展覧会の図録が残念な解説になるのは何故なのか
今日から始まった、金沢文庫の
至高の宝蔵 称名寺の国宝開帳
を見に行く。
図録は
綴じてない図録
で、斬新というか、管理が面倒。
見たかったのは
文選集注
なのだが、解説がちょっと残念。中国学が専門じゃない書き手なのだろう。中国学の専門家なんてそこらにたくさんいるのだから、ちょっと聞けば簡単にもうちょっと良くなるのになあ。
『文選集注』の解説、途中から。
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(『文選』は)日本でも古くより難読の書として知られています。
巻四七は、曹子建(一九二~二三二)の「贈徐幹」と「贈了儀」の二首の五言詩に対する注釈がみえます。曹子建は、魏の曹操(一五五~一二〇)の第三子で詩文を好みました。徐幹(一七一~二一七?)と丁儀も、曹子建とともに中央から退けられ、政治的不遇の人生を歩んだ人びとです。
巻六二には、江文通(四四四〜五〇五)の「雑体詩三十首」のうち「劉太尉傷乱」などの五言詩に対する注が収録されています。「雑体」とは、一篇の中に様々な形式や内容の詩が含まれたもので、いずれも有名な詩を本歌取りしつつ、自らの心情を詠み込んだ詩となっています。
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少なくとも清代までは、
士大夫層(中国の文化・学問・政治を実質的に担っていた、高級実務官僚を輩出できる階層。科挙を受験していたのはこのクラス)
は、
諱(いみな)=本名
字(あざな)=呼び名
の二つの名前を持っていた。基本的には
相手を諱で呼ぶのが許されるのは絶対的目上=尊属、上司(上司のトップは皇帝)、師(『論語』に弟子の諱が頻出するのは、孔子が弟子に呼びかけているシーンが多いから)
なので、基本的には
字で呼ぶのは敬意を表す(同輩以下は大体字で呼ぶ)
諱で呼ぶのは「非礼な呼び捨て」で、相手を軽蔑していることを表す。時と場合によっては、その場で殺されてもおかしくない。(たとえば正史『三国志』で「曹操」と誰かが言ってたら敵側の発言)
という使い分けをする。
「曹植」を諱でなく字で呼んで「曹子建」というなら「曹操」じゃなくてこちらも字で「曹孟徳」だろうし、そう書くと
あれ、ちょっと具合悪い?
と気付くと思う。
「江文通」は「江淹」で、解説されている作品群は、普通は
江淹雑体詩
と呼んでいる。
ところで『文選』では、作者の名が字で記されているのがほとんどだ。『文選』を読んだことがない場合、この「字で作者名を書くことがある」通則を知らないから、こんな書き方になったんだろうけど、なんだかな。
徐幹とか了儀は諱で出てくるし。諱と字が混在した書き方は、中国学の感覚だと、気持ちが悪い。
『文選』のゼミでは、受講生はまず、この
字と諱の変換
を最初に覚えることになる。中国学では、作者名・著者名は普通は
諱
でいうからね。
白樂天は白居易
だ。
毎年、学生に
『文選』で作者名が字で書かれていない作者を挙げなさい
という課題を出しているせいか、上記のような解説を目にしてしまうと
ちゃんと諱を調べるのが面倒だったのかな
と見えちゃうのがアレだ。諱と字に関する説明を省いているので、こんな
諱と字が混在する説明
になったんだろうな。
京大中文三回生の学部ゼミが、この
「江淹雑体詩」三十首
だったが、前期だけで川合康三先生がハーバード燕京研究所の在外研究に行ってしまわれたので、途中で終わった。学部の基礎ゼミだし、李善注中心で解釈(さすがに李善注を読まないと怒られる)、たまに五臣注も見るくらいな緩い感じで読んだ。
『文選集注』を読んでないの?
という厳しい指摘はされなかったように覚えている。
そもそも五臣注は
科挙対策
と言われるような、通り一遍の解釈がほとんど。川合先生も、李善注がないとか、解釈が分かれるときくらいしか
五臣はどうなの?
とは聞かれなかった。(授業で聞かれないから、五臣注を見なくていい、というわけではなく、そこはチェックしておくのが基本。)
なお、
「江淹雑体詩」では、元になった作品の作者名を諱で書かず、官位などを付けて示す
ので、ゼミでうっかり
阮歩兵
などと発表すると、一瞬で
それ誰?
と突っ込まれる。もちろん、酒好きで、歩兵校尉の役所に酒があると聞きつけて、歩兵校尉となったといわれる阮籍のこと。
『世說新語』仁誕篇
步兵校尉缺。廚中有貯酒數百斛。阮籍乃求為歩兵校尉。(歩兵校尉に欠員が出た。役所の台所には酒が数百斛も貯蔵されていた。阮籍はそこで志願して歩兵校尉となった。)
一斛=十斗=百升
で、
阮籍の時代、三国時代の一升=0.202L
なので、
一斛は20.2L
となる。時代は古いが、満城漢墓(前漢)から出てきた直方体の酒甕の容量は、計算すると最大で439Lなので、20斛くらいは平気で入る。すると
歩兵校尉の役所にあった酒甕はもっと大型でずらりと並んでいた
かもしれない。酒飲みには天国だろう。
なお、
『文選』が難読の書(だから注釈が作られた)
というのは、ちょっと変な説明で、実際は
科挙の作文の教科書が『文選』だったから
たくさん注が作られた。
『文選』を読むための注、じゃなくて、『文選』を使って文章を書くための注
なのである。
夢は科挙に合格して高級官僚へ
であり、『文選』はそのための手段に過ぎない。
宋代になると、科挙の勉強では
『文選』は文章問題で高得点を得るための基礎中の基礎
となる。南宋・陸游の『老學庵筆記』卷八には
『文選』爛、秀才半。(『文選』を自家薬籠中の物とすれば、科挙には半分合格したようなものだ。)
という当時の流行語が出てくる。