2012-05-20

河竹登志夫『黙阿弥』講談社学芸文庫

黙阿弥は、なぜ引退して
 黙阿弥
を名乗ったのか。その謎を黙阿弥の曽孫である河竹登志夫が、遺された葛籠の中の文書から拾い上げ、幕末〜明治に掛けての
 御一新による文化破壊と改新の嵐
に揉まれた、狂言作者河竹黙阿弥の苦悩と困難を跳ね返す強靱さを描き出す。
いや、面白かった。

元々、河竹登志夫の文章は
 雑誌『四季の味』の連載
でファンになっていたので、この『黙阿弥』も文春文庫に入った早々に買い求めたのだが、本の山に埋もれて行方知れず、その後、年表を増補したこの講談社学芸文庫本を購入、やっと読み終えた。
この人の作品なくしては歌舞伎の幕が開かない、狂言作者河竹黙阿弥の芝居が、その持ち味故に、幕政下においても、明治政府下においても、何かと目の敵にされ、当局の圧迫に晒される。筆難を受けるそのたびごとに、黙阿弥は
 ぎりぎりまで筆を凝らして、しかも咎めに触れない
よう、細心の注意を払って、
 役者に親切、見物に親切、座元に親切の「三親切」
で工夫に工夫を重ね、当たりを取っていくのである。
 演じる役者に親切
というのがまずは基本であり、当て書をする、役者のクセ、特長、苦手等を飲み込んだ上で、観客の時好に沿って、その役者の魅力を最大限に引き出す脚本を書くこと、それが黙阿弥の今に残る仕事の原点なのである。
当て書をした役者はとっくに世を去ったが、黙阿弥の芝居は残り、
 新古演劇十種や新歌舞伎十八番などのお家芸
に選ばれ、繰り返し上演されている。
黙阿弥の芝居の内
 かなりのものが明治以降に書かれた
というのも、驚きである。
明治政府の
 演劇改良運動
によって、庶民の娯楽であった歌舞伎が
 上流階級の観劇にふさわしいモノに改変される過程
で多く書かれたのが、
 能・狂言を題材に能舞台を真似た舞台で演じられる松羽目物
で、黙阿弥の書いた土蜘や船弁慶、釣狐、茨木もその流れだったりするのだ。

河竹登志夫は、引退に際して「黙阿弥」と名乗ったのは
 いまは「黙」って身を引くがその内「もとのもくあみ」、狂言作家として戻る
というのが真意である、という。

14歳ですでに放蕩に明け暮れていた、生粋の江戸の人黙阿弥は
 いかに柔軟にお上からの無理難題を捌くか
ということには、長い修練を積んでいる。上には
 恐れ入りました
という体を見せておいて、
 結果的に実を取る
のが、江戸っ子の粹、薩長土肥の田舎者が貴顕として跳梁跋扈する明治の世でも、野暮な田舎者を強靱な意志の力でやり過ごし、
 座付き作者
としてのつとめを果たし、引退の後は、座付きという束縛からも自由になって、思うさま、筆を運んだ。若い頃はニワカ好きだったという黙阿弥は
 しゃれのめす、柳に風と受け流す
という、江戸庶民の
 最強の抵抗の武器
を磨き上げて、温容を崩さず、
 明治政府の野暮天役人や御用学者を一蹴
したのである。

黙阿弥については、文化庁デジタルライブラリーにオンラインの解説がある。
文化デジタルライブラリー

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2012-05-12

襲ったのがヒグマよりは非力なツキノワグマであっても人間は骨折→とっても恐いアイヌ語会話集「クマ」の項目

先日
 人里に下りたヒグマを射殺したのがけしからん
とか言ってる人がいるとか聞いたんだけど、
 ヒグマを舐めている
としか思えない。

とっても酷い外傷の画像があるので閲覧要注意だが
 ヒグマよりは人的被害が少ないツキノワグマに「顔を殴られた被害者」の写真つき

 症例報告 クマ外傷の4例(PDF)

 『日本救急医学会雑誌』Vol. 22 (2011) No. 5 発行日: 2011年05月15日
に掲載されている。被害に遭われたお一人は
 ツキノワグマに殴られて、片眼を失う大けが
をされており、ヒグマより破壊力が小さいと言われているツキノワグマでも
 ちょっと殴られると、大変な破壊力がある
ことがわかる。
 手をクマに引っかかれた
と、報道では発表される外傷も、上記論文の外傷の説明を読むとわかるのだが
 非常に傷が深い上に、クマによる外傷は治りにくい
のである。


(略)クマは襲撃時に立位をとり、攻撃部位として頭頸部を標的とすることが多い。自験例は4例とも主に頭部顔面を受傷していた。攻撃の手段は鋭い爪を持つ前肢による殴打、または咬みつくことである。そのどちらも骨折を伴う程度の破壊力を持ち、広範囲かつ深達性の軟部組織損傷を来す。(略)しかし、4例とも致命傷を生じることはなかった。これはツキノワグマが本来は人を恐れる性格であり、人と出会ってしまった結果、防禦の目的で攻撃したためと考えられる。(略)
 症例1のように、顔面の広範囲な外傷を含む場合は脳神経外科、眼科、耳鼻科、口腔外科などの複数科合同の治療が必要となることも多い。(略)一般的には感染の可能性や高度の広範囲軟部組織損傷のため、治療を数回に分けて行う場合が多い。症例3や4のように表面だけの損傷にみえても内部に広範囲な剥脱創を呈していることもあるため、創の深さや範囲の確認が必要である。広範囲な顔面外傷の処置を行う場合は眼球、眼瞼挙筋、涙小管、耳下腺管、顔面神経などの損傷を確認する。これらの損傷に対しては顕微鏡下の修復が必要であり、損傷は陳旧例ほど再建が困難となる。(略)
 創部の細菌感染と破傷風の予防は重要である。一般に動物による外傷は咬創による汚染の他、草木や土泥による高度の汚染が併存し、かつ創縁が複雑で挫滅を伴っていることが多く、手術に先立って創部の十分な洗浄が感染予防に重要である。クマ外傷は咬創のみでなく前肢の爪による外傷もあるが、症例2のように傷の形態から爪による創か、咬創によるものかの鑑別は困難と考えられる。しかり両者において、感染の差を記載した文献は認められなかった。(以下略)
(pp.233-235)

要するに
 クマに襲われた場合は、それがツキノワグマであろうとも骨折を伴う程度の大けがをする
のである。特に
 顔面損傷の場合は、外見の修復が大変なだけではなく、傷ついた眼や耳、鼻、口、そして神経にも影響が及ぶ
ことを肝に銘じて欲しい。これがヒグマなら、殴られたらおしまい、死亡である。
それでもなお
 クマがかわいそう
とか言うのか。自分が熊に襲われない、安全な場所にいる人の暢気な感想としか思えない。

クマと暮らしていたアイヌの人達は、その点
 クマと暮らすことの厳しさ
をよく弁えていた。
手元にある
 明治31年に出された神保小虎・金澤庄三郎『アイヌ語會話字典』
には、クマの項目に次のような会話文が掲載されている。
 「北海道には熊は多く居ますか」
 「人を喰ひますか
 「毎年何人程喰ひますか
そして、この字典の序文には次のように書かれている。
 本書はアイヌ語を言語学上研究せんとして集めたる材料中より普通に行はるる語のみを撰びて假に辭書體になしたるもの
近くに人食い熊がいるかどうかは、この当時、
 普通に警戒すべき事柄
だった。それは今でも同じで、一度人を食ったクマは、人間を襲う。

以前、中国で
 パンダが可愛いから

 動物園の檻に入り込んで、パンダに咬まれた大学生
がいたけれども、最近の日本人は
 クマの怖さを忘れている
のではないのか。

そしてそれは
 クマに襲われた人の被害を「できるだけ小さく、面白い話として報道する」メディアの責任
でもある。

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2012-04-09

国会図書館のデジタル化資料さらに充実 古典籍資料は約2万3000冊追加 官報が創刊号から 英文官報も

国会図書館エライ。
まずはアナウンスから。


国会図書館のデジタル化資料
お知らせ

2012-04-09・古典籍資料(貴重書等)に約2万3千冊を追加しました。うち約1万8千冊はインターネット公開しました。->閲覧
官報に明治16(1883)年7月2日~昭和27(1952)年4月30日分、約2万1千点を追加し、インターネット公開しました。->閲覧
また、これまで国立国会図書館内でのみ公開していた英語版官報約2千点を、インターネット公開しました。->閲覧

古典籍資料は何が増えてるかな? これから宝探し。

紹介記事。Internet Watchより。


国会図書館、官報のデジタル化資料をネット公開、明治16年の創刊号から

 国立国会図書館は9日、法令や国会の議事日程、叙位叙勲などを掲載する国の機関誌「官報」のデジタル化資料をインターネット上に公開した。明治16(1883)年7月2日の創刊号から昭和27(1952)年4月30日までの号外を含む官報を約2万1000点閲覧できる。
 また、すでに国会図書館内限定で公開していた英文官報「OFFICIAL GAZETTE : ENGLISH EDITION」(1946年4月4日から1952年4月28日の期間のみ刊行)を、日本語の官報の公開にあわせてネット上で公開する。
 このほか、約1万8000点の古典籍資料のデジタル化資料をネット上で公開したほか、4月11日からは自然科学分野の雑誌約19万冊のデジタル化資料、4月19日からは戦後期に刊行した社会科学分野などの図書約9万冊のデジタル化資料を館内限定で公開する。
 ネット公開した古典籍資料の中には、フランス人ジャイヨによる世界図を原拠とする平射図法の東西両半球図「地球全図」や、源義経の生涯を主題にした軍記「義経記」などが含まれている。
(増田 覚)
2012/4/9 12:28

ということのようですよ。

国会図書館のデジタル化資料は、利用許可もすぐに下りるので、非常に使いやすい。
まあ、
 一括ダウンロードできないのが難点
ではあるのだが。

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2012-03-26

杜甫の秦州詩を巡って

昨日は、桃の会。
桃の会は、京大名誉教授の小南一郎先生を囲む研究会で、半年に一度開かれ、先生のご発表と、受業生や受業生が担当している院生等が発表して、先生にコメントを頂くこぢんまりとした会だ。
 発表者と題目:
 西川ゆみ さん(奈良女子大学院生) 鮑照「蕪城賦」の表現
 鄭巍巍 さん(同志社大学院生) 明洪武年間鉄製大砲製造ブームの形成およびその形成要因について
 佐野誠子 さん(和光大学) 杜甫と濁酒
 小南一郎 先生 杜甫の秦州詩

小南先生の昨日のご発表は、杜詩を読む者なら誰でも気にかかる
 秦州詩の果たした役割
を鋭く解析したもので、従来の説とは異なり、実に刺激的だった。ご発表の内容は、おそらく
 中国文学報の近刊
に掲載されると思う。

佐野さんの発表は
 杜詩中に見える濁酒・濁醪という詩語
についての分析だったが、席上、1年先輩にあたる富山大の大野圭介さんが、
 杜甫の「羌村三首 其三」

 手中各有攜、傾榼濁復清。(手中各の攜ふる有り、榼を傾ければ濁復た清。)
をすっと引用したので
 おお、大野さん、凄い
と思ったのだったが、ふと手元にあった
 浦起龍『讀杜心解』
をめくって、なぜ、大野さんがその部分を覚えているのか、得心がいった。
大野さんは、かつて京大中文の学部ゼミで『讀杜心解』を扱ったとき
 羌村三首の担当
だったのである。それを思い出した。

三回生の年、なぜか興膳宏先生は、学部ゼミのテクストに『讀杜心解』を選ばれた。理由は分からない。一般に、杜詩を読むなら
 仇兆鰲『杜詩詳注』
を使うだろうけれども、どうしたわけか、ちょっとクセのある解釈の『讀杜心解』がテクストになった。吉川幸次郎先生は、これを学部の頃、一人で勉強されたそうだが、恐ろしい話である。実際、手強かった。

で、京大のゼミには
 イントロダクションはない
のである。
 いきなりテクストを読み始める
わけで、学部に上がったばかりで、右も左も分からないのに、いきなり『讀杜心解』の五古の詩を一つずつ担当することになった。そうなると、『讀杜心解』に当たり前のように出てくる
 弼曰、仇曰、朱曰、
等等の
 先行する杜詩の注釈を表す言葉
すら分からない状態で、ゼミに入ることになる。で、
 がっつり怒られる
ことになるわけだ。
 その「朱曰く」って何のこと?
と当然聞かれ、答えられないとなると、担当者の学力と意欲が疑われる次第となる。
冷僻字の多い杜詩だが、
 まず全部を中国音で読む
ところから、中文のゼミは始まる。必死で辞書を引く。対象がどの時代のテクストであろうと、中文のゼミなら
 まず中国音、それから文言であれば訓読の順
だ。訓読の仕方も習わない。見よう見まねで覚える。ま、ともかく
 身体で覚える
のが、京大の流儀だ。効率は悪いだろうけど
 人に教えて貰ったこと
は、身につかない。
 半泣きになりつつ、身体で覚えたこと
は、一生忘れない。

ゼミで調べが足りないのは
 本人の才能と努力が足りない
のであり、もし、答えに窮したり、詰問の激しさに臆して、間違って泣いたりすると、更にひどいことになった。
 泣いてるヒマがあるなら、その時間を準備に回せ
というのが鉄則なのだった。(ちなみに中文はまだ学生に優しい方で、印度学のゼミはもっと厳しく、泣く余裕さえ与えられなかった)今ならアカハラとか言われそうだけどね。基本的に
 才能も努力も「平等ではない」
というスタンスで教育が行われていた。
 出来ない奴は、自分で自分に見切りを付けろ
と言われているのと同じである。見切られないように、必死で勉強するしかない。

『讀杜心解』のゼミは二年続いた。その次に興膳先生が学部用に選ばれたのは
 黄遵憲『人境盧詩草』
で、銭仲聯の詳細な注の付いたテクストが出版されて間もなかった頃だ。この『人境盧詩草』がまた、読みにくいのである。

一方、
 中文の学部生は必ず『文選』を読む
ので、これは、川合康三先生が担当されていた。この年は
 古詩十九首
からだった。胡克家の覆宋本『李善注文選』(藝文印書館刊)を、今出川通りにある中文出版に買いに行くところから、準備は始まった。卒論が当代(日本で言う「現代」)だろうが何だろうが、ともかく
 『文選』は中文の基礎科目
である。

現代文は、この年、退官直前の先師清水茂先生が
 老舎の「柳屯的」
を読んで下さった。
 先秦から当代まですべての時代の中国語を読めるようになる
のが、中文・中哲の共通したアプローチだった。(最近はどうなっているか知らないけど)
清水茂先生は、間違いなく
 すべての時代の中国語が同じ強度で満遍なくお読みになれる先生
だった。あらゆる典故を駆使した
 清詩が自在に読める
ほぼ日本で唯一の先生だったと思う。詩作もされ、学生が詩の添削を御願いすると、気軽に添削をして下さっていた。

当時の京大文学部は
 年間授業数が12回
だった。だからこそ、あれだけ厳しいゼミでも身体が保ったのだろうと今にして思う。

杜詩研究は、京大中文のもう一つの伝統である。
小耳に挟んだのだが
 吉川幸次郎『杜甫詩注』の続編
を作る計画があるらしい。
吉川幸次郎先生の『杜甫詩注』の下調べを、若き日の小南一郎先生が担当されたそうで
 全然、時間が足りなかった
とおっしゃっていた。そして
 わたしも、吉川先生の『杜甫詩注』の原稿は見ているんですが、吉川先生は、その詩をどう読むかというのは、原稿には書いておられないんですよね
とにこやかに話されたのだった。

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2012-03-23

曹操の魏国の都・鄴[業邑]の地から、中国建国以来最大数の2895片の仏像、埋められた状態で発見される@河北省

いや〜、これは凄すぎる。
 鄴[業邑]
というと、曹操は帝位にはついてないけど、
 曹操の魏国の「都」
で、銅雀台などがあったところ。官渡の戦いで袁紹を破った曹操は、袁紹の死後は息子の袁尚が守っていた鄴[業邑]を落とし、自らの拠点とした。いわゆる
 建安の文学
の舞台の一つだよね。

中国web電視台のニュースより。繁体字に直したけど、日本語にない漢字は、できるだけ日本の字体にしたので、ちょっと不統一。まったくない漢字は現物通し。


曹操發跡地鄴[業邑]城發現建國以來數量最多佛像 史無前例(圖)
發布時間:2012年03月20日 11:49

佛頭出土。本版供圖鄴[業邑]城考古隊

北齊佛教造像

發掘現場。

出土的彩繪佛造像。

  今年春節期間,中國社科院考古研究所與河北省文物研究所聯合組成的鄴[業邑]城考古隊,在鄴[業邑]城遺址東部,扒[手八]開5米厚的流沙層,發現了一處不規則的埋葬坑,内部驚現佛教造像近3000件(塊)。這是新中國成立以來出土遺物數量最多的佛教造像埋葬坑。(今年の春節時期に、中国社会科学院考古研究所と河北省文物研究所は合同で鄴[業邑]城考古隊を結成し、鄴[業邑]城遺跡東部にある、厚さ5mの砂の層を掘って開けたところ、不規則な形をした埋納坑を発見し、中から驚くことには3000件(塊)近くの仏像が現れた。これは新中国成立後に出土した遺物の数量では最多の仏像埋納坑である。)

  □發現

  佛像埋葬坑出土

  曹操墓—西高穴大墓,曾經引起全民考古關注。就在它的正西偏南,是曹操發跡的鄴[業邑]城,曹操與袁紹官渡之戰後居住於此,曹丕稱帝以後成為五都之一。(曹操の墓、つなわち西高穴大墓は、以前全住民に考古学的関心を引き起こした。その曹操の歯かのちょうど真西からやや南よりは、曹操が立身出世を遂げていった鄴[業邑]城で、袁紹との官渡の戦いの後に曹操がここに住み、曹丕が帝位に就いた後、五都の一つとなったのである。)

  2012年春節期間,在鄴[業邑]城遺址東部北呉莊,發現了一巨大的佛教造像埋葬坑。3月19日,中國社會科學院考古研究所通報了這項重要發現的最新進展。回憶這處佛教造像埋葬坑的發現,鄴[業邑]城考古隊隊長朱岩石博士仍含驚奇之色。(2012年の春節の時期、鄴[業邑]城遺跡東部の北呉荘で、仏像を埋めた巨大な穴が発見された。3月19日、中国社会科学院考古研究所は、この重要な発見の最新の進行状況を伝えた。この仏像埋納坑の発見を思い返してみると、鄴[業邑]城考古隊隊長朱岩石博士は、いまでも驚きを隠せない。)

  據介紹,這處埋葬坑位於已知東魏北齊都城鄴[業邑]城遺址東城墻東側約3公里,即鄴[業邑]城考古隊推測的東魏北齊鄴[病+坐]城外郭城内。朱岩石説,鄴[業邑]城考古隊近些年一直在苦苦找尋外郭城的蹤跡,不斷有重要考古發現。

  今年1月上旬,在北呉莊北漳[シ章]河灘沙地内,鄴[業邑]城考古隊注意到有一些不同尋常的跡象,比如發現一些漢白玉碎石,於是決定在此進行考古勘探。1月10日,考古人員發現了這個佛教造像埋葬坑。鋻於遺跡的重要性,很快便開始了搶救性發掘。(今年の1月上旬、北呉荘の北漳[シ章]河畔の砂地に、鄴[業邑]城考古隊は普通とは異なったいくつかの形跡があることに気がついた。たとえば、いくつかの漢代の白玉のかけらが見つかり、こうして、この場所で考古的な探索を続けることを決めた。1月10日に、発掘担当者がこの仏像埋納坑を発見した。遺跡の重要性に鑑み、緊急性発掘がすぐさま開始された。)

  有近3000件佛像

  當考古人員在現場進行了RTK高精度定位測量,使用全站儀布方,然後去除上部5米左右厚的流沙層時,“所有的人都傻了”,朱岩石説,出現在考古人員面前的,是一個邊長約3.3米、深1.5米左右的不規則方形土坑。從中發掘出土編號佛造像2895件(塊),造像碎片78個自封袋,達數千件。根據發掘過程中的粗略統計,有題記的超過百件,絶大多數是漢白玉造像,少數為青石造像。根據造像特徴、題記年代等初歩確認,這批佛造像時代主要是東魏北齊時期,另[口力]有個別北魏時期青石造像,亦見到個別唐代風格造像。(まず発掘担当者が現場でリアルタイム キネマティックGPSによる高精度な測量を行い、トータルステーション[測量機器の名前]を使用し、それから上部の5m前後ある砂の層を取り除いたとき、「そこにいた人はみなぽかんとした」と朱岩石は言う。発掘担当者の前に現れたのは、一辺がおよそ3.3mで深さ1.5m前後の不規則な四角形をした土坑だった。その中から、ナンバリングされた仏像は1895件(片)、仏像制作時に出た欠片がジップロック78袋分が発掘され、発掘されたものは数千件に達した。発掘途中のざっとした統計によれば、題記のある仏像は100件を超え、最も多かったのは漢代の白玉で作られた像で、青石で作られた像は少なかった。仏像の特徴や題記年代の初歩的な確認から見ると、これらの仏像の造像年代の中心は東魏から北斉の時代[534-577]で、他にいくつか北魏時代[386-534]の青石製の仏像があり、ほんのちょっとだが唐代の風格を持った仏像も見られる。)

 □價値

  佛像級別史無前例

  中國社會科學院考古研究所所長王巍表示,本次考古發現意義重大,堪稱新中國成立以來南北朝、隋朝、唐初時期重要考古發現之一。佛寺、佛像這樣級別的發現史無前例。

  王巍介紹,這次的考古發現的意義首先在於位置清晰準確,層位關係均有科學記録。這是目前所知建國以來出土遺物數量最多的佛教造像埋葬坑。本次鄴[業邑]城出土的這批佛造像反映了都城級別的佛教文化在當時的發展程度。

  其次,本次發現年代清楚,前後銜接。這批佛造像的時代跨越北魏、東魏、北齊和唐代,北魏晩期、東魏、北齊、唐代各時期紀年明確,時代前後銜接,為研究北朝晩期至隋唐時期鄴[業邑]城地區佛教造像的類型和題材提供了可靠的標本。

  同時,本次考古出土的佛造像工藝精湛,造型精美,色彩艷麗。中國社科院研究生院考古係教授、博士生導師楊泓介紹,這批佛像多為背屏式,另[口力]有部分單體圓雕的佛和菩薩像。很多造像保存有較好的彩繪和貼金痕跡。這些都充分顯示了北朝晩期鄴[業邑]城作為北方地區佛學中心和文化藝術中心的歴史地位。

 □安全保障

  將設置專門派出所

  為了確保文物安全,考古發掘期間大量公安幹警在現場設立警戒區並晝夜執勤,武裝特警負責押運出土文物入庫保存。

  鄴[業邑]城考古隊啓動了搶救發掘的緊急預案,除在現場的鄴[業邑]城考古隊研究人員和技師9人外,火速通過考古研究所抽調了研究人員、文物保護專家、考古技師10余人趕[走旱]赴現場參與相關工作。

  為妥善保管出土文物,當地政府特意撥出專款添置安裝遠紅外監測、視頻監測系統的安保設備,相關人員24小時巡邏。此外,還將在附近專門設立派出所,確保文物安全。

  □文物保護

  色彩保護成大難題
 本次出土的佛造像,除了部分無色外,很多都色彩艷麗。如何保護佛造像顔色成了一大難題。

  朱岩石隊長介紹,有關專家已選取最小的碎片,進行色彩等技術分析,以形成預案推廣運用。

  早在發掘時,在文保專家的現場指導下,出土佛像均進行三層包裝,以最大限度地保護文物表面色彩、貼金等裝飾不受損失。第一層宣紙包裝用於平衡濕度,第二層氣泡塑料薄膜包裝用以防摩擦碰[石並]撞,第三層塑料薄膜用以密封。

  據介紹,目前色彩保護、金箔裝飾的加固、近3000塊碎塊的拼[手并]接綴合這三項難題形成了一項艱巨的工程,經國家文物局和河北省文物局的指導,中國社科院考古研究所文化遺産保護中心正在針對這批文物的特性制訂詳細的保護方案,並將陸續實施。

  □待解之謎

  是否源自滅佛運動

  這批佛造像是什麼時間、由誰埋入地下的?這背後有怎樣的一段歴史?

  楊泓介紹,中國古代歴史上有滅佛運動和佛像痤[病+坐]埋制度。前者指的是因反對佛教,將佛像砸[石匝]碎,雜亂填埋。後者指的是佛教信徒為了做功徳,看到古代殘像就收集在一起規規矩矩地埋下,有的還在上面建塔。

  楊泓分析,從考古中發現,這些佛造像的擺放雜亂,可能屬滅佛而非痤[病+坐]埋。另[口力]外,我國史上有幾次著名的滅佛運動,其中北魏太武帝滅佛、北周武帝滅佛、唐武宗滅佛,統稱為“三武滅佛”。鋻於本次出土佛像中,發現了個別唐代風格的造像,楊泓推測這批佛像可能源於唐代滅佛運動。

  但這些零散的碎塊究竟有哪[口那]些不為人知的故事?埋藏坑與具體遺址或古代寺院遺址是否有關係?它對於東魏北齊鄴[業邑]城南城外郭城的探尋能夠[多句]提供怎樣的線索?還有待後期研究掲開謎底。(記者 張然)

ということで、気が向いたら、もう少し訳すかも。

一体誰が埋めたのか、何のために埋めたのかは、現時点で不明。
それにしても
 2895体というか片の「仏像」
って
 圧倒的な量
で驚く。記事にもあるように
 盗掘対策
を取ってるようだけど、土坑の大きさはそれほどでもないにせよ、もとの現場は結構広いようだから、たぶん、その内、いくつか盗まれる悪寒。

仏像は
 中心は東魏から北斉の時代[534-577]
 いくつか北魏時代[386-534]の青石製の仏像
 ごくわずかな唐代の風格を持った仏像
ってことなので、
 いっぺんに埋めたのなら、一番様式の新しい唐代以降に埋められた
ってことね。
謎なのは
 これだけの数の仏像をどこから持って来たのか
って辺り。
先ほど、Facebookで水口幹記さんと話してて
 会昌の廃仏(845前後)
ということもありかな、と。もっとも、唐代の風格がある、という仏像の形式が、会昌の廃仏以前のものでとどまってるかどうかがわからないので、とりあえず、ペンディングということで。会昌の廃仏については
 円仁『入唐求法巡礼行記』
が、その当時のリアルタイムの記録として詳しい。

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2012-01-17

中口惠美子さん(元くるみ座代表)逝く

子どもの頃、
 毛利菊枝の演じるおばあちゃん
が好きだった。毛利菊枝の演じるおばあちゃんは、どんな役柄であっても、何とも言えない品があったのだ。たぶん、わたしが最初に毛利菊枝を見たのは、NHKの大河ドラマ
 竜馬が行く
のお竜の母役か、テレビ小説
 信子とおばあちゃん
のおばあちゃん役でだったかと思う。以後、時代劇などのキャストに毛利菊枝の名が揚がっているのをテレビ欄で見かけると、出来るだけ見るようにしていた。
毛利菊枝が京都で立ち上げたのが
 くるみ座
で、京大のすぐ近く、百万遍を西にちょっと入って、万里小路を上がったところに、小さなくるみ座の看板の上がった建物があった。
大学の寮に住んでいた頃は、いつもその看板を横目に見つつ、万里小路を里の前まで上がったところにある、スーパーなかむら(現・生鮮館なかむら里の前店)に買い物に出かけていた。

ある晩、百万遍の西北角にあった琢磨(現在、本店は四条大和大路に移転)で、隣に印象的な女性が座って飲んでいた。わたしも一人で飲んでいたので、今は亡き大将が紹介してくれて、同じ店の長い馴染み同士として杯を交わした。琢磨が改装した後の話なので、1988年よりは後の筈である。それが
 中口惠美子さん
だった。その時、くるみ座の肩書きの入った名刺を頂いた。今もどこかにあるだろう。

くるみ座は、2007年、解散した。その時中口さんが代表だった。合掌。
京都新聞より。


中口惠美子さん死去 劇団くるみ座元代表

 中口 惠美子さん(なかぐち・えみこ、本名北村惠美子=劇団くるみ座元代表、劇作家、演出家、俳優)15日午後2時48分、京都市内の病院で死去、67歳。和歌山県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。

 京都を拠点に活動し、2007年解散した「劇団くるみ座」の最後の代表を務めた。

【2012年01月16日 22時54分】

同じ店に長く通った酒客同士としての淡い交わりしかなかったが、ご冥福をお祈りする。

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2011-10-10

九大図書館 濱一衛の中国演劇コレクション

中国語の勉強を始めた頃、劇迷(芝居マニア)の小笠原周さんが、中国の伝統劇の自主ゼミを開いていて、それに参加していた。最初に読み、聞いたのが、「楊家将」の一つ、京劇の
 四郎探母
で、漢族の対異民族観がよくわかる芝居である。しかし、内容はともかく、唱は聞かせ所が多く、すばらしい。1年足らずの間、いくつかの芝居のテープを聴き、中国の伝統劇について勉強した。以来、中国の伝統劇は好きだ。外国人向けの華やかな武功よりも、聞かせ所の多い演目を好む。

今回、九大では、日本中国学会の開催に合わせ、
 濱一衛と京劇展・濱文庫の中国演劇コレクション
の展示を図書館で開いた。検索すると、2008年にもこのテーマで展示が行われている。
 濱一衛と京劇展-濱文庫の中国演劇コレクション- 第50回附属図書館貴重文物展示
これが、実に得がたいものだった。

後に九大の中国文学研究室の教授となった濱一衛は、鈴木虎雄が教授を勤めていた京都帝国大学文学部支那語支那文学専攻を昭和八年に卒業した。濱の在学当時の昭和六(1931)年、助教授の倉石武四郎が中国留学から帰国、魯迅の小説を学部の講読の授業のテクストに用いるなど、中国文学研究の新たな道を開いた。濱は、その後、京都帝国大学派遣外務省文化事業部留学生として昭和九(1934)年〜十一(1936)年に北京に留学、劇迷であった濱は、せっせと芝居小屋に通う一方で、関連する資料を大量に集めた。それが、九大図書館の濱文庫に収められている。劇迷が寸暇を惜しんで集めた資料が面白くないわけがない。

今はなくなってしまった大小の芝居小屋の引き札、入場券や演劇・芸能関係の冊子類など、当時、北京にいなければ入手できなかった貴重な資料を始め、劇迷濱一衛の全てが詰まったコレクションの全貌を見渡せるよう、工夫して展示がなされている。会場内では、京劇のCDも掛かっていた。

先日、解放(中華人民共和国成立)直後の梅蘭芳の消息を伝える報告を、違う機会に聞いていただけに、解放以前の北京の演劇の様子を生き生きと伝える濱一衛コレクションには、別な感慨を抱いた。

ちなみに、濱一衛は、魯迅(本名は周樹人)の弟、周作人の家に下宿していた。

九大の『中国文学論集』第四号、濱一衛の退官記念号はこちら。
濱一衛先生退官記念号(PDF)

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2011-09-27

ぬいぐるみのQBがあやしくささやく「ローソン 魔法少女まどか☆マギカキャンペーン」

え〜。

あの極悪キャラキュゥべえのぬいぐるみが、今日から始まった
 ローソンの魔法少女まどか☆マギカキャンペーンを紹介
している。
CVはアニメと同じ加藤英美里。いつも思うんだけど、加藤英美里はよくあのキュゥべぇのセリフを噛まずにやれるものですな。
キャンペーンの詳細はこちらに。
 ローソン×アサヒ飲料「魔法少女まどか☆マギカキャンペーン」

ところで、
 あきこロイドがうたう「からあげクンの歌」
って何? ローソンのtwitterキャラでもある「あきこちゃん」の
 ボーカロイドキャラ
みたいなんだけど。
 みんなでつくる、からあげクンの歌
採用されると、商品はオリジナルソング入りCDはともかくとして
 からあげクン1年分
って、どんな量なんだ。考えるだに恐ろしい。

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2011-06-20

朝日の平和ボケ 何か違う「戦後生まれが編集する戦争文学全集」という言い方

朝日新聞の頭の中には
 戦争体験のある人たちはまだバリバリ現役という幻想
があるに違いない。
 昭和元(1925)年生まれ 86歳 終戦時は20歳、人によっては戦闘員の経験あり
 昭和10(1935)年生まれ 76歳 終戦時は10歳、疎開経験等はあるが戦闘員の経験はない
 昭和20(1945)年生まれ 66歳 いわゆる「戦後生まれ」はここから
ということは
 戦後生まれと言っても、もう60過ぎてる人がたくさんいる
ってことだ。

そもそも
 文学全集の編集
なんて仕事は
 30-50代くらいが当たる仕事
だろう。ならば
 戦後生まれが編集する戦争文学全集
という文言は
 誰に対するメッセージ
なのか。
朝日より。


戦後生まれが編む戦争文学全集
2011年6月20日

 浅田次郎、奥泉光ら戦後生まれの作家や研究者だけで編集する戦争文学全集『戦争×文学』(20巻+別巻、集英社)の刊行が始まった。戦争体験を次世代につなぐため、「物語」の力を結集させた。

 集英社は1964年から、記録文学を中心に『昭和戦争文学全集』を編んだ。作家の林芙美子が戦時下の大陸を語る随筆など、実体験に基づく文学を集めていた。

 今回は「物語」を軸に編集。純文学やSFなど幅広い分野から主に中短編作を集めた。奥泉は哲学者の森有正が説く「実体験と経験の違い」を考えた。「経験は実体験を言葉によって意味づけること。だから文学的に言えば、経験は実体験を物語化することだ」という。

 対象は近代以降の戦争。アジア太平洋戦争や冷戦を扱う「近代編」「現代編」に加え、女性と戦争などの「テーマ編」、沖縄などの「地域編」からなる。現代編は小松左京「春の軍隊」や芥川龍之介「桃太郎」、三崎亜記「鼓笛隊の襲来」など「イマジネーションの戦争」も含めた。奥泉は「戦争を描くなかで生まれるフィクショナルな部分を、全面的に押し出している」と話す。

 物語が喚起する「経験」は戦争の強い印象を結ぶ。たとえば米同時多発テロを扱う巻「9・11変容する戦争」。リービ英雄「千々にくだけて」に、こうつづられる。

 「見て、百十階の窓からOLが飛び下りている」(高津祐典)

1995年、日本では
 世界でも未曾有の宗教団体による地下鉄サリン事件
という
 無差別化学兵器テロ
があった国だ。それでも
 日本は「1945年8月15日以降、まったく平和な国家だった」という言説
を垂れ流したいのか、朝日。そういう認識だから
 原発事故が世界に対して、何を意味しているか
も、いまだに分からないのだろう。だいたいだ、
 911には巻き込まれた日本人も少なくない
のだが、この記事の書きようでは
 日本とは関係のない事件
と見ていると思われても仕方ない。わたしも中学高校で、生徒会等で顔見知りだった先輩を亡くした。先輩の乗った飛行機がテロに使われたからだ。
そうした人は少なくない。要するに
 戦争は対岸の火事だ
という意識が常に
 朝日の文芸欄担当の頭にある
ってことだね。

恐らく、こうした意識は
 東日本大震災

 福島第一原発事故
でも同様だろう。それが
 メディア
だと思うと、反吐が出るぜ。

大体
 1971年のヒット曲「戦争を知らない子供達」を作詩した北山修
は、
 1946年生まれ、現在65歳
だ。たぶん、朝日の文芸欄担当の頭の中では、先ほどの記事を書くとき
 戦争を知らないこぉどぉもたちぃさあ
という、歌声が鳴り響いてたことだろう。おめでたいこって。

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2011-06-18

今売りの『SFマガジン』8月号がなぜか売れている件

twitterで野尻抱介さんが驚いていた。


http://twitter.com/#!/nojiri_h/status/81986764213993472

おお!RT @JnJ_karroo: @nojiri_h SFマガジン予約しました。そして現在2位!

何が起きた、SFマガジン。

で。早川書房のサイトを開いたところ、
 売れている要因
は一目で分かった。これね。
721108


特集・初音ミク
世界的な人気を得るにいたった日本発の「歌姫」、初音ミクのSF的想像力に迫る。 山本弘、野尻抱介、泉和良による小説のほか、エッセイ、インタビュウなどで構成する。
表紙イラスト:KEI(描き下ろし)
[特集内容]
小説
○「喪われた惑星の遺産」 山本 弘
○「DIVAの揺らすカーテン」 泉 和良
○「歌う潜水艦とピアピア動画」 野尻抱介

インタビュウ
○佐々木渉インタビュウ インタビュアー&構成:新見 直(KAI-YOU)
○内海 洋インタビュウ インタビュアー&構成:卯月 鮎
○前山田健一インタビュウ インタビュアー&構成:編集部

エッセイ
○「ミライのクルマ――未来派からミクへ」 飯田一史
○「初音ミク、その越境するキャラクター的身体について」 濱野智史
○「初音ミクを縛るのは誰?──ヴォーカロイドを巡る法律問題」 小倉秀夫
○「しまった!~または、ボカロ現象に、今からでも遅くない、SF大賞メディア部門賞を!」 難波弘之

○初音ミク・イラストレーションズ・ギャラリー bob / usi
(以下略)

ただ今、amazonの本・雑誌ランキングで
 堂々の3位
だ。

Sfm

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