2012-05-20

河竹登志夫『黙阿弥』講談社学芸文庫

黙阿弥は、なぜ引退して
 黙阿弥
を名乗ったのか。その謎を黙阿弥の曽孫である河竹登志夫が、遺された葛籠の中の文書から拾い上げ、幕末〜明治に掛けての
 御一新による文化破壊と改新の嵐
に揉まれた、狂言作者河竹黙阿弥の苦悩と困難を跳ね返す強靱さを描き出す。
いや、面白かった。

元々、河竹登志夫の文章は
 雑誌『四季の味』の連載
でファンになっていたので、この『黙阿弥』も文春文庫に入った早々に買い求めたのだが、本の山に埋もれて行方知れず、その後、年表を増補したこの講談社学芸文庫本を購入、やっと読み終えた。
この人の作品なくしては歌舞伎の幕が開かない、狂言作者河竹黙阿弥の芝居が、その持ち味故に、幕政下においても、明治政府下においても、何かと目の敵にされ、当局の圧迫に晒される。筆難を受けるそのたびごとに、黙阿弥は
 ぎりぎりまで筆を凝らして、しかも咎めに触れない
よう、細心の注意を払って、
 役者に親切、見物に親切、座元に親切の「三親切」
で工夫に工夫を重ね、当たりを取っていくのである。
 演じる役者に親切
というのがまずは基本であり、当て書をする、役者のクセ、特長、苦手等を飲み込んだ上で、観客の時好に沿って、その役者の魅力を最大限に引き出す脚本を書くこと、それが黙阿弥の今に残る仕事の原点なのである。
当て書をした役者はとっくに世を去ったが、黙阿弥の芝居は残り、
 新古演劇十種や新歌舞伎十八番などのお家芸
に選ばれ、繰り返し上演されている。
黙阿弥の芝居の内
 かなりのものが明治以降に書かれた
というのも、驚きである。
明治政府の
 演劇改良運動
によって、庶民の娯楽であった歌舞伎が
 上流階級の観劇にふさわしいモノに改変される過程
で多く書かれたのが、
 能・狂言を題材に能舞台を真似た舞台で演じられる松羽目物
で、黙阿弥の書いた土蜘や船弁慶、釣狐、茨木もその流れだったりするのだ。

河竹登志夫は、引退に際して「黙阿弥」と名乗ったのは
 いまは「黙」って身を引くがその内「もとのもくあみ」、狂言作家として戻る
というのが真意である、という。

14歳ですでに放蕩に明け暮れていた、生粋の江戸の人黙阿弥は
 いかに柔軟にお上からの無理難題を捌くか
ということには、長い修練を積んでいる。上には
 恐れ入りました
という体を見せておいて、
 結果的に実を取る
のが、江戸っ子の粹、薩長土肥の田舎者が貴顕として跳梁跋扈する明治の世でも、野暮な田舎者を強靱な意志の力でやり過ごし、
 座付き作者
としてのつとめを果たし、引退の後は、座付きという束縛からも自由になって、思うさま、筆を運んだ。若い頃はニワカ好きだったという黙阿弥は
 しゃれのめす、柳に風と受け流す
という、江戸庶民の
 最強の抵抗の武器
を磨き上げて、温容を崩さず、
 明治政府の野暮天役人や御用学者を一蹴
したのである。

黙阿弥については、文化庁デジタルライブラリーにオンラインの解説がある。
文化デジタルライブラリー

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2012-05-11

森銑三・柴田宵曲『書物』岩波文庫 緑153-1

戦時下の昭和18年に初版が出、戦後の昭和22年に増訂改版が出された
 森銑三・柴田宵曲『書物』
を発掘して、手に取っているところ。昭和18年頃、何があったんだか
 戦時下で状況は逼迫しているのだが、なぜか良書がいくつか出る
のだが、これもその一つといっていいのかも。増訂改版の森銑三の序を読むと、昭和20年、森銑三は蔵書をすべて戦災で失ったことが記されている。
解説は中村真一郎が書いているのだが、奥付を見てはっとした。
 1997年10月16日
となっている。中村真一郎はこの年の12月25日に亡くなった。とすると、この解説は、中村真一郎最晩年のものということになる。

昭和18年〜昭和22年というと、今から60年以上前なのだが、現在の出版にも通じる、森銑三の鋭い指摘があるので、その部分を書き写して、以下に転載する。


著述家(pp.32-34)
(前略)しかしながらいつの時代にも重んずべき著述家は少くて、重んずるに足らぬ著述家が多い。徒に多くの書を著して、何一つ特に挙ぐべきもののない人もいる。己を養うことは一向にしないで、ただ出す方にばかり追われている人がある。書肆の註文に応じて時好に投じそうなものばかりをつぎつぎ著して、能事終われりとしている人もある。時勢が変わったからと、以前著した書物とは全然傾向を異にする書物を著して恬然としている人もある。そうかと思うと、十年一日の如く似寄りの書物を何部でも何冊でも著して、端目からはよくも飽きないことだと思われる人もある。自分には何ら硏究することもなくて、ただ先人の著書に述べてあるところを書直して、一時を糊塗している人もある。努力だけは認められても、独創を全く欠いている人もある。質よりも量のある書物を拵えることに依って、自己の存在を認められようとしている人もある。影武者を使った代作の書物をつぎつぎと版にして、自ら大家を以て任じている人もある。(略)
 一口に著述家という内にも、大いに尊敬に値する人と値しない人と、あるいはかえって軽蔑に値する人とがあるわけである。多く売れた書物、評判になった書物の著者が尊敬に値する人で、売れなかった、問題にもせられなかった書物の著者が軽蔑に値する人だなどとはいわれない。かえってその反対の場合もあろう。著述家という内にも種々雑多な人がいる。私等に何人が真に尊敬に値する著述家か、その一事に注意を払うべきである。世間の評判には捉われずに、己の眼を以てそれを知ろうと努むべきである。(以下略)

肝に銘じたい。

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2012-04-24

国立公文書館へ行く

月曜日に東京で調査というと
 国立公文書館も対象になる
のだった。
雨の中、竹橋の国立公文書館へ。1階で入館証を貰い、2階の閲覧室へ行く。
国立公文書館では
 事前に利用請求票の印刷
が出来るので、ここまでは家でやっておく。

久々に来た。前のカードの期限はとっくに切れているので、新たに利用申請をする。申請自体は極めて簡単。
書庫からは
 1回につき5点
が出てくる。今回は一枚物と言われる書状や書附が中心。しかも多聞櫓文書ばかり。
時間が掛かるかなと思ったが、案外あっさり出てきた。

国立公文書館のよいところは
 自分で、閲覧室でデジカメで撮影して構わない
というところで、気合いを入れて撮影する。書状等は折りたたんであるので、
 カウンターで「重し」を借りる
のが吉。端を重しで押さえて、平面にして撮影する。もちろん
 フラッシュ厳禁
だ。
一枚物の文書は、大型の封筒に入ってくるので、出すときも仕舞うときも気を遣う。
閲覧テーブルはひろびろとしていて、コンセントが付いているので、パソコンも自由に使える。

多聞櫓文書は、解読に時間が掛かるので、この日は10点だけ撮影。
次回上京したら、続きをやる予定。

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2012-04-14

幸田成友「凡人の半生」(『幸田成友著作集』第七巻所収 中央公論社1971)

幸田露伴の弟、幸田成友(1873〜1954 明治6〜昭和29)が少年〜青年時代を描いた、明治初期〜中期にかけての自伝。生家である幸田家の話から帝国大学卒業までを扱う。
原著は1948年刊の単行本。中央公論社の著作集(七巻+別巻一)の第七巻に入っている。

でもって。
 全八巻で送料込で10000円ポッキリ
という廉さに驚いた。ま〜、今の時代、幸田露伴もあんまり読まれないし、幸田成友に至っては、更に読まれないだろうな。書誌学に興味がある人以外は、幸田成友なんて名前も聞いたことないかも。
バラで買うより、一括で買った方が断然廉かったので、さっさと購入。

幸田成友の筆写本『文館詞林盛事』を今年初め、京大図書館で見たばかり。てか、
 地下書庫に普通に置いてある
のである。もっとも、『文館詞林盛事』の写本は、都立中央図書館本も見ないといかんのですがね。

それはともかく。この
 凡人の半生
は、滅法面白い。少なくとも
 教育史
を噛っている人には必読書でしょう。制度がめまぐるしく変わった、明治初期〜中期にかけての学制の変化と教育内容が当時の小学生〜中学生〜高校生〜大学生の立場できっちり描かれている。そういう意味で
 貴重な証言
だ。

幸田成友は
 東京商科大学教授
だったので、後身である
 一橋大学
には、蔵書の一部から成る特殊文庫
 幸田文庫
がある。
こちらは平成14(2002)年に一橋大学附属図書館で開かれた
 武家社会と江戸・大坂の経済― 幸田成友とその史料 ―
の紹介。

『文館詞林盛事』について言えば、京大に古典研究会の影印本がないっぽいので、ちと困っている。見たいのは附属の
 文館詞林解題(阿部隆一・尾崎康)
なんだけどね。京大の蔵書リストを検索した限りにおいて、阿部隆一には冷たいもんなあ。

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2012-03-31

「医学史」は片手間の学問か

日本では
 科学史や医学史
というのは、大学内でもメインストリームではなく、片隅に追いやられている印象がある。
医学史研究者は、時々プロパーの歴史研究者に
 医学史研究なんて年寄の医者の道楽
などという揶揄をされたり、胡散臭い目で見られることがある。でも、それは本当なのか。

敬愛する医学史・科学史研究者のblogを二つ紹介する。
慶應の鈴木晃仁さんの
 身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
東京外大PDの若い科学史研究者、坂本邦暢さんの
 オシテオサレテ

少なくとも、このお二人がやっていることは
 片手間の学問
ではない。欧米では科学史研究には長い伝統があり、かつ学問的地位が高く、このお二人のdisciplineもそれに基づいている。知人の科学史研究者は、ハーバード大学の出身だが、
 科学史では、激しい議論が出て当たり前
だという話をこのあいだ聞いたばかりだ。日本だと
 発表者の学力・人格を疑うような質問
は、学会では控えられる傾向があるが、その手の厳しい質問が国際的な科学史関連の学会では珍しくない、とのことだった。
 専門家が時間を割いて出席しているのに、その貴重な時間をムダにするような「発表」は糾弾されて然るべき
ということだろう。

原発の問題一つを取り上げるにしても、
 成熟した科学史の観点からの議論
というのがほとんどなかった日本では起きるべくして起きた部分がある。欧米では科学史研究者は、アカデミックな世界だけでなく
 報道・出版の分野
にもたくさんいて、何か科学や技術に関した問題が起きた際には、専門家としてその問題を取り上げ、普通の人に、科学的に誤りなく、的確かつやさしく説明できるシステムができあがっている。
日本では
 文系出身で、なんの科学的思考や叙述の訓練も受けてない、ズブの素人の「自社の記者」が原発記事を書いたりしている
のとは大違いだ。
最近は欧米は、新聞記者のクビを切っているから、以前よりはこうした
 すぐ科学関連の専門記事が書ける人材
を、社内に置いているとは限らないが、社外には、すぐ連絡できて、確実かつ適切な記事を書くことの出来る筆者がいる。もちろん彼らは
 科学史関連の博士号や修士号を持っている筆者
だ。

なお、鈴木晃仁さんが、年末に慶應日吉キャンパスで開かれる
 アジア医学史学会演題募集
を呼びかけている。
 発表は英語
だ。国内で英語で医学史の研究発表が出来るチャンスなので、特に若い研究者には積極的に参加して欲しい。

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2012-03-28

特別講演会 馮錦榮香港大学教授「Galileo and Jesuit Science in 17th Century China」@3/27 人文研

中哲の先輩、馮錦榮香港大学教授の講演会が、昨日人文研で開かれた。
馮さんは、わたしが中文3回生の時の中哲のD1で、基本的に
 3回生/M1/D1
という組み合わせは、研究室でよく顔を合わせ、また、D1はM1の、M1は3回生の面倒を見る習慣だったので、結果的に3回生はD1とM1の先輩には特にお世話になる。わたしは、漢代の勉強をしていたので、中文と中哲と両方の授業に出ていた。で、調べ物等で中哲研究室には時々足を運んだ。その頃の中哲研究室は倫理学と一つの研究室を半分に区切って使っていて狭かったのだが、行くと、たいてい机の一つで、馮さんが勉強していた。馮さんの修論は、規定枚数50枚なのに
 本文50枚・注50枚・補論50枚
の150枚を、中国語で提出した、というので、有名だった。日本語と中国語では、圧縮率が違い、全文中国語で書くと、ほぼ1.6倍の内容になる。だから、馮さんの修論は、相当な分量なのだ。

馮さんの研究の特徴は
 それまで誰も気がつかなかった文献をアーカイブから拾い上げる卓越した能力
にある。昨日の講演は2本行われ、1本目は英語、2本目は中国語だったのだが、どちらの発表でも
 これまで誰も気がついてなかった文献
が大量に駆使されていた。いつもながらのことなのだが、凄い。文献を博捜するため、香港・中国・台湾はもちろんのこと、日本や欧米の各地の図書館に赴き、貴重書の中から、宝を掘り当てるのだ。最近は更に韓国も射程内だ。韓国ではいま漢字を自由に読み書きできる韓国人が激減しているので、中国・香港・台湾・日本の研究者は、漢文文献を調査するチャンスである。埋もれている文献がまだまだあるはずだ。
そして、今回は
 文献を博捜する能力が文物にも向けられた
ので、北京や台湾の故宮博物院にある
 天文観測機器
が、たくさん紹介された。康煕帝の天文観測機器はフランスに発注されたもので、パリの職人とその工房のサインが入っている。美しく機能的なそれらの天文観測機器を見るだけでも楽しいのだが、そうした機器の原理やガリレオとの関連が、イエズス会の活動を媒介として、見事に説明されるのを聞くと、明末清初の科学技術や科学知識の広がりが手に取るように見えてくるのだ。ラテン語で書かれた科学書が、中国のこうした天文観測機器や、漢訳された宇宙論に反映され、それらは後に韓国や日本にも及んでいるのを、馮さんが丁寧に解き明かしてくれた。

馮さんは、まだまだ論文の「ネタ」があるそうで、これから大量に明末清初の中国の科学史に関する論考を精力的に発表する予定である。とても楽しみだ。

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2012-03-24

藤實久美子『江戸の武家名鑑 武鑑と出版競争』歴史文化ライブラリー257 吉川弘文館 2008 1700円

江戸時代の武鑑といえば、民間の出版ながら、幕府や諸大名・幕臣の動向を知るためには欠かせない史料である。その武鑑をひたすら研究されている藤實久美子氏の武鑑案内というのか、武鑑を巡る出版動向に焦点を当てたのが本書だ。
内容は、深井雅海・藤實久美子『江戸幕府役職武鑑編年集成』(全36卷)に付された解題・解説を更にまとめた、という印象。読みやすさはどちらが上かというと、本書よりは『江戸幕府役職武鑑編年集成』の方が勝る。『江戸幕府役職武鑑編年集成』は共著なので、そのせいかな?
本書の文体は、文体を云云する類ではなく
 百科事典の解説文体
なので、あっという間に読める。ただ
 武鑑って何?
という疑問に端から端まで答えてくれているか、というとやや疑問が残る。藤實氏があまりにも武鑑にのめり込んでいるので、初学者への親切さを欠いているというところがあるのかも。もっと、一般的な平易な解説部分があった方がいい。

『江戸幕府役職武鑑編年集成』の解題・解説部分だけ、出版してもらえないものかなあ。

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2012-03-09

東大史料編纂所の「近世編年データベース 」内『東京市史稿』でお悩みのあなたへ

専門が近世史でも近代史でもないのに、このところ近世・近代の史料を集めて四苦八苦している。まあ、こういう
 門外の史料をこなす
のには、先達があらまほしいのだが、周囲には古代史の専門家はいても、近代近世の専門家は寥々たるもので、なおかつ質問をするのは憚られる
 エライ先生方
だったりする。
しょうがないから
 ともかく体当たり
という極めて効率の悪いことをやっている。
 習うより慣れろ
というわけだ。

で、
 東大史料編纂所

 大日本史料総合データベース
 近世編年データベース
 維新史料綱要データベース
 近世史編纂支援データベース
にそれこそ時時(じじ)お世話になっている訳なんだが、この中でも
 近世編年データベース
に入っている
 『東京市史稿』
の使い勝手が極めて悪い。なぜかというと
 あるデータがヒットすると、そのデータが含まれている最初の項目を表示する仕様
になっているからで、しばらくめくらないと出てこない上に、
 原本がデータを継ぎ足し継ぎ足し編輯されている
という極めて見通しの悪いものなので、困っていた。

何の気なしにググってみたら、あるじゃん、東京都とってもエライ!
東京市史稿 - 江戸東京の歴史を史料でたどる
ここに、
 『東京市史稿』のインデックス
が入ってるのだ! ありがとう、東京都。
これで、
 画像データのダウンロードの手間が短縮できる
わけ。

ということで、日本中にそんなにいないと思うけど
 『東京市史稿』の構成は一体どうなってるんだ
と途方に暮れているあなた、このインデックスを使えば、『東京市史稿』はあなたの忠実な僕に。結構、普通に見ようと思うと見るのが面倒な史料がてんこ盛りに入ってるので、『東京市史稿』自体はとってもよいものなのだが、いかんせん
 設計仕様がアレ
なのよ。ま、上記リンクでも書かれているように


東京市史稿は、明治44(1911)年以来、現在も刊行が続いている江戸・東京の歴史に関する資料を年代順にまとめた、編年体の史料集です。
タイトルが「東京都史」ではなく「東京市史」とあるのは、旧東京市時代の明治34(1901)年に、「東京市の歴史」を執筆するための史料集として編さん事業が開始されたからです。
昭和18年に東京都となった後も、タイトルを変えずに、現在まで刊行を続けています。

という
 息の長い
というか
 相当無茶な編集
なので、どうしても
 設計がアレな部分
が出てきてしまうわけ。てか
 1911年

 2012年
じゃ、書物の編集方針も変わっちゃうのが当たり前。ま、先人の血と汗の結晶を、うまく使いましょう。

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角大師のお習字

角大師というとこれである。画像はWikiコモンズから拝借。
Ryogen1

正月三日に示寂したことから、
 元三大師
という呼び名の方がポピュラーな、比叡山中興の祖
 慈恵大師良源
である。

調べ物をしていて
 慈恵大師良源が写した「紺紙金泥長寿命経残本」
なるものが幕末にあったことになっていることがわかったんだけど、いまでもこれは残っているのかしら。真蹟かどうかは別として。

上の画像の左側が
 元三大師の中の人
なんだが、どうも
 角大師
と呼ばれる関係で
 右の方が「中の人」
と思われているフシがある。たしかに、左の方の「本当の中の人」が写経しててもそうファンキーではないけど
 角大師がお習字
してたら、それはそれで
 なかなかキュートなビジュアル
だ。誰かイラストにしてくれないかしら。
ちなみにこちらが「角大師」
Photo
こちらが「鬼大師」
Photo_2
である。
いずれも、比叡山に参詣したときに頂いてきた「角大師」「鬼大師」。このかわいらしさが、堪りません。

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2012-02-22

「家」さえ続けば(その2)代々のお家柄

2012-02-18 「家」さえ続けば
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2012/02/post-da7c.html
の続き。

DNA継承至上主義の現代だと
 代々のお家柄
というと
 その家のDNAが現在の子孫に確実に受け継がれている
と勘違いするが、系図をよく見てみると、実はそうではないことが結構ある。

家が絶えないようにするために、養子を取る場合、血縁から取るとは限らない。
たとえば医家のように、学術・技術の家柄の場合は、
 優秀な弟子を養子にする
ことがあるが、最初はもし娘がいれば、娘と結婚させたりするけれども、
 出産での母子死亡率は非常に高い
わけで、お産や産後の肥立ちが悪くて妻が亡くなることはまれではない。さて、この場合、
 家付き娘に子どもがいるかどうか
は別として、
 後添いを迎える
ことは少なくない。その場合は、血縁かどうかはもはや考慮されていない。もし、考慮されるとすれば
 縁組に釣り合う「家格」かどうか
で、家格は前にも言ったように
 釣り合う家の「養女」とすることでいくらでも上書き可能
だ。
そして、子どもの死亡率も高いから、たとえ家付き娘の産んだ子どもがいたとしても、成人に達するとは限らないのだ。
多数の子どもが生まれたとしても、最後まで育つことがない場合もあって、そうなると、次代も養子を取ることになる。もちろん、現代の人々が悩むのと同じように
 子どもに恵まれない場合
もある。それどころか、妻を迎えないこともある。その場合は、必然的に養子を取る。
そして、子どもがいたとしても、
 不肖の子
であれば、実子を退け、迷いなく、家を継承するのにふさわしい才能を持った他人を養子に迎える。家をつぶすよりは、その方が遥にマシというのが、江戸時代の判断である。

結局、
 必要なのは家の存続
であり、DNAではないのだ。この辺り、うっかりしていると、現代のDNA継承至上主義の影響で
 江戸時代以来の代々優秀な家系
とか、信じてしまいがちだが、そんなことはまずないので安心して欲しい。
親類から養子を取ったとしても、その親類自体が、すでにそれまでに養子夫婦を入れたりしてるから、「一族の血筋」はそこで途切れている。確実なのは
 家が続いている
という情報だけだ。

養子による相続では、続柄が本来の血縁関係とは異なってくるわけで、中には、まったく血縁がないのに「親類」等になってしまうことがある。だから、江戸時代の公的な親類書や遠類書には、必ず、
 表向はこういう血縁関係があるようになっていますが、実際には血縁関係はありません
と断り書きがついている。
江戸時代の公的な親類書や遠類書が現在も残っているなら、その家の血縁姻戚関係の確認のしようもあるが、そうではなく、何の証拠となる公的な書類もないのであれば、
 代々の家柄
と言われても、それは残念ながらある種のフィクションなのであり、若い人達が、そうしたフィクションから構想された
 DNA継承至上主義圧力
に苦しめられる必要はない。自分の家の旧民法下の除籍謄本を取っただけでも、いろんな知らないことがわかったりする。

戦後の「家」はその辺りをすっ飛ばしてるから、余計、わかりにくいし、「家」幻想に基づく変な圧力をかけるよね。

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