭典。〈封〉と〈禅〉は元来別個の由来をもつまつりであったと思われるが,山頂での天のまつりを封,山麓での地のまつりを禅とよび,両者をセットとして封禅の祭典が成立した。

もともとは、
 山頂で「封」、山麓で「禅」の祭
を行っていたのだが、その後両方を
 泰山で行う
ことになった。上記記事は次のように続く。

封禅説の成立は戦国末以後のことであって,それには方士が深くかかわっていたものと考えられる。史実として確認できる最初の封禅は秦の始皇帝28年(前219)に行われたそれであり,つづく漢の武帝の元封1年(前110)に行われたそれによって詳細が明らかとなる(略)その後,後漢の光武帝,唐の高宗や玄宗,宋の真宗たちも莫大な国費を投じて封禅を行った。

で、

泰山において政治上の成功の報告を行うとともに不死登仙を求めるところの封禅の説

という封禅を行うことが、
 中国皇帝の見果てぬ夢
となった。

で、
  『史記』封禪書
には、春秋時代の知恵者、斉の管仲が述べた
 過去の帝王が封禅の祭を行った山の名前
が列挙されている。管仲は、これまでに72人の帝王が封禅の儀式を行ったけれども
 名前を覚えているのは12
として、封禅を行った帝王と祭を行った山の名前を挙げていくのだが、


無懷氏封泰山、禪云云虙羲封泰山、禪云云神農封泰山、禪云云炎帝封泰山、禪云云、黃帝封泰山、禪亭亭。顓頊封泰山、禪云云帝俈封泰山、禪云云封泰山、禪云云封泰山、禪云云、禹封泰山、禪會稽。封泰山、禪云云、周成王封泰山、禪社首。

無懐氏以下9人の古の帝王が、
 云云山で禅の祭を行った
と言っている。
「云云」は、山の名としては
 うんうんさん
であって、
 うんぬんさん
ではないらしい。

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2016-11-12

日本道教学会第67回大会@本日 京都大学文学部 一般来聴者歓迎

本日開催なのだけれども、
 日本道教学会第67回大会

 京都大学文学部
で開かれる。
一般来聴者歓迎とのこと。大会参加費は1500円。
Photo

研究発表会場 京都大学文学研究科第三講義室

研究発表 9:30-15:00(昼休み 12:00-13:00)
特別講演 15:15-17:05

午前の部
9:30-10:00
姜生(四川大学)「張道陵以前儒生的道教」 司会 三浦 國雄(四川大学)
10:00-10:30
垣内 智之(大阪市立大学)「『大洞真経』の再検討」 司会 亀田 勝見(福井県立大学)
10:30-11:00
金 志玹(ソウル大学)「道教の傳經儀禮における臨壇三師について」 司会 小南 一郎(泉屋博古館)
11:00-11:30
坂内 榮夫(岐阜大学)「『莊子口義』と禪について」 司会 中西 久味(新潟大学名誉教授)
11:30-12:00
加藤 千恵(立教大学)「鉛汞小考」 司会 都築 晶子(龍谷大学名誉教授)
午後の部
13:00-13:30
野村 英登(二松学舎大学)「内丹と築壇―翁葆光の『悟真篇』解釈とその展開」 司会 横手 裕 (東京大学)
13:30-14:00
谷口 綾(日本体育大学)「元代の医家と儒医―龍谷大学所蔵『家伝日用本草』をてがかりとして」 司会 武田 時昌(京都大学)
14:00-14:30
頼 思妤(東京大学大学院)「「墨杘谷」から「雉衡山」へ―楊爾曾の道教系出版事業と明代女仙信仰」 司会 森 由利亜(早稲田大学)
14:30-15:00
松家 裕子(追手門学院大学)「新宝巻」にみえる信仰のありかた―孤魂と免災― 司会 土屋 昌明(専修大学)

特別講演(15:15-16:05)
黎 志添 (香港中文大学道教文化研究センター長)『太乙金華宗旨』の浄明起源問題 ― 清初常州における呂祖乩壇信仰と浄明派の関係から 講師紹介 金 志玹 (ソウル大学)
特別講演(16:15-17:05)
麥谷 邦夫(京都大学名誉教授)「三教論爭から見た道教」 講師紹介 神塚 淑子(名古屋大学)

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2016-08-11

上代文献を読む会『上代写経識語注釈』勉誠出版 2016.2 14040円 あるいは何故「漢文」は舐められるのか(追記あり)

大学の同級生が
 上代文献を読む会『上代写経識語注釈』勉誠出版 2016
を贈ってくれた。多謝。正倉院展というと、きらびやかな工芸品よりも
 文書や仏典
に張り付いて眺めているわたしの好みに合わせてのことだ。まあ、正倉院展に出陳される仏典であれば、経題を見ないで、
 その場で読んで、どういう類の仏典のどの部分か当てるのを楽しみにしている
わたしも大抵なのだが。

総頁704頁に及ぶ巨冊だし、日本語で書かれた上代関連の文献は精査してあり、その点は非常に有益である。
何年もかけた研究会の成果で
 大変な労作
なのだけれども、一言で言えば
 甚だしく勿体ない
のだ。何が勿体ないかというと
 研究班に、中国学や中国仏教もしくはインド仏教のプロパーの研究者が含まれてない点
である。もし、
 中国学や中国仏教もしくはインド仏教のプロパーの研究者が含まれていた
ならば、本書は
 国内の古代史研究者のみならず、海外の仏教学・日本学・中国学の研究者を裨益する必携の書物
となっていただろう。学際的研究班を編成できなかったのは、大変に惜しいだけでなく、そうなっていれば、参加者にとっては
 出典調べや読解の苦労が半減
していたことは間違いない。

彼我の差は大きい。
たとえば
 岩波文庫 『高僧伝』
の共訳者である
 船山徹京大人文研教授
は、
 元々は印度学(仏教学専攻)の出身で、梵文で仏教論理学を研究していた研究者
である。京大の印度学では、梵語やPāli語、Tibet語等の古典文献は読むが、漢文は扱わなかった。漢文仏典は
 自助努力
で読むことになっていた。
船山教授は、その後、人文研に入り、みっちりと漢文の研鑽を積み、吉川忠夫先生と共に、岩波文庫の『高僧伝』の訳注を作った。吉川先生に直接伺ったところでは、あの詳細な注に
 船山教授の貢献は極めて大きい
とのことだった。

当時のカリキュラムでは、印度学で、2年間、学部で学ぶと
 漢訳仏典から元の梵文が透けて見える
ようになる。船山教授は、その上で
 漢文の仏教文献を読んでいる
のである。

上代の写経識語においても、同様に
 印度学と中国学の両方への目配りは欠かせない
のだが、残念ながら、本書の場合、
 漢語の用例は追っている
けれども、
 仏教用語に梵語等インドの言語による注がついてない
のである。漢訳では、一つの梵語に
 いくつも別な訳がついている場合
がある。こうした「差異」は
 元の梵語(なければやPāli語等)を示しておけば、混乱せずに済む
ので、仏教学の論文では、
 梵語に戻しておく
のが普通の手続だ。そうしたことが行われてないことからも
 印度学プロパーはいない
ことが分かる。
(追記 8/12 1:00
梵語に戻すというのは
 卒塔婆(skt. stūpa)
といったように
 注記しておく
ということだ。一々、全ての漢語を元の梵語にして、説明をせよ、ということではない。
もし、「梵語」に戻さないと何が起こるか。
漢訳仏典は、その訳出年代により
 古訳(鳩摩羅什〈skt. Kumārajīva 344-413〉以前の漢訳。)
 旧訳(鳩摩羅什以降、玄奘(600-664)以前の漢訳)
 新訳 唐・玄奘訳
に分けられる。新訳は、言語的に正確な飜訳を期したものだが、流麗さにおいては、鳩摩羅什訳には及ばないため、読誦には、今でも鳩摩羅什訳が使われていたりする。
例えば、般若経類で、最も古い漢訳は後漢の桓帝の建和元(147)年に首都洛陽に来たった支婁迦讖による
 『道行般若経』(大正蔵8、No. 224 訳出は霊帝の光和二(179)年)
であるが、梵本やその断片(1-2世紀)が見つかっており、唐の玄奘訳までに次のような異訳がある。
 呉・支謙訳『大明度経』
 前秦・曇摩蜱・竺佛念訳『摩訶般若鈔経』
 後秦・鳩摩羅什訳『小品般若波羅蜜経』
 唐・玄奘訳『大般若波羅蜜経・第四会』
 同『第五会』
これらの異訳経の中で、梵本に現れる
 māra(魔)
の訳語を比較すると
 弊魔 『道行般若経』
 弊邪 『大明度経』
 弊魔 『摩訶般若鈔経』
 悪魔 『小品般若波羅蜜経』
 悪魔 『大般若波羅蜜経・第四会』
 悪魔 『第五会』
となる。こうした「弊魔」「弊邪」「悪魔」いずれも
 māraの訳語
であり、個々の漢語をそれぞれ比較するだけでは、混乱に終わるだろう。中国語の初期の仏教用語の多くが訳語から生まれたものである以上、梵語の注記は、不要の混乱を避けるために行う。
(以上、
 中國宗教文獻研究國際シンポジウム報告書( 『佛典漢語 詞典』の構想 / 辛嶋靜志
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/65875/25/02Karashima.pdf
を参照のこと。)
(追記終わり)

この研究会に、中国学プロパーの研究者がいなかったことは、注釈のあちこちで触れられる
 出典調べの内容
で明かである。例えば、何の断りもなしに
 『書経』舜典
と書いてあると、やはりガッカリしてしまうのだ。現代の研究書であれば、何故、『偽古文尚書』の篇立てに従って出典を示したのか、一言書いておかねばなるまい。(ちなみに、先師尾崎雄二郎先生の『説文解字注』の学部・大学院共通演習で
 舜典
などと言おうモノなら、例え、その年初めて参加した3回生であろうとも許してもらえなかった。)
(追記 8/12 1:50
もし、『偽古文尚書』を使うのであれば、最初に
 五経の引用は『五経正義』に従う
と断っておけば良い。そのようなコメントなしで
 『書経』舜典
と書くと、日本の儒学経典受容史を知らない、一般的な中国儒学研究者である
 海外の研究者から無知を疑われる
ことになる。
追記終わり)
(追記 8/12 3:30
ところで「平成」だが、俗説によると、当時の竹下登首相はいたく「平成」を気に入っていたとかで、検討資料には「平成」が大きく書いてあり、他の候補とは扱いが違った、と伝えられている。
追記終わり)
(追記 8/12 11:30
『偽古文尚書』について。『集英社世界文学大事典』より。


中国,『尚書』(『書経』)のテクストの一種。58編。このテクストのうち,偽作の明らかな25編のみを『偽古文尚書』と呼ぶ場合もある。直接に現在のものにつながる『尚書』のテクストは東晋(とうしん)初年に出現した。そのテクストの大半の編は古い『今文(きんぶん)尚書』などを引き継いだものであったが,そのうちの25編は当時すでに失われていたものを古い引用文などによって補いつつ偽作したものであった。このテクストは,それまで序だけがのこり,本文が失われていた諸編が補われた,より完全なかたちをのこす『古文尚書』(古文とは,古い字体をいう)が新たに発見されたとして,公表された。(略)このテクストは『偽古文尚書』と呼ばれ,それに付けられていた孔安国の注も,漢代の孔安国のものではないとして,『偽孔伝』と呼ばれる。このテクストが唐代の『尚書正義』に採用されて,現行の『尚書』のテクストの基礎になったが,それに偽作の編が含まれていることについては,明清(みんしん)時期に閻若璩(えんじやくきよ)らによって最終的に確かめられた。
(小南一郎)

竹内照夫『四書五経 中国思想の形成と展開』東洋文庫 p.204上

『書経』も文献学的には多くの問題を持つ経書であり、近世以後の研究によると、漢代にまず今文書経が作られ、おくれて古文が発見されたが、古文の方が内容が多かった。しかし、漢朝の末から六朝の初期にかけて書経の原本は二種とも亡失され、そのころにたれかの再編集した古文テキストに従うものが、今に伝わる書経で、これには偽作的付加のあることが明瞭であって、正式には『偽古文尚書』とよばれているのである。

「舜典」について。
『孟子』萬章上
堯典曰、二十有八載放勛乃徂落、百姓如喪考妣、三年、四海遏密八音。
この『孟子』が「尭典」として引用する部分は、現行『尚書』では、「舜典」となっており、篇次が異なる。
(追記終わり)

中味は日本のものであっても
 漢文は元々は中国の文語文だ
という観点は必要だ。それも
 上代の漢文であれば、中国語との距離は今の日本語よりは余程近い
だろう。
 その漢文の作者に、漢文を教えたのは、「日本人とは限らない」
からだ。もちろん、日本の漢文には、
 和習
という問題も存在するけれども、それよりはまず
 正格の中国語文語文がきちんと読めるか
というところから始めるのが正攻法ではないのか。
 漢文訓読
とは、
 シンタックスの異なる中国語を日本語で読むための便法
であり、そもそも
 漢文は中国語であり、「外国語」だ
という意識がないと、思わぬ読み違いをしてしまう。少なくとも、上代の漢文を扱うのであれば、当時の日本の文化人の基礎教養の一つであり、木簡にもその名が出てくる
 『文選』
と、正倉院文書に書写や所蔵の記録が残っており、仏教関係者なら読んでいたと思われる
 『弘明集』
辺りを少し勉強しておいてから、読み始めても遅くはない。また、これも常識だが
 士大夫の中国語文語文(『文選』)と僧侶の中国語文語文(『弘明集』)とは性格が異なる
ので、片方のみで済ませるわけにも行かない。オーソドックスな中国語文語文はもちろん
 士大夫の漢文
である。僧侶の漢文は
 仏教梵語同様に「変格」の漢文
になる。
いくら上代の漢文であろうとも、
 書き手は、少なくともかなりの教養人
だから、
 識語を書いている人々の教養に追いつくという意識
がないと、
 見通しの悪い読み
になってしまうし、何より
 書き手への敬意を欠いている
のではないか。

『文選』や『弘明集』では
 駢文
にも立ち向かうことになる。実際、本書が扱う
 上代写経識語
には
 駢文
が用いられている箇所があるのだが、残念ながら
 駢文の構造に慣れていない
ようで、読み違えている部分がある。こうした辺りも
 中国学プロパーの研究者が参加していなかった
ために起こった躓きだろう。

もう、二十年近く
 古代史をやるのなら、中国語を習得して、それから漢文も中国語で勉強して欲しい。その方がわかりやすいし、いい教科書があるから。
と言っているのだが、大体は
 そんな面倒なことはイヤだ

 あくまで漢文で読めれば良い
と答える。それは、
 五経や『文選』等を当然の教養として勉強していた古代の書き手
よりも
 学力が劣る状態で「読む」
ことが、いかに不利であるかを自覚していないのではないか。

日本人は、明治まで
 教養人は漢文を習得
していた。もし、これまで中国語を習得していない、国史や国文を学んだり、研究している人々が
 漢文文献を扱う
予定があるならば、1日少しの時間でいい、いきなり『文選』は無理だし、独学は難しいから、高校の教科書にもその中の作品が採用されている
 唐宋八家文
辺りから少し選読するなりして、
 当時の日本人の中国語力に近づく努力
をして頂きたい。

しかし、
 勉誠出版
って
 日中文化交流史関連の出版
を手がけているんだけど、どうも
 中国学関連の校閲が甘い
ような気がしますね。それとも
 本書については、筆者達しか校閲に携わってない
のだろうか。そうだとすると、気の毒な話である。

おまけ。

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2016-07-15

例文が笑える「日語流行口語宝典bot」 中国で日本語を学ぶ若者が「使いたい日本語」満載

twitterには、時々TLを眺めて和めるように
 ひと味違ったbot
を入れてあるのだが、語学系botの内では、
 日語流行口語宝典bot
が気に入っている。元になってるのは2005年に出版された
 流行口語宝典系列-日語流行口語宝典(カセット付)
で、著者の李成一氏は韓国人とのこと。

たとえばこんな調子だ。











とまあ、こんな調子。
当然ながら
 初級中国語教材
としても使えるわけで、そこら辺の初級中国語教材とはひと味違うところが良い。

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