2009-11-13

杏雨書屋特別展示会・研究講演会@大阪

明日11/14は、武田製薬の誇る医学史・薬学史研究の拠点「杏雨書屋」の
 研究講演会
が開かれる日だ。合わせて現在、大阪十三にある杏雨書屋では
 敦煌出土の貴重書を含めた中世以前の本草書の展示
が行われている。
杏雨書屋からのアナウンス。


杏雨書屋特別展示会・研究講演会ご案内(PDF)

第 53 回特別展示会および第 24 回研究講演会を下記の要領にて開催いたし ますので、ご来場賜りたくご案内申しあげます。

第53回 特別展示会
テーマ:「和漢の本草書 ―中世以前の写本と刊本―」
日 時:2009年11月9日(月)~13日(金) 10:00~16:00
        14日(土) 10:00~17:00
場 所:大阪市淀川区十三本町2-17-85 武田科学振興財団 杏雨書屋 2階展示室
* 龍谷大学図書館ご所蔵の敦煌本『本草集注』、杏雨書屋所蔵の敦煌秘笈『新修本草』や 弘治本『本草品彙精要』などの秘籍をはじめ、多くの貴重書の展示を予定しておりま す。

第24回 研究講演会
日 時:2009年11月14日(土)13:00~15:00
場 所:大阪市北区中之島5-3-68
リーガロイヤルホテル 2F 山楽の間 TEL (06)6448-1121
演題・講師
I 敦煌と『新修本草』―なぜそこにあったのか
新潟大学人文社会教育科学系 助教 岩本 篤志 先生
II 敦煌本『本草集注』について
龍谷大学名誉教授 上山 大峻 先生

* 準備の都合がございますので、研究講演会ご出席希望の方は 11 月 12 日(木)までに TEL、FAX、葉書、E-mail などにてご連絡をお願いいたします。
T E L : 06-6300-6815
F A X : 06-6300-6034
E-mail: kyou@takeda-sci.or.jp
住 所 : 〒532-8686 大阪市淀川区十三本町 2-17-85
武田科学振興財団 杏雨書屋

以上

講演会の方はもう参加を締め切っているけど、展示は誰が行っても大丈夫。実に貴重な書物を目近に見られるチャンスだ。

今回、講演をされる岩本篤志さんは、ご自身のblog"Marginal Notes & Marginalia"で、展示の目玉について紹介されている。


新収 典籍逍遙 ほか ― 2009/11/05 18:36
(略)
ついに「敦煌秘笈」本が公開される。今回、展示される「敦煌秘笈」本は『新修本草』序例だけだが、蔵経洞から持ち出され、ほとんど人目にさらされないまま100年経過したコレクションの一端が公開される意義は大きい。李盛鐸旧蔵本を中心とし「最後の宝蔵」といわれたこの敦煌文書のコレクションがこれからの敦煌研究に与えるインパクトの大きさを確信している。

講演も展示も大変に楽しみ。

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2009-09-20

古代日本の「アンフォラ」 京都府木津川市上津遺跡現説@9/20 10:00〜

古代地中海世界では、アンフォラという素焼きの両手つき甕の中に、ワインやオリーブオイル、穀物などを入れて船で運んだ。
木津川市の上津遺跡から見つかった
 長頚壺は日本古代のアンフォラ
だということができる。
Chok
この首の長い壺に、漆の産地から、漆を入れて泉津まで運んだ。この長頚壺の容量は、一杯まで入れると1.8lで、普通に入れると1.5lほどだそうだ。形はそんなに相違がないが、地方差は多少ある。現地で確認したところ
 延喜式の漆の貢進国と重なる産地からも運ばれていたようだ
との答だった。
漆の場合は、おそらく一升を単位として、漆がこの壺に入れられていたらしい。
Ur
泉津に到着した漆は、長頚壺の首を折って、甕に移し替えられた。漆は大変高価なものだったので、長頚壺からは、こそげ取るようにして、漆を移した。だから、長頚壺には、あまり漆の痕跡がない。

移し替えられた甕に残った漆。これもまた、泉津からどこかへ移されるときに、中をこそげるようにして、移したようだ。
甕に残っていた漆皮膜をこそげたもの。
Ur2
現地の説明では、中に入っていた漆は、現代の価値に換算して
 長頚壺1個=一升=24000円
だそうだ。これを興福寺の阿修羅像に使われた漆の量で換算すると、
 阿修羅像に使われた漆だけで、現代の価格にして5000万円ほど
だという。いかに漆が高価で貴重であったかがわかる。

ところで、長頚壺で運ばれたのは、漆だけではなかった。
Kam
長頚壺の底に残った有機物の痕跡。
現代のクライムサスペンスドラマだと、いとも簡単に残滓の内容を分析にかけて解明しているが、この残滓はどう分析するか、そこから考えないと、とのこと。
可能性としては、油や酒など、貢進された液体の税であろうとのことだった。

上津遺跡から見つかった土器片に付着した朱。
Shu
朱もまた、高価で貴重な産物である。これは分析に掛ければ、ある程度産地が絞り込めるだろう。

上津遺跡に官衙があったことを示す墨書土器。
Bok
「足」の字が見える。

上津遺跡の今回の発掘現場。全体で100平米ほどの狭い現場だ。
Gen1
レオパレスを建てる前に、遺跡にかかった土地なので調査したら、掘っ立て柱跡が多数見つかった。
柱跡は重なっていて、短い時期に建て直されている。一応、総柱建物なので、一時的な管理保管庫だったらしい。
Gen2
柱穴に、土器片が散乱して出てきている。見ての通り
 砂地の現場
なので、保存が大変。水は比較的抜けやすいが、足場が確保しにくい。水が抜けやすいために、柱が残らなかったようだ。
現場の土の層がえぐれているのが分かる。
Gen3
現場で聞いたら、
 掘ってる間に、雨などで浸食されて、えぐれた
そうで、なかなか大変な発掘だと推察する。
この場所は、氾濫原に当たるので、
 柱跡が重なっているのは、洪水で保管庫がダメになる毎に頻繁に建て替えたのでは
と考えることもできる。

現場では、
 古老の言い伝え
を地元の人で話していた。何でも
 そこらの木を全部切って運んだから、いまでも木が生えないはげ山がある
のだ、とのこと。都や社寺の造営に、この辺りの山の木を切って運んだという言い伝えが残っている。
鎮守の森というので、木に手をつけられず、かろうじて残っているのが、現場のすぐそばにある
 御霊神社の森
だ。
Gr2
ここの茂り方と、他の場所の木のない状態を見ると、なるほど、古老の言い伝えが今に残っている理由がわかる。

今回の遺跡の年代は
 恭仁京以後(750年前後)〜奈良時代末
辺りのものだという。平城京に都が戻って、東大寺の大仏ができあがり、789年に長岡京に遷都するまでの間のものだ。

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2009-09-19

京都府木津川市上津遺跡現地説明会@9/20 10:00〜 13:00〜

シルバーウィークは秋晴れで始まった。

明日、
 京都府木津川市上津遺跡の現地説明会
が、10:00からと13:00からの二回開かれる。場所はJR木津駅から800m。いま、電話して聞いたら
 御霊神社(ごりょうじんじゃ)といえばみんなわかります
とのこと。たぶん、JR木津駅から案内の地図と看板、遺跡の近くまで行けば道案内のヒトが立っていると思われる。

今回の現説の目玉は
 漆の入った壺
だ。現代の生活では
 川の水運
は忘れがちだが、平城京のあった頃、
 木津川にあった港「泉津」は平城京の外港
として機能していた。
京都新聞より。


港に奈良期の大蔵省施設? 木津川上津遺跡・漆付着の土器破片出土

漆の付着したかめの破片(右下端)など、港の跡の上津遺跡で見つかった土器。後ろの木立が木津川堤防=木津川市木津宮ノ裏

 古代から木津川舟運の港「泉津(いづみのつ)」の一部だった上津(こうづ)遺跡(京都府木津川市木津宮ノ裏)で、漆が付着したつぼやかめの破片が、倉庫とみられる建物の遺構から見つかった。荷揚げされたつぼ入りの漆を、貯蔵用のかめに移し替える公共施設があったと推定される。木津川市教委が16日、発表した。
 発掘は、御霊神社北側の木津川堤防べり約100平方メートルで、8月から行った。直径15〜30センチほどの掘立柱跡が約50見つかり、配置から、2棟以上の倉庫があったとみられる。
 土器の破片は、高さ・直径とも約20センチの長首のつぼ約20個分、かめ3個分などを発掘。水銀朱の付着した須恵器、人名の一部とみられる「足」と記された墨書土器もあった。
 つぼには、詰めていた漆をこそぎ落とした跡があった。形状から、北陸や山陰の製品が含まれており、製造年代は750年以降の奈良時代後半とみられる。
 調査した市社会教育課の中島正課長補佐は「泉津は木材の荷揚げ地として知られてきたが、税の『調(ちょう)』などとして全国から集められた漆を扱う、当時の大蔵省の出先の管理機構が存在した可能性がある。都の物流拠点としての『津』の実態解明に役立つ」と話す。

 現地説明会が、20日午前10時と午後1時に行われる。

というわけで、遺物は地味だけど渋い。
明日はデジカメと単眼鏡をぶら下げて、現説に出かける予定。

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2009-08-23

Lester K. LITTLE ed. "Plague and the End of Antiquity: The Pandemic of 541–750" New York, Cambridge University Press, 2008

古代ヨーロッパに終焉をもたらし、中世を招いたとされる
 ユスティニアヌスのペスト
に関する論文集。

一昨日届いた。
これから読む。

国際シンポや共同研究の論文報告というと
 雑多な寄せ集め
という感が強いのが、日本の場合だけど、本書は企画から出版までじっくり時間を掛けており、
 共同研究成果報告のすばらしいサンプル
だ。このレベルの論文集が日本で今後出ることはあるのかなあ。

まだちらちら眺めているだけだけど、それだけでも十分面白い。

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2009-08-22

William ROSEN "Justinian's Flea: Plague, Empire, and the Birth of Europe" New York, Viking Penguin, 2007

西暦541年夏に流行が始まったユスティニアヌスのペストに関する一般書。
これから読む。

で、この本はアマゾンの中古業者から購入した。ハードカバーで支払ったのは1500円ほど。元の値段は$27.95なので。相当安く入手できた。
アメリカにしかなかった頃のamazon.comから、日本への送料が高いので、総額$100以上になった時点で注文していた時代がつい10年くらい前だ。

感染症に対する日本人の意識の低さは、ペストの蔓延の有無と関わっているという議論があるんだけど、どのくらいペストに対する恐怖が欧米人にあるのかを確認するために、この本を読む。

ところで、昨日、図書館に出かけている間に郵便局が届けに来たらしく、不在通知が入っていた。再配達の電話を掛けようと、不在通知を見ると
 差出人(外国から)
とマジで書いてあった。
で、奈良中央郵便局に電話して、今日の午前中に再配達を頼んだのだが、なんと夜10時前に
 奈良中央郵便局から問い合わせの電話
が掛かってきた。
 特定できなかったので、もう一度不在ハガキをみてくれませんか
というので
 差出人(外国から)
というのを復唱。受話器の向こうで郵便局のおにいさんが頭を抱えているのが見えるような対応だった。
先ほど無事に届いたから、なんとかトレースできたってことで
 日本の郵便局は優秀
と言っていいのかどうなのか微妙な出来事だった。届くという所期の目的は達したから優秀なんだけど
 差出人(外国から)
って何だろ、って話で。

うちには欧米や中国、香港、台湾の本屋から本が届くのだが、たいてい、不在通知は
 差出人欄は空白
になっていて
 外国からの郵便物です
とかメモしてある。たまに
 差出人(よめませんでした)
とか正直に書いたのもあったりする。

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2009-08-19

肝心の所が読めない

9月の学会発表の準備をしている。
で、ネタである唐代の医学百科『外台秘要方』の宋版の景印本で元の文字を確認しようとしているんだけど
 肝心な所に限って、写真の文字が不鮮明で潰れていて読めない
のである。
底本は重文に指定されていて、静嘉堂文庫の所蔵である。いざとなったら静嘉堂文庫にお願いしに行かないといかんのじゃないか、という話は以前してたんだけど、夏の間は、本を傷める可能性があるのでムリ。それに宋版は、よい写真版さえあれば、直接見る必要なんてないのだ。
しかし、何だってこんな
 文字のにじんだ写真版
なんだろうな。もう一度写真を撮り直して再刊しないかしら。

こういう所、日本って割に遅れている。
中国大陸は政治的理由で、なかなか善本を見せてくれなかったりするのだが、日本はもっと閉鎖的かも。
3月に調査に行った台湾は
 デジタル画像に善本を落として、データベース化
してくれていて、実に良かった。このやり方だと、一度写真を撮れば、本は傷めずに内容を確認することができる。そりゃ、ある程度制約はあるけど、すくなくとも
 東洋医学善本叢書『宋版外台秘要方』
よりは1000倍マシである。大陸から、宋版を底本にした『外台秘要方』は出てるんだけど、簡体字横組で、文字が現物じゃない上に、排印の規則が必ずしも底本と合致してないようなので、やはり綺麗な写真版を見たい。
日本にある中国渡りの貴重な医学書なのに、実際に国内で手にできる写真版は、文字が読めない部分が少なくないなんて、皮肉以外の何者でもない。
もし、本当に版ズレなどがあって文字がにじんでいるのだとしても、いまならデジタル処理でそうした
 ゴミ
は除くことができるから、綺麗な文字に復元可能だ。
バチカンのアーカイブのデジタル化は、凸版印刷が手伝ってるんだけど、国内のこの手の貴重書のデジタル化は、どうなってるんだろうなあ。技術は国内にあるのに、それが国内で活かせないなら、実につまらない話になってしまう。

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2009-08-18

小林盛得 小池一行編『五十音引 僧綱補任 僧歴綜覧 増訂版』笠間書院

お坊さんや尼さんの名前が分かっていても、いつの人かわからない。とりわけ、僧尼名は似たような名前や同名の人が大量に存在する。そんなとき、中国仏教には
 陳垣『釈氏疑年録』
という古典的名著があり、仏教伝来から清・康熙朝途中くらいまでの歴代の僧尼の名前を年代順に羅列してある。もちろん、陳垣のこの書物が全面的に正しいわけではないのだが、
 当たりをつける
にはちょうどよいのである。この労作をコンピュータなどない時代に陳垣が個人的に成し遂げたというのが、中国の学者の地力の恐ろしさを伝えて余りある。てか、陳垣って『釈氏疑年録』だけじゃないからな。中国史を扱うのであれば、普通の人は
 『廿史朔閏表』
のお世話になったことが多いだろうし、あるいは
 『史諱挙例』
は、版本を読むときには必須である。敦煌に目が向いていれば
 『敦煌劫余録』
で、我が身を切られるような辛さを味わった日本人もいるだろう。あ、そういえばまた手元の『廿史朔閏表』がなくなってしまった。何回なくしているかわからないのだが、またどこかで買わなくちゃ。

さて、翻ってわが日本仏教なんだけど、これがまたわかりにくい。
やはり、古代仏教の僧名の当たりをつけるための資料として、昨年増訂版が出たのが
 小林盛得 小林一行『五十音引 僧綱補任 僧歴綜覧 増訂版』
だ。日本仏教史には闇いので、この書物が出版されてから半年以上経って気がついた。アマゾンに注文して、今日届いたところ。増訂版は
 究竟僧綱任
という資料の分を増やしてある。

載っているのは
 推古三十二年(624)〜元暦二年(1185)
までの分なので、この辺りの歴史を扱うすべての分野の研究者には必携の書物ではないかと思う。だいたい、この辺りの歴史絡みだと、仏教はちらちらと顔を出す。

手元に届いた分は、ii〜ivまでの印刷がとっても薄くて読みにくい。本文はなんともないんだけど、どうしてだろうね?

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2009-08-03

論文受領通知

12月刊行予定の学術誌の依頼論文が受領されたというメールが来た。一瞬、締切を一ヶ月間違っていたかも、と焦ってた論文だが、一応セーフだったみたいで良かった。
問題は
 Mac→Windows
という環境違いでJIS第二水準外の文字入り原稿の校正をやりとりしなくてはいけないことで、以前別な学術誌に事務局の言うとおりWord形式で送ったら、すべてのJIS第二水準外が見事に抜けているという恐ろしい校正が送られてきて、目玉をひんむいたことがある。結局
 印刷屋さんと直接交渉
することでなんとかなった。てか、確かあのときは
 印刷屋さんもMac
だったんじゃなかったかなあ。今回はどうなるか知らないけど、頭が痛い事態は続きそう。原稿に
 古代の国字
というとんでもない文字が1文字あり、これだけは作字しなくてはいけない。
今回一応PDFで送ったんだけど、打ち出しを送って頂戴との話。
ちゃんと版下作って送った方がよかったかなあ。

引用した一次資料が、国史・国文だけでなく、中国哲学や中国医学の文献や仏典も混じっているから、本人以外が校正できないという、これまた嬉しくない原稿である。口頭発表のときはいつもながら
 会場が凍る
という状況に。そりゃ、会衆の内、国史と現場で掘っている考古の人達がほぼ半数ずつ、残りが国文などの専門という前でしゃべったわけで、いきなり『毛詩』とか毛伝とか鄭箋とかの区別から説明しなくてはいけない事態というのは、なかなか世の中ではないことなので、しょうがないだろうなあ。『経典釈文』序録の内容を論文に入れても良かったんだけど、そこは省略。

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2009-05-12

平城京エイリアン? 世界遺産平城宮跡に無断で穴

頼むから
 文化財に傷をつける
のは止めてくれ。
共同より。


平城宮跡に深さ1・4mの穴 奈良県警が捜査

奈良市の平城宮跡で発見された穴=11日(文化庁提供)

 11日正午ごろ、奈良市の平城宮跡で、深さ約1・4メートルの穴が無断で掘られているのを奈良文化財研究所職員が発見した。文化庁から被害届を受けた奈良署が、文化財保護法違反(形状変更)容疑で捜査している。

 同署によると、穴の大きさは縦約1・5メートル、横約1メートル。政務の中心だった朝堂院の西側の土が掘られており、穴の中には何もなかった。付近は自由に立ち入ることができるという。

 文化庁によると、8日午前、同研究所職員が見た際には異常はなかった。今後、現場を修繕し、巡回を強化するとしている。

 平城宮跡は東大寺の西約4キロに広がる約1キロ四方の野原。平城京の政治の中心地と考えられており、世界遺産になっている。

2009/05/11 23:16 【共同通信】

しかし
 平城宮跡を無断で掘ってもいい
と思っている奴がいるとは唖然。

古京で穴を掘るというと
 平安京エイリアン
だけどな。
 平安京エイリアンオフィシャルページ
ダウンロードも出来る。

文化財の現況改変については、いろいろ面倒な手続きを経るのだが、今回は
 勝手にやった
から、当然犯罪ということに。
困っているのは現場。
【社会】平城京跡に無断で縦1.5M、横1M、深さ1.4Mの穴が掘られるスレッドより。


113 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:05:07 ID:8Qi+6MtTi
文化財復元修復業者の俺が来ましたよ
平城宮跡の現在のメイン復元建造物は大極殿
大極殿の東南につい最近復元の終了した
旧宮内省西北殿西南殿があります
一般公開はされていませんが 柵の外から見ることはできます。

さて出張事務所も監督もえらいこっちゃ
お願いですから仕事を増やさないで下さい
ロハでついでに、やらされるに決まってる
んです orz

115 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:07:22 ID:egBkDD+lO
>>113
いや金取れよw

125 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:12:45 ID:yqt6eM0V0
>>113
ご苦労様です。

113さん、お疲れさまです。

ところで、このスレに
 「平安京エイリアン」を作った当時の東大生
が登場。まさに
 おっさんほいほい
状態に。


107 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 22:55:11 ID:ogPTwg3p0
まさか現代に検非違使が実在するとは

114 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:06:06 ID:LknF4bYd0
【レス抽出】
キーワード:エイリアン
抽出レス数:27

おまえらいくつだよw

116 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:07:51 ID:3IkDmjA00
>>114
テーブル筐体でやってましたがなにか?

120 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:10:00 ID:Uz3DDGEl0
>>114
ゲームセンター初プレイ時、秋葉掘りでチンタラやってて、
時間切れでモンスター分裂し瞬殺されますた。

で、何か?

119 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:09:00 ID:ogPTwg3p0
>>114
そのゲーム作ってたとこのOBですがなにか?

156 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:28:28 ID:3cOyAkAY0
>>119
東大?
それとも村田製作所?

158 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:29:37 ID:ogPTwg3p0
>>156
TSGですじゃ

168 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:37:38 ID:3cOyAkAY0
>>158
おお、ソースのOBすか!

以下、年寄り(R45)の昔話。
 平城京エイリアンは実在した
というヨタ話。


59 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 22:41:06 ID:d5nypt2HP
あれ、それを言うなら、
「平安京エイリアン」
じゃないの?

なによ平城京エイリアンって・・・・

134 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:16:27 ID:lXXJoO/o0
>>59
実は平城京エイリアンも実在した
平安京エイリアンが出た後に出たパソコン(当時はマイコン)ゲーム

144 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:21:38 ID:Uz3DDGEl0
>>134
その手のアヤしいタイトルのゲームが、よく電器店の片隅のマイコン売り場で売ってたな。
カセットテープで。

146 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:22:38 ID:V5mbCa5X0
>>144
雑誌から自分で打ち込んだりしたんだよな。
カネ持ってる奴だけだ。カセットなんか買えるの。

155 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:28:11 ID:Uz3DDGEl0
>>146
BASICプログラムのゲームじゃ遅くて地味だし、
マシン語プログラムだと速くて面白いが、入力ミスで一瞬でプログラム消滅のリスク高し。

難儀な時代だったな、同志よw

160 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:32:33 ID:A8lla3db0
>>146
I/O とか片手に打ち込んでたなぁ。
あと、なんかの雑誌にソノシートが付いてたことがあって感動したw

162 :名無しさん@九周年:2009/05/11(月) 23:33:37 ID:ogPTwg3p0
>>160
ソノシートと言えばBEEP?

180 :名無しさん@九周年:2009/05/12(火) 00:07:06 ID:A8lla3db0
>>160
あぁ、BEEP!かもw
なにもかもが懐かしいなぁ……

185 :名無しさん@九周年:2009/05/12(火) 00:11:53 ID:2WeLgohn0
>>162
>>180
PIOだPIO。

191 :名無しさん@九周年:2009/05/12(火) 00:23:49 ID:3H01xy4m0
>>185
 ベーマガにもついてなかったか?

195 :名無しさん@九周年:2009/05/12(火) 00:30:07 ID:e4bv08yI0
>>185
Oh!Townsに初めてCDが付いたときはユーザーでもないのに買ったよな。

200 :名無しさん@九周年:2009/05/12(火) 00:33:45 ID:OeS7CZJS0
>>191
1980年代初頭の頃のベーマガにもついてたよね
MZ80用とかの
テープにダビングwして使う奴

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『小右記』を読む

連休中、東大史料編纂所のサーバは電源を落としていたのか、アクセス出来ず難儀した。東大の先生方はどうだか知らないが、わたしにとってGWは勉強時間だった。ま、連休直前に近鉄で拾った悪性の風邪が未だに治らず、マスクをして電車に乗って咳をすると、周囲に厭がられる。インフルエンザではないので、その点は問題ないと言えばないのだが。そんな風邪を抱えていたわけで、当初の予定通りには勉強は進まなかった。

史料編纂所の何に用があったかと言えば
 大日本古記録
で、今は『小右記』に検索を掛けて必要な部分を読んでいる。
しかし、小学生の頃、中公『日本の歴史』の第五巻、土田直鎮『王朝の貴族』を読んだときは、自分が、『小右記』とか『御堂関白記』とか『中右記』などを読むなどとは思ってなかったのだが、人生というのは分からない。
土田先生の時代は、『小右記』を読むにしても、頁を一々めくってカードを取っていた時代だろうけど、今はデータベースで検索掛けるだけで、必要な部分がずらずら出てきちゃうんだもんなあ。
道長の死に様を読みながら、死にかかっていた頃の道長へ向けられた視線などもチェックする。
しかし、『御堂関白記』ってのは、確かに豪快と言えば豪快な文章だ。

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2009-04-26

森鷗外『澁江抽齋』の基礎資料佐藤家蔵の「澁江家資料」が杏雨書屋に寄贈される

武田製薬の大阪工場敷地内にある
 杏雨書屋
は、医学史関連の資料を収蔵・出版する財団法人である。
このたび
 森鷗外の史伝『澁江抽齋』の基礎資料となる「澁江家資料」の寄贈
を受けて、特別展示会(昨日終了)と研究講演会(昨日)が開かれた。


杏雨書屋特別展示会・研究講演会ご案内

第52 回特別展示会および第23 回研究講演会を下記の要領にて開催いたしますので、ご来場賜りたくご案内申しあげます。森鷗外の小説でおなじみの渋江抽斎がテーマです。

第52 回 特別展示会
テーマ:「渋江抽斎資料展」
日 時:2009 年4 月20 日(月)~24 日(金) 10:00~16:00
25 日(土) 10:00~17:00
場 所:大阪市淀川区十三本町2-17-85
武田科学振興財団 杏雨書屋 2階展示室

第23 回 研究講演会
日 時:2009 年4 月25 日(土) 13:00~15:00
場 所:大阪市北区芝田1-1-35
新阪急ホテル 2F 紫の間

演題・講師
I「渋江抽斎と医学館」
二松学舎大学東アジア学術総合研究所
専任講師 町 泉寿郎 先生

II「弘前藩江戸定府医官渋江抽斎とその系譜」
弘前大学医学部 名誉教授 松木 明知 先生
(以下略)

町泉寿郎氏の講演は、
 寄贈された澁江家資料
に即したもので、
 幕末に多紀家の私塾「躋寿館」から幕府の直轄となった「医学館」の実際
についての分析が面白かった。なかでも
 孔子を祭る「釈奠」
を真似て
 神農氏を祭る行事が行われていた
など、医学館の日常が伺える話が興味深かった。抽齋は「医学館講書一件記録」に様々な日常の行事などを事細かに記録しているのだが、町氏は
 澁江抽齋は記憶力に優れていた
と指摘されていた。
恐らく、
 映像記憶能力があった
のではないかと思う。映像記憶能力があれば、実は、後から詳細に記録を綴ることは、それほど困難ではない。
神農氏の祭儀の供え物などの図解が添えられていたり、宴席の献立を事細かに憶えているのも、そうした能力の助けあってではないか、と思った。
もっとも、宴席の献立について言えば、この時期のこうした祭儀の直会などの献立は、割合に決まり切った物なので、バリエーションが豊かになりすぎている現代のわたしたちから見ると献立の一々を憶えているのは驚異のように思えるが、それは食生活の基盤が違うのである。
また、
 森鷗外が17歳の頃付いた漢学の師佐藤元萇は、澁江抽齋がコレラで急逝した後を襲って医学館の講師となった人物
という指摘で
 『澁江抽齋』では、鷗外は「武鑑の蔵書印で初めて抽齋を知ったと言っているが、本当は、17歳で漢学を習ったときから、その名を耳にしていたのではないか」
ということだった。これは中井義幸『鴎外留学始末』でも指摘されている。
鷗外が史伝を書き始めるのは、大正天皇の大嘗祭で応詔詩を上った以降のことなのだが、確かに、
 漢詩を再び作り始める
のが
 澁江抽齋に筆を進める契機
になったのだとしたら、そのトリガーとして、漢学の師が媒介になったということはあり得るだろう。
松木明知氏は、父子二代にわたる『澁江抽齋』研究者でもあり、若い頃から今は亡くなられた澁江家関係者や森於菟などに直接会いに行っているそうで、ご自身が
 鷗外史伝研究の一部
となっていると言っても過言ではない。

杏雨書屋の特別展示会図録は、今回も太っ腹で、カラー図版多数で大変有益。講演会の会場では、レジュメと一緒に配布された。

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2009-02-01

華陀とQOL@『三国志』華陀伝

病はある。
しかし、手術をしてもしなくても、予後は変わらない。

検査技術が発達している現代では、命には関わらないが、身体を不快にする病が見つかることがある。手術をすれば、その病が取り除かれるけれども、身体に負担を掛けてまで手術をする必要があるのか。

ありがちな話なのだが、『三国志』の華陀伝にこんな話がある。


又有一士大夫不快、佗云、「君病深、當破腹取。然君壽亦不過十年、病不能殺君、忍病十歳、壽倶當盡、不足故自刳裂。」士大夫不耐痛癢、必欲除之。佗遂下手、所患尋差、十年竟死。

(また士大夫で気分が優れない者がいた。華陀は言った。「あなたの病気は深い部分にあって、開腹して取らなくてはなりません。しかしながら、あなたの寿命もやはりあと十年ほどで、この病気が原因で死ぬことはなく、病気を十年辛抱すれば、寿命もちょうど尽きるはずですのに、わざわざ身体をかっさばくこともありますまい。」と。士大夫は痛みに耐えかねて、どうしても切除してほしい、と頼んだ。華陀はそこで手術を行い、苦痛はすぐに癒えたが、十年して結局その士大夫は亡くなった。)

華陀は「麻沸散」という麻酔薬を用いて、外科手術を行った、と『三国志』には書かれている。

その真偽は措くとしても、
 しんどい治療を行って、病気を根本から取り除いても、寿命は変わらない
という問題に、今から1800年前の医療従事者が直面していたエピソードは興味深い。

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2009-01-18

現説 馬場南遺跡@1/17 京都府木津川市

昨日は、
 馬場南遺跡の現説
だった。馬場南遺跡は
1. 「あきはぎの」という万葉歌木簡が出土
2. 大量の灯明皿を水に面した場所に投棄
3. 斜面の中腹に、三彩の須弥山を置き、四面に塑像の四天王を配した本堂
4. 「神尾/神雄寺」という墨書土器が見つかるが、史書に見えない寺名
という
 奈良時代中〜後期の謎の寺院遺跡
だ。

木津川市役所から現地までのシャトルバス。
Bb1
市役所内では遺物の展示。

水に面した6か所に、まとめて灯明皿が大量に廃棄される。
Bb3
京都府埋蔵文化財センターで発掘を担当された松尾さんのお話では、
 皿と皿の間に木の葉や泥が挟まっているので、一時に廃棄されたものではないだろう
とのこと。
この灯明皿には、通常出土する灯明皿よりもかなり大きなものがあり、どういう使い方がされていたのか興味を引く。

本堂に行く途中にある掘っ立て柱建物。
Bb4
画面後方の1列に3本の柱が残っている。

山の中腹(現状山林)にある本堂部分。
Bb5
心礎と外側の礎石の間になぜか
 瓦が落ちている
状態で発掘されている。普通は
 一番外側の礎石の外に瓦が落ちる
筈だが、謎。

万葉歌木簡の出土地点。
Bb6
木簡も展示されていたが
 裏はまだ読めてないので公表してない
という話。裏は削られている訳ではないとのこと。

で、
 神尾/神雄寺
なんだけど、
 瓦はそれほど出土してない
ってことで、
 総瓦葺きではないのではないか
と、現地では見ているようだ。軒先だけ、瓦で化粧していたのかな?

三彩は、この当時、使用できる身分に制限があっただろうから、
 三彩で須弥山を作っても大丈夫な寺
というと、発願した人物は限られるだろう。
木津というと
 橘諸兄
の故地だけど、近くにある橘諸兄の氏寺・井手寺との関係は不明。

四天王塑像は、ほぼ決められた方位に四体の破片が散らばっているので、方位ごとに破片を拾っているところだそうだ。塑像は粘土像だが、本堂が焼けたために粘土も焼け、現代に残った。
本堂に祭られていた「中尊」は不明。可能性としては
1. 火災の際に持ち出された
2. 火災で焼失
の二つで、焼失したとすれば
 木像や乾漆像など燃えやすく、後が残らない素材の像
だ。塑像の四天王を従えている辺りからすると、中尊は、金属の像ではなかったかも知れない。

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2008-12-13

本日高取町薩摩遺跡で現説 今日は現説日和

今日の奈良はよく晴れている。まさに現説日和だ。

で、本日は
 高取町・薩摩遺跡
で現説がある。
まだ間に合うので、お好きな方は是非。

橿考研のサイトより。


薩摩遺跡現地説明会および木簡公開のご案内

奈良県立橿原考古学研究所
Tel.0744-24-1101
下記の通り、現地説明会および木簡(実物)の公開をおこないますので、ご案内します。
【現地説明会】
日 時:2008年12月14日(日)
11:00~15:00(説明は11:00と13:00の2回)
場 所:高市郡高取町薩摩・松山(近鉄吉野線市尾駅より徒歩15分)
内 容:古代の溜池が検出された。溜池の取水口にあたる木樋が検出され、また波多郷長檜前村主が池を作ったという内容の木簡が出土した。
※駐車場はございませんので、公共交通機関でお越しください。

【木簡の公開】
薩摩遺跡から出土した木簡(実物)を、当研究所附属博物館の無料ゾーンで公開します。
日 時:2008年12月14日(日)午前9時から午後5時まで(入館は午後4時半まで)
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
Tel.0744-24-1185

この木簡がちょっと変わった木簡なので、見に行きたかったんだけど、風邪を引きかけたらしく、全身の関節が痛い。今日は外に出られない。
ああ、残念だ。
風邪の原因は過労だから、おとなしくしていろ、ということなんだろうな。

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2008-12-08

漢籍電子文献資料庫@台湾中央研究院歴史語言研究所の旧バージョン削除→復活した模様

毎日のように使っている
 台湾中央研究院歴史語言研究所

 漢籍電子文献資料庫の旧バージョン
に、日曜日に突然アクセスできなくなり、ビックリした。
ごっそり、サーバからディレクトリが削除されていて、アクセスできない。

結局
 新バージョンに完全移行
したようだ。
 漢籍電子文献資料庫(現行版)

旧バージョンにあった文書がいくつかなくなっているような気がする。

続き。(12/12 3:00)
コメント欄でご教示いただいたので、アクセスしたら、
 旧バージョン
復活。ああ、びっくりした。
一体全体、どうなっているんだか。

姚際恒に用があったので、困っていたところだった。

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木簡学会 12/6-7@奈文研講堂

毎年恒例、12月の第一土日は木簡学会。
今年は発表しなくてはいけなかったので、半分死にかけつつ参加。30分で中国古典文献学の話をする。木簡学会は半分は現場で掘っておられる方達なので、できるだけ漢文をわかりやすく説明するのがポイント。てか、白文で出さないとわからない資料なんだけど、白文は、実は国史の先生方もお嫌いらしい。訓点打ってあるほうがダメなんですが、わたし。当然、訓点は打たず、問題となる部分の色を変えて説明。
 2分で分かる『経典釈文』序録(もちろん一部だけ)
とか、荒技を繰り出してなんとか終了。
『経典釈文』序録について言えば、それだけで半年間は授業が出来るわけで、その一部とはいえ、大学の授業(大抵は中文・中哲専攻の二回生向け授業だろう)であれば、2-3コマかけて説明するところを2分(スライド4枚)で片付けたんだから、まあ、なんと申しましょうか。白文をおまけにつけようか、最後まで悩んだんだけど、白文だけ付けても、たぶん、資料としては再利用していただけないだろうと思い、止めた。『経典釈文』序録に訓点を打つのは、ちょっとイヤだし。中文や中哲の授業だったら、説明するときに訓読はするけど、資料は白文で渡す。点は学生が各自自分で打つのが原則だ。そっちに慣れているので、どうも、配付資料に訓点を打つのには抵抗がある。

今回は
 歌木簡とその周辺
の実にホットな話題が凄かった。
一番感動したのは、犬飼隆先生
 万葉仮名は「渡来人の作った書記法」
という指摘で、
 上代特殊仮名遣いを聞き分けたのは、日本語のネイティブスピーカーではなく「外国語の耳を持っていた渡来人」
というお話だった。いや〜、長年の
 上代特殊仮名遣いの疑問が氷解
しました。

恒例の「木簡観察」の時間では、単眼鏡をぶら下げて、舐めるように出土木簡の現物を眺めてきた。石神遺跡から出ている「天王」木簡が面白く、以前調査した徳島・観音寺遺跡の『論語』木簡との字体の類似性を感じた。ちょうど、徳島県埋蔵文化財センターの藤川さんがいらしたので、「天王」木簡を見ていただいて、奈文研の飛鳥・藤原調査部の市さん達と意見を交わした。
しかし、石神遺跡は何が出て来るかわかりませんな。

今後の課題は
 紫香楽宮の遺跡である、甲賀の宮町遺跡を見に行きたいが、足がない
という件。担当の方から
 車で来ると、ICから5分の現場なんですけど、バスだと、一番近い停留所から1時間歩きます
と伺った。今週から現場の発掘を再開するらしい。行きたいけど、そもそも免許を持てない身体的問題があるので、困っている。だいたい、世の中に、
 宮町遺跡まで車を飛ばす趣味
のあるヒトがそれほどいるわけでもないしなあ。

ところで、何人もの方から、拙blogの記事に関して、お尋ねがあった。むむむ。木簡学会では、結構読んでる方が多いのね、とちょっと冷や汗をかく。

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2008-11-28

いろんな角度でつっこみどころ満載の扶余出土「百済の618年出挙」木簡

新聞発表の考古学情報というのは、肝心な部分がオミットされていたりしていて、判りにくいのだが、この木簡の紀年が「百済の618年に当たる」というのが本当なら、
 いろんな角度でつっこみどころ満載
だ。

618年。
中国では、義寧二年五月戊午、隋恭帝の禅譲により、唐建国。
日本は推古二十六年。
朝鮮半島関係では、『日本書紀』巻二十二にこんな記述がある。


秋八月癸酉朔、高麗遣使貢方物。因以言、隋煬帝興卅萬衆攻我。返之爲我所破。故貢獻俘虜貞公、普通二人、及鼓吹弩抛石之類十物并土物駱駝一疋。

推古二十二年に犬上君御田鍬らが派遣された遣隋使の話をすれば、帰国した翌二十三年(615)ににこんな記事。


秋九月犬上君御田鍬、矢田部造至自大唐。百濟使則從犬上君而來朝

『日本書紀』では遣隋使が行った先は
 大唐
と書くお約束。で、帰ってきたとき、百済使と一緒だった。

以上のような史書の記述がある、という上で、下の記事を読むと、いろいろと考えなくてはいけないことがあることが出てくる。
11/25付朝日新聞より。


律令制は百済から学ぶ? 韓国で類似制度示す木簡出土

2008年11月25日3時2分

百済の都・扶余で見つかった出挙木簡(写真と釈読)

 古代の日本が中国をモデルに律令制度を整備する際に、朝鮮の百済(くだら)(4世紀半ば〜660年)が窓口の役割を果たした可能性を示す木簡が韓国で発見された。奈良〜平安時代の律令国家を支えた財政制度「出挙(すいこ)」と同様の仕組みが百済に存在し、記録の方法も日本と同じであることが分かった。

 百済の都だった扶余で、今年4月に木簡6点が発見された。周辺には役所が並んでいたと推定され、木簡の1点に税の収納を担当した役所の「外椋部」の名があった。木簡は長さ約30センチで「貸食記」と表題があり、618年のもの。日本は飛鳥時代で聖徳太子の時代に当たる。国立歴史民俗博物館の平川南館長(日本古代史)、早稲田大の李成市教授(朝鮮古代史)らが解読し、百済が国庫に持つ稲の種もみを運用した「出挙」の記録と判断した。

 出挙とは、作付けの季節や食料が不足する端境期に農民に種もみを貸し、収穫の秋に回収する制度で、中国では私的な貸借だった。中国をモデルに8世紀に整備されたとされる日本の律令制度では公的制度としても運用され、租庸調と並ぶ財源となった。私的な出挙の利子は上限が10割だが、公出挙では5割。地方の役所の運営、港や駅の維持、寺社の造営など、広範な行政や社会活動が公出挙の利子に依存し、貸し付けは次第に強制化したとされる。

 見つかった木簡から、百済にも公的出挙が存在し、利子が日本と同じ5割だったことも分かった。出挙を記録した木簡は、日本では7世紀末以降のものが出土しており、書式もよく似ている。(渡辺延志)

     ◇

 〈鈴木靖民国学院大教授(日本古代史)の話〉 古代の国づくりの知識は、遣隋使や遣唐使を通じて中国からもたらされたというイメージが強いが、中国とは国の規模も違い、そのまま導入するのは難しかったはずだ。百済はいち早く中国の制度や文化を取り入れ、当時の日本とも親しい関係にあった。今回見つかった木簡は、国の根幹にかかわる財政制度が百済から導入されたことを物語る。

この木簡の話で半年はいろいろ悩めそう。
こと「百済」が絡んでるとなると、上記記事のような、簡単な結論にはならないように思いますが。

新聞発表では、釈読の全文は上がっておらず、写真を見るだけでも、かなりの字数がある「百済618年出挙木簡」の全体像が分からない。

しかし、よりによって618年の木簡とはね。

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2008-11-25

植物画の楽しみ

授業で使う資料を探していると、最近は
 デジタルアーカイブで公開している貴重本
に当たることが多い。

今日は、美しい蘭の挿画で知られる、John Lindelyの
 Sertum orchidaceum: a wreath of the most beautiful orchidaceous flowers
を探していた。探してたのは、花の絵ではなく
 植物細胞の「核」の図
である。たしか、この書物の挿図は
 Ferdinand Lukas Bauer
の仕事じゃないのかな。
挿図は挿図で別なリストになっているので、めくっていくと、最後に
 蘭の核を描いた図
が見つかった。美しい彩色画で、元になった蘭本体の下に、顕微鏡で観察した細胞の絵が付属している。
リンクも貼ったけど、この貴重本を集めているアーカイブは
 Missouri Botanical Garden Library"のもので、
 Rare Books from the Missouri Botanical Garden Library"
である。
ミズーリ植物園(MBG)のホームページはこちら。チャンスがあったら、是非行ってみたい。その前に、まずはキューガーデンに行かなくちゃ。

植物園といえば、札幌では、北海道大学植物園のことを指す。札幌市民には馴染み深い行楽地で、子どもの頃には、よく連れて行かれた。映画『南極物語』の主人公にもなった、南極探検隊に置いて行かれた樺太犬タロは、帰国後、植物園で余生を送っていた。いまは剝製になってガラスケースに入っている模様。

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2008-11-22

悲しい現説日和

今日は、奈良教育大で午前中の2時間、新薬師寺の遺構公開があったのだが、朝からひどい腹痛で、布団の中で丸まっていた。晴れて、すばらしい現説日和なのに、この腹痛ではいかんともしがたい。鎮痛剤を飲めない体質(よほどのことがないと飲まないし、飲んでも効かない)なので、温めて、これ以上ひどくならないようにするくらいしか手立てがない。肩のリハビリにも行けなかった。

夕方になると、少しましになったので、ゆるゆる起き出して、今日初めての食事を作る。
 きざみ肉うどんの卵とじ
という、実にずぼらなもので、細く刻んだ薄揚げと豚肉を饂飩の出汁で煮て、葱と菊菜を投入、最後に軽く卵でとじた。饂飩は冷凍の細饂飩で凌いだ。ちょうど2回分のお出汁になっているので、次回は、乾麺の細饂飩を茹でるところから始める。

食事を済ませると、多少は動けるようになったので、荷物を受け取ったり、片付けたりしてから、また、布団の中で丸まっている。

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2008-10-04

犬も歩けば棒に当たる

朋友書店から、中華書局から出ている学術筆記叢刊の一冊
 清・鄒漢[員力]『読書偶識』
が届いた。コンタクト用の眼鏡を掛けてめくっていたら
 説文、嬰、頚飾。
という文章が目に入った。なるほどね。

首にできる腫れ物は「やまいだれに嬰」と書く。『日本霊異記』にも『医心方』にも、当然ながら先行する中国の種々の医学書にも記されている疾病である。
ズボラをしてきちんと文字を調べずにいたのだが、なるほど、『説文解字』の解釈に従えば、その通りだ。
「やまいだれに嬰」と書く腫れ物は、主に甲状腺腫だろうと考えられているのだが、
 嬰、首飾
というのであれば、喉の前面に大きな瘤を作るこの病を表す文字としてふさわしいわけだ。

せっかくなので、段玉裁『説文解字注』を繙いた。
 十二篇下 女部
の文字で『説文解字注』では
 嬰、繞也
と貝部の[貝貝]の説解によって本文を改めている、で、その後に
 从女[貝貝]、[貝貝]、貝連也、頚飾
と続く。ついでだから、六篇下貝部も開いてみると
 [貝貝]、頚飾也、从二貝
となっている。
「やまいだれの嬰」は、『説文解字』にも入っていて、これは七編下。説解は
 頚瘤也
だ。

中国人のこの手の筆記は、端から端まで熟読することは少ないのだけれども、たまにめくると、いろいろと教えられることがある。

これからは、病名を見たら、まず『説文解字』などの字書も調べないとな。

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2008-09-30

拝受 犬飼隆『木簡から探る和歌の起源』笠間書院

著者の犬飼隆先生から頂く。ありがとうございます。

いま、国語国文学と国史学のホットな話題
 歌木簡
について、最新の資料を駆使して書かれた「和歌誕生」を巡る論説。
先ほど届いたばかりなので、これからじっくり拝読いたします。

むむむ、やっぱり歌木簡の論文を書かないといけないな。
犬飼先生とは、徳島県の観音寺遺跡木簡を調査したときにご一緒した。
表記や音韻学、国語史の観点から、出土文物を扱われる国語学の専門家である。

出来たての書籍を送っていただいたようで、まだアマゾンには本書は掲載されていない(9/30 13:00現在)。
笠間書院のサイトから。


犬飼隆『木簡から探る和歌の起源 「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代』(笠間書院)

Inukai

木簡から探る和歌の起源 
「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代

犬飼隆著

ISBN978-4-305-70390-3 C0095
定価:本体1,900円(税別)
四六判・上製・カバー装・216頁

遙か古代、有名な「歌」だったにもかかわらず、歌集には縁がなく、それ以外のところで
盛んに出て来る「難波津の歌」。
この歌の出自を探ることで、和歌の起源が見えてくる。

文学の歴史を変える、スリリングな一冊!

2008.5.23に報道された、万葉歌と同じ歌を書いた木簡が発見されたことの、
本質的な意味もわかる本です。

【目次】
カラーグラビア●
滋賀県甲賀市史跡紫香楽宮跡(宮町遺跡)出土
「両面歌木簡」のカラー写真・赤外線写真・復元木簡(模型)の写真

プロローグ●
「うた」を素材にした「歌」が昇華して和歌となる

第一章●
難波宮跡から出土した「歌木簡」

第二章●
紫香楽宮跡から出土した「両面歌木簡」
 1.表裏に「難波津の歌」と「安積山の歌」が書かれた木簡
 2.「難波津の歌」と「安積山の歌」は「歌」の手本だった

第三章●
典礼の席でうたう「歌」  
 1.律令官人は職務として「歌」をつくり書いた
 2.中国の「楽府」と日本の「歌」

第四章●
出土物に書かれた「歌」たち
 1.出土した「難波津の歌」たち
 2.出土した「歌」たち「うた」たち

第五章●
観音寺遺跡から出土した「難波津の歌」木簡の価値

第六章●
「歌」の記録と和歌の表記
 1.「歌」をうたう場と記録
 2.漢字で「歌」を書くとき和歌を書くとき

第七章●
五重塔の天井に書かれた「難波津の歌」と和歌

第八章●
典礼の場から文学サロンへ、そして贈答歌へ

第九章●
「難波津の歌」の世界と『万葉集』の世界

後書

付録
・関連年表
・主な木簡出土地図
・著者名索引
・キーワード索引

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2008-09-06

COE研究会 「漢長安城の考古新発見と都市構造の変化」劉振東(中国社会科学院考古研究所研究員)@本日 14:00-16:00 奈良女子大

今日の午後の研究会。直前になっちゃったけど、興味のある方は是非。


COE研究会

2008年9月6日(土) 14:00~16:00
  於:奈良女子大学文学系N棟1階 N101号室 →構内建物配置図

  「漢長安城の考古新発見と都市構造の変化」
    劉振東(中国社会科学院考古研究所研究員)

◎開催にあたって
今回は、中国よりご来日中の劉振東氏をお招きし、発掘調査の進展により新事実が明らかとなっている漢代の長安城について、最新見解をご披露いただくことになりました。貴重な機会ですので、奮ってご参加ください。

*内容は研究者対象ですが、参加制限は設けませんのでご自由にご参加ください。
*参加申込不要、無料です。
*連絡先: 奈良女子大学COE研究室 coe-kodai@cc.nara-wu.ac.jp

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2008-09-05

Vesalius: "De Humani Corporis Fabrica"1543@British Library

新学期の準備をしていて、
 Vesalius : "De Humani Corporis Fabrica"
の挿絵を捜す必要ができた。さて、どうしよう。
慶應が一冊持っているのはわかったが、画像は公開されてない。
ググってみたら、大英図書館(British Library)の"Turning the Pages"という画像データベースに、高画質版をShockWaveで公開しているのを発見した。
Turning the Pages: High quality version of Andreas Vesalius' De Humani Corporis Fabrica
英語の説明が付いていて、説明は音読もしてくれる。画像は付属のルーペ機能で拡大することもできる。
いやはや便利な世の中ですね。
これは初版の1543年版とのこと。

で、
 『不思議の国のアリス』のオリジナル本
Turning the Pages: High quality version of Alice's Adventures Underground
もあるぞ。こちらは指定すれば原文を朗読してくれるので、アリスの言語世界を堪能できる。子どもの頃、アリスの日本語翻訳がどうにもわけがわからなかったヒトは、是非。

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2008-08-14

神奈川県立金沢文庫へ行く

家から歩いて15分のところにあるのが
神奈川県立金沢文庫
である。夏休みの課題の一つは
 金沢文庫の古文書調査
だ。古い目録(翻字つき)に載っている方は全点写真版になっている。新しい目録の分は、マイクロフィルムの目録でフィルムの請求をする仕組みだ。
いまはまず、古い目録を端からめくっているところだ。
 全数手当たり次第に眺める
という、極めて原始的な手法。ブツがあるのは分かっているので、その点は気が楽。

今日は、マイクロフィルムを製本したもののコピーを請求した。
見たところ、あまり残りのよくない古文書だが、時々面白そうなことが書いてあるので、使えるかも知れない。

その他は、翻字されている分を少々コピー。断片的な情報も、集めると意味が出てくる。

でもな〜、金沢文庫のある称名寺って真言律宗だから、もうちょっと残ってそうなもんだな〜。たぶん、マイクロ目録の方に、目指す資料のいくつかは眠っているだろう。

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2008-07-08

拝受 渡辺晃宏(代表)『推論機能を有する木簡など出土文字資料の文字自動認識システムの開発』(平成15-19年度科研費基盤(S)成果報告書・『奈良文化財研究所紀要2008』・市大樹「慶州月城垓字出土の四面墨書木簡」

著者の市大樹さんから頂く。ありがとうございました。
 ・渡辺晃宏(代表)『推論機能を有する木簡など出土文字資料の文字自動認識システムの開発』(平成15-19年度科研費基盤(S)成果報告書
は、奈文研が中心となって取り組んでいた、木簡釈読のためのデータベース解析研究についての分厚い報告書。全部で300ページを越える。
 ・『奈良文化財研究所紀要2008』
は、6月に出たばかりの奈文研紀要の新刊。冒頭にカラー口絵、前半が研究報告、後半が発掘報告。発掘報告の地図や測量図は二色刷りで見やすい。
・市大樹「慶州月城垓字出土の四面墨書木簡」(奈良文化財研究所・大韓民国国立文化財研究所『日韓文化財論集I』奈良文化財研究所学報77所収)
は、慶州の四面墨書木簡(149号木簡)を、日中の資料を援用して読みを確定し、木簡の性格を明らかにした論考。とても面白い。

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2008-06-23

藤原京跡出土木簡から藤原不比等邸を示す記述発見→NHKと朝日は取材に行けよ

今のところ、読売が報じている。


藤原京跡で不比等示す木簡、邸宅の存在裏付け

木簡の出土場所

 奈良県橿原市の藤原京(694~710年)跡で出土した木簡に、右大臣を意味する「右大殿(みぎのおおとの)」との文字が書かれていたことが奈良文化財研究所の調査で分かった。

 当時の有力政治家、藤原不比等(ふひと)(659~720年)とみられる。藤原京内で不比等にかかわる木簡が見つかったのは初めて

 木簡は縦24・1センチ、横2・5センチ。同研究所が1979~80年に行った発掘調査で、藤原京の中にある藤原宮の12の門のうち、東側の一番北にある門跡近くの溝から出土した。

 同研究所の市大樹(いちひろき)・主任研究員が赤外線写真で分析した結果、「右大殿荷八」と書かれていることが判明。宮内から、右大臣邸に八つの荷物を運ぶ際、門で外された荷札とみられる。

 荷物を運び出す際には、邸に近い門を使用したと考えられることから、不比等邸が藤原宮の東か北東にあったと推定できる。平安時代の文献に、不比等邸を「城東第」と記され、宮の東にあったとしていることを裏付けるという。

 不比等は日本最初の法典・大宝律令制定を主導し、平城遷都を進めた。

(2008年6月23日14時35分 読売新聞)

関西版が詳しい。木簡の写真入りだ。


藤原京跡から「不比等」示す木簡、邸宅の存在裏付け

「右大殿荷八」と書かれた木簡の赤外線写真=奈良文化財研究所提供

 奈良県橿原市の藤原京(694~710年)跡で、宮の北東にあった門付近から出土した木簡に、右大臣を意味する「右大殿(みぎのおおとの)」と書かれていたことが判明、藤原不比等(ふひと)(659~720)を指す可能性が高いことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。藤原京内で不比等にかかわる木簡が見つかったのは初めて。門に近い宮の東側か北東側にその邸宅があったことを示す物証となり、謎の多い古代の実力政治家の実像を探るうえで貴重な資料となる。

 木簡は縦24・1センチ、横2・5センチ。1979~80年に行った発掘調査で、藤原宮の12の門のうち、東側の一番北にある門跡近くの溝から出土した。

 当時は「大殿」の文字しか読めなかったが、市(いち)大(ひろ)樹(き)・同研究所主任研究員が赤外線写真で分析した結果、「右大殿荷八」と書かれていることが判明。宮内から、右大臣邸に八つの荷物を運ぶ際、門で外された荷札とみられる。同じ溝から、不比等が右大臣に任命された「和銅元年(708年)」の年号が入った木簡が出土しており、「右大殿」が不比等を示す可能性が高いと判断した。

 荷物を運び出す際には、邸に近い門を使用したと考えられることから、その邸宅が藤原宮の東か北東にあったと推定でき、平安時代の文献で不比等邸を「城東第」と記し宮の東にあったとしていることを裏付けるという。

 不比等は日本最初の法典・大宝律令制定を主導、平城遷都を進めた。平城京(710~784)では不比等邸の跡地にある法華寺の門前付近で「右大殿」と書かれた木簡が調査で見つかっているが、藤原京では不比等に関する木簡は出土していなかった

 千田稔・立命館大客員教授(歴史地理学)の話「右大臣になった年の木簡が出ており、間違いなく不比等にかかわるものだろう。宮の東側の調査が行われれば、新たな発見が期待できる」

(2008年6月23日 読売新聞)

というわけで、
 以前出土した木簡を再検討したら、「右大殿」の文字が出てきた
のが、今回の発見だ。
この間の
 所謂『万葉集』木簡
もそうだったけど、
 以前出土した木簡の再検討で、新たな発見
が生まれている。

さて、NHKのニュースを待つかな〜。

と、思ったら、ちょっとしたネタが入って、
 朝日とNHKが奈文研に取材に行ってない
らしいぞ〜。
 不比等邸を示す木簡
というと、相当でかい歴史ネタなんですが。ダメじゃん、朝日とNHK。
 木簡なら絵も撮れる、おいしい歴史ネタ
なのに。朝日は小滝ちひろ編集委員が月曜だから遅出なのか? NHK奈良局は久保記者とか稲垣記者の担当じゃないの? 最近「ならナビ」ちゃんと見てないから、誰が古代史担当かチェックしてないんだけど、少なくとも
 奈良やまと路報道室の担当記者
の持ち場だろう。
ちなみに
 読売が抜いたネタ
だそうで、報告書を丹念に読んで記事にしたパターンだそうだ。大阪読売の文化部、エライじゃん。
NHKも朝日も取材に行けよ〜。
毎日は当然ながら、橿原以南は
 「大淀病院産婦死亡事例」第一報の林由紀子記者が担当
だよな。

で、結局NHK奈良は
 大安寺の笹酒でがん封じ
という、
 定例暇ネタ(毎年1月と6月23日の行事)がトップニュース
だった。今は研修期間で記者がいないとか、かね。
ま、記者リポートでも何でもいいから今後フォローを宜しく。

ちなみに今回もそうなんだけど
 活字の刊行物の論文からネタを拾う
のは、関西各メディアがやるんだけど、NHK奈良はかなり遅い。こないだ各紙とNHK奈良は、しばらく
 『正倉院紀要』の新刊ネタ
をバラバラにやっていた。
『正倉院紀要』はここからダウンロードできる。
正倉院紀要閲覧
で、ニュースネタに使われていたのは、
・第30号 正倉院宝物の螺鈿技法に関する知見について(北村昭斎)Kitamura

・第30号 正倉院「厚朴」の原植物について-正倉院薬物材質調査補遺-(柴田承二・米田該典)Shibata・Yoneda
についてで、媒体によって取り上げる速度に遅速があった。一番遅かったのがNHK奈良かな。各紙の記事も、書いた記者の腕力が一目瞭然で、こうやってリポジトリで成果が公表される時代に、果たして
 新聞やテレビニュースが、正しい歴史関連ニュースを報道できるのかどうか
は、ニュースの受け手が簡単に検証できるようになってきている。前は
 報道発表資料と会見での質疑に基づいて記事を書く
ことが多かったが、いまはPDFで報道発表資料を公開している研究所や教育委員会が増えてきたからね。
大学などの機関のリポジトリ一覧は以下に。
国内の機関リポジトリ一覧
各機関にリンクされているので便利。このリストには正倉院事務所は含まれていない。

(追記 6/24 12:00)
その後の後追い状況。
共同通信 2008/06/23 20:54
不比等あての木簡か 藤原京、右大臣示す

産経新聞 2008.6.23 21:50
藤原宮跡で藤原不比等にあてた木簡発見

23日中には毎日・朝日・NHKは報道せず。

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2008-06-22

「3の倍数ではアホになります」九九の計算間違いが書かれた1200年前の木簡が発掘・発見される@兵庫県豊岡市

この話は、本命は
 詩経の注釈書である『毛詩正義』(これが正しいかどうかは別に検討する)
の書かれた木簡が見つかった、というところなんだけど、掲示板を見ていたら、あまりにも面白かったので、
 三九廿四
と書いた計算間違いを1200年も経って、見つかってしまった、名もなきかわいそうな下級役人の話をメインにする。
そもそもは、こんな話。
毎日より。


詩経:注釈の木簡、兵庫祢布ケ森遺跡で出土…9世紀初め

 兵庫県豊岡市教委は20日、律令制下の役所の一つ、但馬国府跡とされる同市日高町の祢布(にょう)ケ森遺跡から、中国の四書五経のひとつ「詩経」の注釈を記した9世紀初め(810年前後)の木簡が国内で初めて出土した、と発表した。詩経の注釈書は官吏養成機関のテキストで木簡に書き写して勉強したらしい。9世紀前半は漢詩集が次々に編さんされた時代で、平安京での漢詩の流行が地方にも及んだことを示す貴重な史料となりそうだ。

 203点の木簡の中から見つかった。食器などを載せる底板(縦39.5センチ、横10.9センチ、厚さ7ミリ)に、墨書で「淒(せい)寒風也谷風曰東風健児長」(寒風はすさまじく、万物を成長させる谷風は春風)などと書かれていた。

 「淒寒風也」は「淒其以風」(いたみ悲しみつつ亡き妻の霊を降ろす)。「谷風曰東風」は「習習谷風以陰以雨」(さわさわと柔らかな春風が吹き、雲は立ちこめ雨をもたらす)の注釈という。「健児長」は該当する詩が見当たらず、軍事組織である健児(こんでい)や、木簡の著者と考えられるという。裏面には、中国の古典に著れる「君子」と書かれていた。

 当時の役人は、教養を高めるため文字や計算の勉強を重ねた。多数出土した木簡の中には、九九を記したものもあり「三九廿四(さんくにじゅうし)」と、うっかりした間違いもあった。

 木簡の一部は21日~7月8日(水曜休館)、但馬国府・国分寺館(0796・42・6111)で公開される。【小園長治】

【ことば】詩経

 中国最古の詩集で、儒教の教典・四書五経の一つ。西周初期(紀元前11世紀)から春秋時代中期(紀元前6世紀)ごろに黄河の流域を中心に各地で歌われた作品を収めたとされる。305編からなり、地方の民謡を集めた「風(ふう)」、宮廷の宴会で歌われた「雅(が)」、祖先をうやまう「頌(しょう)」に分類される。

毎日新聞 2008年6月20日 21時36分(最終更新 6月21日 15時16分)

で、この
 計算間違い木簡
に突っ込んでいるのが神戸新聞の記事。


平安人は勉強家? 九九を何度も練習 豊岡の木簡

 兵庫県豊岡市日高町の祢布ケ森遺跡で大量出土した木簡の中には、九九の練習で計算間違いをしているものがあった。調査した豊岡市教委は「当時の官吏の人間味が感じられる」と話している。
 木簡は勉強するとき、現代のノートのようにも使用していたという。間違いが見つかった木簡は長さ三一・六センチ、幅二・九センチの細長い形で、裏面に九九を記していた。
 現代とは逆に大きい数の九九から始め、六九から四九までを飛ばした後、「三九廿四(さんくにじゅうし)」と間違えている
 見つかった二百三点の大半は、この木簡のように文字や計算を練習した跡だった。
 表面を削って再利用できるが、木片も多く確認されており、繰り返し勉強した様子がうかがえる。
 九九が書かれた同時期の木簡は他にも例があり、今回も計三点出土。解読した奈良文化財研究所は「官吏が一生懸命活動していたことを示す史料」としている。(上杉順子)
(6/21 08:48)

ま、よくある計算間違いなんだけど、1200年後に見つかって
 きゃ〜、計算間違いだ
なんて、こんなに大々的に報道されるとは思ってなかっただろう。

掲示板の突っ込みもなかなか笑える。
【考古】「三九廿四(さんくにじゅうし)」 大量出土した木簡の中に九九の練習の跡 でも計算間違い 兵庫・豊岡祢布ケ森遺跡スレッドより。


12 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:25:16 ID:b0C0JOPc0
俺らってやっぱ昔から馬鹿だったんだな……。
つか、公務員かよ。ますます困った俺らだな。

>>8
ものすごく難しかったのか。それなら九九を間違えるのも無理はない。

13 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:25:31 ID:bA3u1nhi0
「時代(とき)を超えた恥さらし」

ここまでスケールが大きいと、むしろ俺もやってみたいと思えてくる。

14 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:25:54 ID:z8xgCaMO0
失態が保管されるという

15 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:26:10 ID:REV7AhLWO
ゆとり?

22 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:27:23 ID:KoI0t8pk0
昔から公務員はバカ

と言う正しい出土品ですね。

27 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:28:41 ID:FX8ZTfvJ0
こんな気の長い釣りは中々見ないな

57 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:34:51 ID:FqYkHNiM0
>>27
だよな
これは釣りだろ

29 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:29:13 ID:USVz6uJt0
アピカ1000年ペーパーより木簡か

34 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:30:17 ID:d9CBA/gXO
九九ができなくても役人になれた時代
大阪府職員には、今でもいそうだ。

36 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:30:43 ID:3KXcQbhT0
しかし、こいつは計算ミスで租税を多く取り立て
出世したかもしれない。

42 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:31:44 ID:ZIc9WgNIO
ヒント:3の倍数

50 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:33:02 ID:dtP7QPXwO
3の倍数だからアホになったんだな

51 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:33:15 ID:a75Dp/Qx0
あの頃から
ゆとり世代だもんな

65 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:38:22 ID:aKT9AhY6O

九九自体は単なる暗記だから
「計算間違い」というのは違和感がある


とにかくこの木簡により3の倍数でアホになるのは
日本の伝統芸能だと立証された

世界のナベアツのご先祖様か?

墨というのは実に優秀で、木簡から見えなくなっていても、赤外線を当てると、うっすらと文字が読めたりする。
現物を見てないから、何とも言えないが、神戸新聞の記事通りだとすると
 九九八十一、八九七十二、七九六十三、三九廿四
と書いてあったようですな。

前にも書いたことがあるけど、わたしの京大の同級生は
 五の段までしか九九が覚えられなかったけど、現役合格した
という剛の者だった。彼女は、
 五の段以上は、足し算で対応
していた。計算間違いは絶対にしない、と豪語していたが
 足し算に時間が掛かるので、時間が足りれば数学は満点だけど、そうでないとその分点数が減っちゃう
という、優秀なのだが、ちょっと変わった子だった。電卓がある現代では、九九の暗算が出来なくても、そんなに困らないけど、平安時代の但馬国国府では、九九は必須だっただろうなあ。

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2008-05-31

奈文研図化室に眠る往年の名機達

奈文研のあかねださんのblog「寧楽の手向に」の記事
子曰く、故きを温ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし
が凄い。
奈文研の図化室に眠る
 往年の名機の数々
が、手際よく紹介されている。この手のマシン好きの人は必見。

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2008-05-24

「難波津の歌」と『万葉集』収録歌が裏表に記された木簡見つかる@紫香楽宮跡(滋賀県甲賀市信楽)

やはり
 木簡としては薄すぎるのが問題
だ。

木曜日は少し夜遅く帰ってきたのだが、
 紫香楽宮跡と推定される滋賀県甲賀市信楽の宮町遺跡から出土した木簡の裏表に「歌」が書いてある
のが、大きなニュースになっていた。昨日の大阪本社版朝日の朝刊では一面トップの扱いだ。


万葉集成立前?に万葉集収録の歌を書いた木簡が出土
2008年05月22日

 滋賀県甲賀市教委は22日、奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる同市信楽町の宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、国内最古の歌集の万葉集の歌が書かれた木簡が見つかったと発表した。万葉集収録の歌が木簡で確認されたのは初めて。出土した他の木簡に記載された年号から、この歌が収められた万葉集16巻の成立(750年前後)より数年から十数年前に墨で書かれたとみられる。
 
万葉集の歌などが記された木簡=滋賀県甲賀市、諫山卓弥撮影
  
 木簡は上下二つに分かれて出土し、上部は長さ7.9センチ、下部は14センチ、いずれも幅2.2センチ、厚さ1ミリ。上部の片側には漢字1字で1音を表記する万葉仮名で「阿佐可夜(あさかや)」、下部には「流夜真(るやま)」と書かれている。万葉集16巻には、陸奥国に派遣された葛城王をもてなした前(さき)の采女(うねめ)(元の女官)が、王の心を解きほぐすため宴席で詠んだ「安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」が収録されている。

 反対側の面にも「奈迩波ツ尓(なにはつに)」「夜己能波(やこのは)」「由己(ゆご)」とあり、10世紀初めの平安時代に編さんされた古今和歌集収録の「難波津(なにはつ)に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の一部とみられる。「難波津」の歌が書かれた木簡は奈良県の平城宮跡などで見つかっている。

 この2首の歌について紀貫之は古今和歌集の仮名序(905年)で「歌の父母のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける」と、初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。2首を手本とする考え方はその150年前から存在していたといえそうだ。

木簡の元の長さは文字の大きさから約60センチと推定。宮廷の儀式や歌会などで用いられた可能性が高いとみている。

 市教委は25日午後1時から同市内の信楽中央公民館で報告会を開き、木簡を展示する。定員150人(先着順)。26〜30日にも同市内の宮町多目的集会施設で展示する。いずれも無料。

     ◇

 「安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに」(安積香山の影までも見える澄んだ山の井のような浅い心では私は思っていないのです)=小学館の「日本古典文学全集」などから

     ◇

 「難波津(なにはつ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」(難波津に梅の花が咲いています。今こそ春が来たと、梅の花が咲いています)=小学館の「新編日本古典文学全集」などから

     ◇

 〈上野誠・奈良大教授(万葉文化論)の話〉 万葉集の原本は見つかっておらず、これまでの研究はいわば写本の比較にとどまっていた。今回の発見は、人々の間に広まっていた歌が書き記され、歌集になるという万葉集の一連の成立過程を明らかにする上で極めて重要な発見だ。

歌木簡の話は、昨年12月の木簡学会で、今回の調査に当たられた栄原先生が発表された。
その時、わたしは次の点を指摘した。
 長さについてだが、漢代の竹簡の長さは、その記される書物や文書の性格によって決まっている。約2尺という長さは、そうした竹簡の長さとの関わりとも比較すべきだ
と。
今回の木簡は長さは60cmと推定されているから、これも
 約2尺
の木簡である。儀式や歌会で用いられる木簡の長さとしては申し分ない。
問題は
 薄過ぎる
点だ。宴席で歌を詠むために使われるような正規の木簡であれば、ちゃんとした厚さが必要なのだが、
 たったの1mm
なのだ。これでは、宴席に持ち運ぶことが出来ない。
実物を見てないから、何とも言えないのだが、読売の報道では、次のように指摘している。


裏側に着目、至宝発見…栄原教授

(略)
2006年、大阪市中央区の難波宮跡から、和歌とみられる万葉仮名が書かれた木簡が出土。以来、「歌を書くための木簡があるのではないか」と考え、全国各地の「歌木簡」とみられる14点を調べてきた。

 甲賀市の文化財作業所を訪れたのは昨年12月10日。紫香楽宮跡で1997年度に出土した「難波津の歌」が書かれた木簡が気になったからだ。

 「表面がきれいに整えられている。歌木簡に違いない」。調査を終え、ガラス板の上に置かれた木簡をぬらしたガーゼでくるもうとした時、ふと裏側の墨痕に気付いた。「阿佐可夜(あさかや)」の4文字が読めた。「電撃が走ったような驚きだった」

 出土から10年余り。難波津の歌を表にして保管され、薄さから片面にしか文字が書かれていない削り屑(くず)とみられてきた。「歌木簡を考えていなければ、気付けなかったろう」。出土した7100点の木簡から、〈至宝〉の1点を探りあてた。

(2008年05月23日 読売新聞)

恐らく、
 難波津の歌
が記されている方が本来の表面で、こちらは綺麗に表面を削ってあるところに、難波津の歌を書いてある。
問題は、
 裏面の『万葉集』所収の「安積香山の歌」
の方だ。これまで、この歌が気がつかれなかったのは、上記記事のように
 薄すぎて、削り屑木簡だと考えられてきた
からだ。これはやはり
 表面を削った裏に書いた
と考えるのがよいと思う。
現在公開されている写真からでは、裏表が
 同じ人間の手によるのか、それとも違う人間が書いたのか
まではわからない。これは、木簡研究で常に考えなければならない問題で、同じ面に書いてある文字でも、
 手が同じかどうか
は、現物を見ないとわからないのだ。

今回の木簡の価値は
 『古今和歌集』仮名序に「歌の父母」として紹介されている二首が裏表に書かれている点
にある。
『古今和歌集』仮名序。〈〉は仮名を漢字に直したもの。[]は注釈部分。岩波の古典大系本による。


なにはづ〈難波津〉のうた〈歌〉は、みかど〈帝〉のおほむはじめなり。[おほさゝぎのみかど〈大鷦鷯帝=仁徳〉、なにはづ〈難波津〉にて、みこときこえける時、東宮をたがひにゆづ〈譲〉りて、くらゐ〈位〉につきたまはで、三とせ〈歳〉になりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける哥也。この花はむめ〈梅〉の花をいふなるべし。]
あさか〈安積香〉山のことばは、うねめ〈采女〉のたはぶれよりよみて、[かづらきのおほきみ〈葛城王〉を、みちのおく〈陸奥〉へ、つかはしたりけるに、くにのつかさ〈国司〉、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、うねめ〈采女〉なりける女の、かはらけ〈土器〉とりて、よめるなり。これにぞ、おほきみ〈王〉のこゝろ〈心〉とけにける。]
このふたうた〈二歌〉は、うた〈歌〉のちゝはゝ〈父母〉のやうにてぞ、てなら〈手習〉ふ人の、はじ〈始〉めにもしける。

ただ、
1. 「儀式用木簡」としては薄すぎる
2. 字が汚い
3. 裏表の筆者が、同一人物かどうか分からない
ので、
4. 「歌の父母」が同時に書かれたものではない
だろう。もっとも、
5. 宴席で最初に詠まれると推定される「難波津の歌」が書かれた「歌木簡」を削ったもの
というのは動かないと思う。で、
6. 歌木簡の表面をこけらのように薄く、一枚のものとして削り、裏に「歌の父母」として一対をなす「安積香山の歌」を書き付けた
のが、今回発見された
 『万葉集』成立以前に『万葉集』収録歌が書かれた木簡の正体
だと思う。記事はミスリードしかかっているが
 「歌の父母」が記された状態で「宴席に持ちこまれた木簡」
ではない。
7. 「難波津の歌」の書かれた「儀式用の歌木簡」の本来の裏側に書かれていたものは不明
である。たまたま、削られた表面だけが、今のところ残っているのだ。
で、「難波津の歌」の部分だけれども
8. 字が汚いので、実際に宮中の宴席には持ちこまれてない
と思う。いくらなんでも、この字はまずいでしょう。
上野誠先生が、上記の読売の記事で


一方、仮名序の説明に注目する上野誠・奈良大教授(万葉文化論)は「二つの歌は、英語の『ABCの歌』と同じ。聞いた歌を書き留め、文字を学ぶ練習に使った木簡ではないか」と推測している。

とコメントされているように、
 法量としては「儀式に使われた歌木簡」だが、実際には儀式では使われてない
と見るのがいいのではないか。平城宮やその周辺から出てくる木簡の書風から推定するに、今回の「両面歌木簡」は、
 習書(お習字)
と見た方がいい書風である。儀式に使うものであれば、もう少し丁寧に書くだろう。ま、紀貫之が「仮名序」に書いた如く
 手習ふ人の始めにもしける二首
なわけで、まず、文字を習い始めたときに覚えるのが、この二首という伝承が、貫之の頃にもあったってことね。その現物が出てきた。

今回の木簡は、『万葉集』成立前に『万葉集』収録の歌が書かれていた。上記の推論のように、本来の木簡の表面を薄く削った裏に「安積香山」の歌を記したこの木簡が『万葉集』の稿本だとは、到底考えられないが、歌の編集に木簡を使っていただろうことは、不思議でも何でもない。
長いテクストを、細長い竹や木の札に書き付けて、紐で編んでいたのが、中国の古い書物の形態だ。日本では、「細い簡を編んで大きな面を作る」という部分はなく、板に短いテクストを書き付ける形態が一般的だと思う。
そういう使用法だと、和歌は、ちょうど木簡に書き付けるにはちょうどいい長さだ。
カルタを考えればよい。木簡はカルタより遙かに細長いけれども、そこに、歌を書き付けて、編集する過程があったとも考えられる。いくらでも並べ替えが可能だからな。少々乱暴な言い方をすれば、北海道の
 木札カルタ(百人一首の下の句だけが変体仮名で記された木のカルタ)
を想定するといいのではないか。木札カルタを並べるときは
 心
とか
 今
とか、文字別に並べたり、得意な札を手前に持ってきたり、自由に並べるけど、そうした操作性は、木簡でも同じだろう。
 木簡→編集→紙に清書
という段階が想定できる。

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2008-05-15

高松塚古墳壁画見学会にはずれる

今日、高松塚古墳壁画見学会の当否を知らせるハガキが来た。
結果は落選。
どう考えても応募が殺到するのに
 先着順
ということだったからな〜。もし、先着順だったのなら、気がつくのが遅すぎたってことなんだろう。

次回公開がいつになるのか分からないけど、あと1年以内じゃないと、たぶんわたしの肉眼では見えなくなってしまう。薄暗いところでものを見る能力がこのところ急激に落ちている。
次回も、同じようなやり方で、見学者を選ぶのであれば、必ず見られるとは限らない。

ひょっとしたら、永遠に高松塚古墳壁画を肉眼で見られないかも知れない。視力の低下と、「当選待ち」の両天秤だから、難しい。
残念だ。

今回は、研究者対象の公開もないと聞いているし、古代史研究者で同じように落選しちゃったヒトはたくさんいるだろうな。
応募が殺到して、見学者募集は途中で打ち切られた。
iza!より。


高松塚壁画公開、応募殺到で締め切り
05/02 22:20更新

 奈良県明日香村の修復施設で31日~6月8日に一般公開される高松塚古墳の国宝壁画について、文化庁は2日、応募が殺到したため、当初予定の今月7日までの募集を急遽繰り上げ、2日で締め切ったと発表した。
 4500人の募集に対し、2日午前までに1万2350通の応募があったという。
 同庁は4月16日から募集を始め、往復はがきに2人まで応募できる方法で、希望日時に応じて先着順に受け付けた。
 しかし、担当事務局には同日から電話が殺到し、回線が少ないため電話が通じないこともしばしばあったという。
 同庁古墳壁画室は「予想以上に国民の関心が高い。年度内にも再び公開の機会を設けたい」としている。

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2008-05-14

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の埴輪キャラ「イワミン」

なんですか、これは。

Iwm
キャッチコピーは


イワミン
石見遺跡出身のイワミンです。これからボクがみなさんをご案内します。

だそうで。
ただ今開催中の橿考研附属博物館の
 春季特別展「はにわ人と動物たち-大和の埴輪 大集合-」
のイメージキャラらしい。


今回の特別展で案内役を担当しますイワミンです。会場内で僕をさがしてね。

だってさ。うろうろしてたら張り倒すぞ。

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2008-05-05

法隆寺へ

藤ノ木古墳の見学を終わり、法隆寺へ。
GWなので、人だらけ。
ここは拝観料が高いのがネック。西院伽藍・大宝蔵院・東院伽藍込みの1000円券と新造された玉虫厨子を見るなら別に500円が必要。興福寺とか東大寺(大仏殿に入るには拝観料が必要)の「場所によっては拝観料を取るけど、境内を歩くのはご自由に」という太っ腹さ加減に慣れていると、ちょっとがっかりする。
Hrj1
とても混んでいる。

法隆寺まで足を伸ばしたのは数年ぶり。

昨日は五重塔の塔本塑像がわりによく見えた。
Hrj2
特に南面と西面がはっきり見えていた。
光の加減によるから、北面と東面を見るためには、季節と時間を勘案しないといけないだろうな。

現在、金堂が修理中のため、釈迦三尊像は、上御堂に移されている。
Hrj3
金堂の吉祥天・毘沙門天も大宝蔵院だったか、秘宝展だったか、どちらかに移されていた。(メモしてなかった)

塔を仰ぎみる。
Hrj4

帰りに中宮寺に寄る。中宮寺はそれこそ高校の修学旅行以来だ。
金属製かと見まごう黒漆の、頭に二つ丸い髷の載った、可憐な半跏思惟像にお参りする。中宮寺では如意輪観音と伝え、教科書には弥勒と書いてあったりするあの仏様である。本当は金箔が押してあったのだけど、尼さん達が撫でるようにお身拭いを続けた結果、いまのような黒漆の肌になったのだとか。
仏前にネーブルだかデコポンだか、形の面白い柑橘類が盛られていたのが、いかにも尼門跡のお寺らしかった。

ちょうど昼食時。法隆寺門前の観光食堂は避け、法隆寺バスセンターのすぐそばにある、ファミレスの「さと」に行った。ここは昼前に入れば、そんなに混んでないし、観光食堂にありがちな外れを引く確率も低い。

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藤ノ木古墳石室特別公開@5/3-5/6

藤ノ木古墳の石室が整備されたので、GW中の4日間だけ、特別に石室が公開されている。


史跡藤ノ木古墳整備完了記念石室特別公開

日  時 平成20年5月3日(土)~6日(火)  
   午前9時~午後5時
   (整理券配布午前8時30分より)
  
場  所 史跡 藤ノ木古墳
 斑鳩町法隆寺西2丁目1795番地(地図
  〈交通手段〉
1 奈良交通バス 斑鳩町役場前バス停下車北へ徒歩約4分 
2 JR法隆寺駅より奈良交通バス
   法隆寺門前バス停下車西へ徒歩約5分
 *駐車場がありませんので車での来場はご遠慮下さい。 
 見学方法 石室内特別見学は、見学用通路の関係で1時間単位の整理券(見学時間指定)を先着順に配布いたします。
*当日分の整理券の配布が終了次第締切となります。
お問合せ 斑鳩町生涯学習課
 ℡0745-74-1001 内線238

朝一番の整理券配布に間に合うように行く、という前提で話をすると、JR沿線なら、法隆寺で下りるよりも、王寺まで出て、王寺駅北口からバスに乗り、斑鳩町役場前で下りる方が速い。ただし、王寺駅から東行きの道路は狭くて、休日は朝9時頃には渋滞し始めると思われるので、遅い時間になってからはこの限りではない。
付近に駐車場はない。自転車は斑鳩町役場に停めて、現場まで歩く。トイレも斑鳩町役場を利用することになる。

昨日、5/4に、朝7:26JR奈良発の難波行きに乗って王寺まで出た。7:50発のバスで斑鳩町役場前下車が8:00前。そのまま3-4分歩くと現場だ。もう100人近く並んでいた。
暑いのと、人が多いので、整理券配布は15分前倒しになり、8:15から。無事、朝最初の見学整理券9:00-10:00までの分をゲット。そのまま見学を待った。
整理券は1時間ずつに分けられている。9:00-10:00の整理券で列を離れて時間内に見損なうと、次の時間帯以降には、「最後尾」で見学ということになるので、時間に注意だ。
待っている間には、周りに出店があるので、飲み物やかき氷(200円)を買うこともできる。ともかく、暑かったので、水分補給を呼びかけていた。救護所もあるにはある。
藤ノ木古墳入り口。
Fjk1
内部は撮影できない。
見学時間は、何人かずつを一度に石室内に入れ、二人ずつ石棺の前で30秒ほど説明を受ける。石室内にいられる時間はだいたい3分前後だ。外の暑さがうそのような涼しさだ。
羨道で順番を待っている間に、石室内の石積みを観察する。西側には閉塞石を残してある。
石棺は二上山の凝灰岩。頭が東になるように若干歪んだ形に整形してある。
今回の特別公開を逃すと、こうした形で石棺をじっくり見る機会はないだろう。これからは、ガラス越しに3mくらい先にある石棺を見ることになるという。

藤ノ木古墳全景。
Fjk2

法隆寺までは、歩いて10分ほどの距離。法隆寺の見学もするつもりなら、門前の駐車場(一番安いところで600円くらい)に停めて、藤ノ木古墳に来るのがいいかも。

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2008-04-21

杏雨書屋開館30周年記念展示会と講演会@4/19

よいものを見た。
武田製薬の中にある
 杏雨書屋開館30周年記念展示会
は昨日が最終日だった。

杏雨書屋入り口。
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建物の前には、杏を始めとする薬用植物が植えられている。

杏雨書屋の礎を築いた武田家第六代武田長兵衛生誕100年記念で植えられた杏。
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隣は、今年杏雨書屋開館30周年を記念して植えられたばかりの杏。

杏の根元にある標識。
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それを拡大したもの。
Kus5

最終日はよく晴れていた。
16:00終了なので、15時頃到着。
さすがに、15:30を過ぎると、他の観覧者はいなくなり、貸し切り状態になった。
心ゆくまで、単眼鏡を通して、
 国宝・唐鈔本『説文解字』木部残巻
を拝見した。調査のために唐鈔本『説文解字』を見せてもらえるほどエラくないので、次はいつ実見できるか分からない。木部のこの部分は、以前に読んだ個所だから、中味はなんとなく頭に入っているが、改めて唐鈔本の実物を目にすると、そのすばらしさに圧倒される。きりっとした細い線が、美しい。そして、ガラス越しに見る料紙の質感がすごい。わたしは現物至上主義ではないのだが、さすがに、『説文解字』研究者であるならば、一度はこの唐鈔本『説文解字』は実物を見ておいた方がいいだろうな、と思う。わたしは『説文解字』は読むけれども、専門じゃないから、そこまではしないけれども、こうした千載一遇の機会に拝見するだけでも幸せである。
漢代研究者としては、その下に展示されていた二点の国宝
 南宋刊本『毛詩正義』
 北宋刊本『史記集解』(単刻本)
など貴重な典籍をじっくりこの目で眺められたのが楽しかった。仏教関係では
 『性霊集』(重文)
 『聖徳太子伝暦』(重文)
 『薬種抄』(重文)
 『香要抄』(重文)
 『穀類抄』(重文)
 『香字抄』(重文)
などが出ていて、多分次はないだろうな、と思いながら、短い時間だが楽しく拝見した。
また
 『宝要抄』
には、最初に梵字で
 ratna(=宝)
と書いてあるのが、結構ツボにはまった。

本草関係では、原色で描かれた動植物の図が美しいものが、幾つも展示されていて、それだけでも、目の保養になった。

武田製薬は太っ腹で、この展示の図録を、カラー印刷で作り、観覧者に無料で配布していた。このカラー印刷がよくできていて、タダで貰ってきたのが、申し訳ないほどのカタログなのである。

前日、4/19には記念講演会が開かれた。

開会の挨拶をする吉川忠夫先生。
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この4月から杏雨書屋館長になられた由。

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2008-04-16

『日本医史学雑誌』を求めて

大阪の森ノ宮医療学園専門学校には
 日本医史学雑誌が全部揃っている
という話を聞いたので、行ってきた。

東洋医学の授業がある専門学校だから、たしかにオリエント出版の影印シリーズはそこらにあるし、あんまり込んでもいないので、図書室は使いやすいのだけれど、肝心の『日本医学史雑誌』は、
 森ノ宮医療専門学校にも森ノ宮医療大学にもありません
と司書兼務の方ににべもなく断られた。そもそも
 閉架の図書は外部の人間には閲覧不可
だそうだ。製本雑誌の閲覧が出来ないのじゃ、交通費を掛けて行く意味が半減してしまうな。うちからだと片道750円かかる。近鉄奈良から乗り換え1回で行けるのは便利なんだが。

森ノ宮医療学園専門学校は、夜間コースがあるおかげで、
 21:30まで図書室が開いている
というのが魅力ではあるんだが。

しょうがないので、意を決して、国立国会図書館関西館に行こうか。一応、『日本医史学雑誌』の所蔵は確認した。
国立国会図書館関西館は、非常に行きにくい場所にあるんだよな。
車がないと不便、という立地。車じゃなければバス。当然、免許を持ってないわたしはバスで行くしかない。

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2008-04-15

杏雨書屋開館30周年記念展示会 4/14-4/20

武田製薬が出資している
 武田科学振興財団

 杏雨書屋開館30周年記念展示会
を昨日から開いている。


杏雨書屋開館30周年記念展示会

期 間:2008 年 4 月14 日~4 月17 日 国宝、重要文化財はレプリカの展示
   4 月18 日~4 月20 日 国宝、重要文化財は実物の展示
場 所:杏雨書屋2 階展示室
開館時間:9 時~16 時
展 示:杏雨書屋の国宝、重要文化財
杏雨書屋所蔵の国宝3 点、重要文化財10 点を始め、歴史的に価値の高い所蔵物を一挙公開いたします。
〒532-8686 大阪市淀川区十三本町2-17-85
武田科学振興財団・杏雨書屋
杏雨書屋への行き方
TEL:06-6300-6815 FAX :06-6300-6034

杏雨書屋の所蔵する国宝・重要文化財のリストは次の通り。


主な収蔵品

[国 宝]
 説文解字木部残巻   1巻
 毛詩正義      17冊
 史記集解      11冊

[重要文化財]
 薬種抄      2巻
 香要抄       2巻
 穀類抄       1巻
 香字抄      1巻
 古文孝経      1巻
 春秋経伝集解    4巻
 遍照発揮性集   7巻
 聖徳太子伝暦    6冊
 春 記      3巻
 実躬卿記 51巻

というラインナップだ。
実に短い期間の展示なので、気合いを入れて是非。
見に行くなら、実物が展示される4/18-4/20がお奨め。今電話して確認したが
 雨天でも国宝の展示はある
そうだ。以前、恩師が雨の日に写本調査に行ったら『説文解字』を見られなかったと仰っていたが、展示だからか、大丈夫とのこと。

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2008-03-17

読売新聞カメラマン、発掘された木棺を損傷

あまりにも間抜けな話で呆れる。
それは東大寺二月堂修二会最終日でもある3月14日に起きた。奈良県内の人なら分かると思うが
 雨の日
である。現場は相当にぬかるんでいたはずだ。
読売新聞大阪本社版より。


本紙記者、木棺の一部破損…奈良の発掘現場で足滑り

 14日午後1時20分ごろ、奈良県香芝市の下田東遺跡発掘現場で、出土した木棺を撮影中の読売新聞大阪本社の写真部員(29)がぬかるみで足を滑らせ、木棺の一部に靴の底をぶつけた。このため、一部が削られて破損した。破損したのは数センチ大とみられる。

 市教委は破損した木片を現場で回収。復元できるかどうかについて保存処理の専門家に調査を依頼する。

 この日は報道各社が午前中から取材、撮影していた。

 木棺については時期や考古学的な価値などを継続調査中で、市教委は検討を重ねたうえ、破損状況と併せて後日、詳細を発表する。

 読売新聞大阪本社は同日夕、香芝市教委に謝罪した。

 読売新聞大阪本社広報宣伝部の話「本社カメラマンが、取材中に貴重な遺物を傷つけたことは、誠に申し訳なく、深くおわびします。今後こうしたことが起きないよう、慎重な取材の徹底について改めて指導します。破損個所の修復が可能であれば、費用については本社で負担させていただく所存です」

(2008年3月15日 読売新聞)

発掘現場を報道に公開したら、木棺を壊されましたか。ていうか
 晴雨にかかわらず、そもそも現場は滑りやすい
ので、足拵えは基本中の基本でしょう。たぶん、木棺をぎりぎりのところから撮ろうとしたかなんかで、現場の一番崩れやすいところで足元を確保せずにカメラを構えたんだろうな。カメラは壊さなかったけど、木棺は壊したって話なら、二度と発掘現場に来ないように。

朝日新聞奈良版には大体の現場の状況が書いてある。


読売写真部員が木棺破損
2008年03月15日

 ■香芝・下田東遺跡
 読売新聞大阪本社は14日、香芝市下田東3丁目の下田東遺跡で、出土した木棺の底板とみられる木製遺物(長さ約3メートル、幅約50センチ)を撮影していた同社の写真部員(29)が過って一部を破損させたと発表した。市教委は破損の程度や修復できるかどうかについて、専門家に調査を依頼するという。
 同社などによると、14日午後1時20分ごろ、撮影中だった写真部員が足を滑らせて木製遺物の端に足先をぶつけ、遺物の表面が3〜4センチにわたってはがれた。現場は傾斜がついた粘土質の周濠(しゅうごう)の中。この日は報道機関が市教委に要請した撮影会があり、当時は小雨が降っていた
 同社広報宣伝部は記者会見を開き、「深くおわびする。慎重な取材の徹底を改めて指導する。修復が可能であれば、費用を負担させていただきたい」とコメントした。
 同遺跡は縄文時代から近世にかけての複合遺跡。「遺言」が書かれた平安初期の木簡や5世紀頃の木製の鞍(くら)の一部などが見つかっている。

ああ、傾斜の付いた周濠なんて、雨が降ってなくても、滑りまくるに決まってるじゃん。

二月堂に行ったわたしですら、14日はトレッキングシューズで出かけたぞ。滑ると洒落にならないからな。雨の前後に発掘現場に行くのであれば、どうせ報道陣は車で行くんだろうから、滑りにくく、動きやすい靴くらい一緒に持って行けよ。現場に入る前に履き替えて行け。それくらいの暇はあるだろう。

続き。毎日は英文記事にもしていて
 世界中に読売新聞カメラマンの恥を発信
する「親切心」を見せている。
英文記事の方を上げておく。


Yomiuri photographer damages priceless archeological find

OSAKA -- A Yomiuri Shimbun photographer accidentally damaged a wooden coffin excavated from an archeological site in Nara Prefecture while taking photos of it, company officials said.

The accident occurred at around 1:20 p.m. on Friday, as the 29-year-old photographer was taking photos of the bottom of the wooden coffin which was excavated from a moat surrounding a burial mound at the remains, Yomiuri officials said. One of his feet slipped on a wet slope and hit the coffin.

The Kashiba Municipal Board of Education, which is excavating the Shimoda-Higashi remains, will commission experts to determine the extent of the damage.

The Yomiuri Shimbun Osaka headquarters was apologetic about the incident. "We deeply apologize for damaging such an important archeological find."

The exact age of the wooden coffin is still unclear, but experts say they believe it was produced during the Kofun period, between the mid-third century and the end of the seventh century.

古墳時代の木棺の底板だとすると、結構痛い事故ですな、読売新聞のカメラマン。

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2008-02-17

唐家[玉旋]と胡錦涛が奈良にやってくるらしい

唐家[玉旋」が20日に奈良に来る。
胡錦涛も来月の訪日時に奈良に来るつもりらしい。
読売より。


中国・胡主席、来日の際に奈良訪問へ…唐招提寺など検討

 今春に来日予定の胡錦濤・中国国家主席が、滞在中の奈良県視察を検討していることが16日、分かった。

 視察先としては、奈良市の唐招提寺などが挙がっている。同寺は、奈良時代に苦難の末に唐から日本に渡った高僧、鑑真が創建したことから、「日中の切っても切れぬ結びつきを確認する」(外務省幹部)狙いがあるという。斑鳩町の法隆寺も訪問する方向だ。

 昨年末に中国を訪問した福田首相は、「日中の古くからの思想的な共通点を確認したい」として、孔子の故郷、山東省曲阜で孔子廟(びょう)を視察している。胡主席の奈良訪問には、「答礼」の意味合いもあるとされる。

 胡主席の来日準備のために20日に来日する唐家セン・国務委員も、大阪経由で奈良を視察する予定だ。

(2008年2月17日09時03分 読売新聞)

胡錦涛国家主席がどこに来るかはわかったけど、唐家[玉旋]国務委員は奈良公園付近まで来るんじゃなかろうな。
たぶん、訪問先には、奈良女子大に留学している中国人学生なんかをフィーチャーするんだろう。奈良にも日中友好協会はあるから、すでになんらかのアクションはあるんだろうな。
大阪からなら来るのはすぐだから、別に構わないけど、唐招提寺はまだ
 平成の金堂大修理
だ。ま、鑑真和上像は、御影堂だけど、金堂が普通に公開されてないと、唐招提寺の値打ちは半減する。平成の修理は、来年終わる予定だから、金堂の修理工事現場でも見せるのかしら。
法隆寺も、金堂の工事が始まるところだ。
 法隆寺で仏像の魂抜く法要 修理と展覧会前に 2008年02月12日13時54分

そういう意味では、奈良に来ても、ベストの状態ではない。

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2008-02-11

ソウルの南大門(崇礼門)炎上→日本は「1500年後の恩返し」が可能か

瓦の崩壊する音が痛々しい、動画つきニュース。
中央日報より。


“国宝1号”崇礼門5時間で全焼・崩壊

大韓民国の国宝第1号の崇礼門(スンレムン)(南大門)が火災により崩壊した。

崇礼門は朝鮮時代である1398年に創建された。ソウルにある木造建築物の中で最古だ。

10日午後8時40分ごろ、崇礼門で放火とみられる火災が発生した。首都のど真ん中で起きたこの火災は11日夜遅くまで続いた。初期火災鎮圧に失敗したためだ。消防当局と文化財庁の安易な対応で、国宝1号が消えてしまったのだ。

一時火は消し止められたように見えた。しかし11日0時になるとさらに激しく炎上、一歩遅れて消防当局は屋根をはずして放水しようとしたが、炎が崇礼門全体を覆うと断念した。

出動した消防車50台余りと消防署員150人がはしごやホースなどを利用して水による鎮火作業を試みたが、火災発生4時間後に崩壊が始まった。

11日0時40分、樓閣2階と屋根が崩れ落ちた。時間が経過し、骨組みだけ残して形がわからなくなるほど崩壊が進んだ。消防関係者は「指針で文化財庁と協議の下、鎮火作業を行うことになっている。これにより文化財庁と協議を経た後で、ようやく屋根を取り除けることになったため、火を消し止められなかった」と話した。

個人タクシー運転手イ・サングォンさん(44)は「午後8時40分ごろ短髪にミリタリージャンパーと黒の登山用ズボンをはいた50代ほどの男が紙袋を持って崇礼門のそばの階段を登っていた」と話した。イさんは「1~2分後、崇礼門左側の1階樓閣と2階樓閣の間から赤い花火が上がった」とし「崇礼門に上がった男は火花が起こると階段を下り、南山の方に消えた」と付け加えた。警察は目撃者の陳述から放火である可能性が高いものとみて捜査を進めている。

◇崇礼門(南大門)=1962年12月、国宝1号に指定された国内を代表する文化財だ。漢陽都城の8門のうち最も重要な正門であり、現存する国内城門建物としても最も規模が大きい。現在、ソウルに残っている木造建物のうちで最も古いものだ。朝鮮王朝が漢陽に遷都後、1395年(太祖4年)に建築を始め、1398年に完工された。2005年5月、崇礼門周辺に広場が造成され、2006年3月、虹霓門が一般に開放された。

焼失前

崩壊、全焼した惨状

初期消火の段階で破壊消火が認められず、火が大きく広がった。
出火から1時間あまりの段階での報道。
朝鮮日報より。


2008/02/10 22:41:16 韓国国宝第1号・崇礼門で出火

まだ崩落に至らない段階の南大門

 10日午後8時50分頃、南大門の名で親しまれている韓国国宝第1号、崇礼門(ソウル市中区)から出火した。

 午後10時現在消防車約40台と消防官約80名が消火作業を行っている。

貴重な文化財が目の前で崩れ落ちていく様は衝撃的だった。
こうした木組の複雑な木造建築は、見た目以上にたくさんの木材を使用している。一般家屋だったら、消火が終わったと思われる状態でも、奥に火種が残っていれば、やがて火の手が上がる。一度、内部の木組に火がついてしまうと、水が届かないので手が付けられない。今の時期、ソウルは乾燥しているだろうから、燃料が豊富にあるところで火が燃えているのと変わらなくなる。こうなってしまうと、もう破壊消火もできなくなるだろう。文化財保護という名目で、韓国の文化財庁は、スプリンクラーの設置を認めていなかった。


南大門火災:「国宝第1号」崩壊、放火の可能性も(下)
(略)

◆スプリンクラーもなし

 火災が発生した崇礼門内部には、スプリンクラーなど初期消火装置が全くなかった。文化財庁関係者は「文化財には“内部施設保存のため消防設備を設置しなければならない”という規定がなく、現在関連規定を作成しているところだった」と説明する。
(以下略)

2006年には、南大門は100年振りに開門した。


2006/03/03 19:50:13100年ぶりに開門した崇礼門

崇礼門開放式の様子

ソウル市中区は3日午前、国宝第1号の「崇礼門(南大門)開放式」を行い、正祖大王華城回京、御駕行列、崇礼門生活史再現など、さまざまな行事を行った(写真=聯合ニュース)。

この年には南大門の調査が行われ、図面が作られているという。その図面を元に、韓国政府は復元を決めた模様だ。復元には2年以上はかかると見られる。
放火と失火の両面で捜査 復元には2年以上か 南大門 2008年02月11日11時28分

ところで、今回の
 南大門炎上
で、日本ができることがあるとすれば、多くの木造建築物を国宝・重文として指定している
 日本の文化財保存・管理技術
が役に立つのではないか。
まず、文化財保護のための法整備。
昭和24(1949)年1月26日、金堂壁画の模写のために用意された電気座布団から出火し、法隆寺金堂が焼損した。毎年、1月26日の
 文化財防火デー
には、法隆寺金堂の焼けた壁画や木材を収めている収蔵庫で法要が営まれ、法隆寺を始め全国の文化財で防火訓練が行われている。そして、この火災が契機となって、文化財保護のための法律や条令が作られた。
韓国では、まだ法整備が行き届いていない。韓国の木造文化財保護は、残念ながら立ち後れているという。南大門だけでなく、多くの木造建築が火災に遭えば焼失を免れない、危機的な状況に晒されているという。
朝鮮日報より。


2008/02/11 07:30:44 国宝級の木造文化財13カ所、火災に無防備

国宝級の木造文化財は事実上、火災に対してほぼ無防備だったといっても過言ではない。国会文化観光委員会は国政監査のたびにこの点を繰り返し指摘してきたが、結果はさほど改善されていなかった。

 ヨルリン・ウリ党の禹相虎(ウ・サンホ)議員は2年前、「寺などの国宝級木造文化財に対する消防対策現況」と題する報告書をまとめている。これによると、国宝指定されている全羅南道順天市の松広寺国師殿および霊巌郡の道岬寺解脱門などが1度の火災で全焼してしまう恐れがあるという。

 また、国宝級の木造文化財13カ所のうち、火災発生時に、消防車が5分以内に到着できる所はわずか2カ所にすぎず、残りは30分以上かかるほか、消防ヘリコプターが5分以内に到着できる所も慶尚南道梁山市にある通度寺の1カ所だけで、残りの建築物は火災の危険にさらされていた。

 こうした点を理由に、国宝級木造文化財の近くに消防署を設置したり、消防ヘリコプターが5分以内で向かえるように対策を講じるほか、文化財の特徴を考慮した「文化財消防法」の制定などが急がれる、と指摘されてきた。

次に技術支援。南大門の再建には、防火設備を持ち、まさかの出火に対応できる環境作りも必要だ。こうした面では、法隆寺金堂という犠牲を払って、以後文化財保護のノウハウを積み重ねてきた日本の技術が参考になるのではないか。
木造での再建には、宮大工の知恵も必要だろう。現在、韓国にどのくらい日本の宮大工に相当するような伝統木造建築の専門技術者がいるのか分からないが、もし、日本の宮大工の技術が助けとなることがあれば、
 大陸・朝鮮半島から木造建築技術を移入した日本の1500年後の恩返し
ができるかもしれない。

もし
 日韓文化交流
というのなら、南大門炎上への文化財保護の観点からの支援が、日本がいま出来る、最良のものではないだろうか。

続き。
南大門復元に関する中央日報の記事。


<南大門火災>崇礼門の復元は可能なのか

実測図面は残っているが原形の回復は事実上困難

11日0時40分、燃えた崇礼門の瓦が“どどっ”という音とともに崩れ落ちた。

火災が起きてから3時間40分後の出来事だった。炎に包まれた‘国宝第1号’の姿に文化財関係者はもちろん、韓国中の人々が驚きで我を忘れた。

今回の火災で崇礼門の大々的な復元工事は避けられなくなった。崇礼門は太祖4年(1395年)に着工し、3年後に完工した。以後、世宗(セジョン)と成宗(ソンジョン、朝鮮第9代王)時に補修工事が行われたが、建築当時の原形はそのまま保存された。

このような背景から、崇礼門の復元を懸念する声も高くなっている。カン・テヒョン国立中央博物館保存科学室長は「文化財は一度損傷すると原状への復帰が事実上困難だ。特に崇礼門は火災に脆弱な木造建築物でより深刻だ」と述べ「復元にも相当な期間を要するものと見られる。結果的に文化財管理がずさんだった。一般に開放したのは良かったが、もう少しセキュリティと管理を徹底すべきだった」と指摘した。

火災現場を見守っていたファン・ピョンウ文化連帯文化遺産委員長は「2階の楼閣の瓦とその下の塗り土の間からずっと煙が出ていた。初期消火に失敗したようだ。はじめからはしご車を動員すべきだった」とし「今の状況では全面的な解体と補修は避けられない」と話した。

崇礼門は1960年代初めに大々的な解体補修工事をしたことがある。その当時、最高の技師と呼ばれたチョ・ウォンジェ氏が復元工事の総監督を務めた。チョ氏は現在進行中の景福宮(キョンボックン)復元事業の総監督である申鷹秀(シン・ウンス)氏の師匠でもある。以後、崇礼門で大きな工事は行われなかった。一部瓦の張り替えなど小さな補修作業があっただけだ。

崇礼門の昔の面影をまた元に戻すのは事実上不可能だ。代わりに崇礼門を復元するための資料は十分に保存されていることが分かった。文化財庁建築文化財課の関係者は「崇礼門に関する精密実測図面がある。模様画の配色や建物に関する部材別の実測図面もある。資料が揃っているので技術的な次元での復元作業には困難はないとみられる」と話した。

一方、世界文化遺産への登録推進事業のためフランスのパリに滞在していた兪弘濬(ユ・ホンジュン)文化財庁長官は「崇礼門火災」の一報を聞いて、日程を変更し、11日午前に急きょ帰国する予定だ。

中央日報 Joins.com
2008.02.11 10:33:26

韓国の復元工事が求める水準がわからないから、何とも言えないな。
しかし、2006年の図面って外からの実測図面だけなら、
 1962年の解体修理時の図面
が必要だと思うんだけど、それは保存されているのだろうか。なければ、もっと以前の図面を探してこなければならないだろう。
木造で作り直すなら、木の組み方に配慮しなくてはいけないが、韓国は大きな材が取れるような巨木を自前で用意できているのだろうか。
薬師寺の再建事業では、国内産の木がなくて、台湾から資材を求めた。伊勢神宮は式年遷宮のために、造林して木を準備している。いきなり建設すると言っても、木は生ものだから、乾燥させる時間が必要だ。以前、札幌の自宅を改築する時、すなわち一民家を建てるときだって、山で木を3年くらいかけて乾燥させて使ったのだが、歴史的建造物の再建となると、木の扱いは時間がかかるのではないのか。

残った部材をできるだけ使う再建工事って、日本は結構得意。
身近なところでは、春日大社の造替がそうで、
 使える部材は継いで使う伝統
がある。
ただ、南大門というと韓国国民にとっては
 民族の誇りの象徴
だろうから、日本の文化財保存・管理技術で支援すると言っても
 日本
という言葉だけで拒否反応があるかも知れないのが、ちょっと不安。
南大門は、日韓併合期に、城郭の部分を撤去された過去がある。
朝鮮日報より。


2006/11/02 18:53:55「100年ぶりに崇礼門の城壁を復元」

復元する部分

 国宝第1号の崇礼門(南大門)の城壁が、およそ100年ぶりに本来の姿を取り戻す。

 ソウル市中区は、崇礼門に連結していた朝鮮時代の城郭を2008年までに左右10メートルずつ復元することにした。1907年に日帝が取り壊して以来、100年ぶりだ。当時日帝は、道路開設を理由に崇礼門の左右の城郭を撤去し、城門だけを残した。

 中区は、現在三角の形態でしか残っていない城郭を当初の四角形に復元する。また、崇礼門の下の地盤も堀り、現在より1.6メートル低め、原型そのままの姿に戻すことにした。

 2002年の精密安全診断と昨年の地盤調査の結果、門の蝶番石(門を閉じる石の構造物)、土台石(一番下の基礎石)、薄石(平たく薄い石)などの遺構(昔の建築の残存物)が現在の地表より1.6メートル下で発見されたためだ。これを復元すれば、崇礼門の高さは現在の17.6メートルから19.2メートルに高まる。文化財委員会の考証・審議などを経て、来年下半期に着工する予定。

 1398年(朝鮮太祖7年)に建立された崇礼門は、現在ソウルに残る木造建築物の中で最も古く、1962年に国宝第1号に指定された。崇礼門の中央通路である虹霓門は、今年3月に開放された。

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2008-02-07

『佛教藝術』296/2008-1 毎日新聞社

定期購読している『佛藝』が朋友書店から届いた。
今号は、どれもちょっとずつ専門と引っかかる論文。
題目と斜め読みだけ記しておく。
・菩薩立像の身体比率からみた法隆寺金堂壁画 松原智美
法隆寺金堂壁画には藍本(手本)があったことは確かだが、その藍本が唐のいつの時代のものであったかを、頭部とそれ以外の部分の身体比率を画像から測定して、比較検討した労作。CGの援用が、藍本の年代比定に「印象批評」ではなく、数値的に使えるということを示したことでも画期的だ。
松原氏は、写真による身体比率測定が、あくまで歪みなどがあると断った上で
1. 金堂大壁の菩薩立像は唐・高宗期の藍本による
2. 3号壁の藍本は、大壁の藍本から菩薩像を抜き出して利用している
3. 3/4/7号壁の身体比率は、高宗初期のものではなく、高宗後期から末期の可能性
4. 大壁の藍本は遅くとも天智朝には将来された
5. 法隆寺金堂再建時に、大壁の藍本が利用されると共に、当時の趨勢であった高宗後期から末期の身体比率が3号壁などに援用されて菩薩像が描かれた
と推定している。なお、初唐のインド風の画像は、貞観年間末に玄奘や王玄策がもたらした大量のインドの文物の影響によるとする。
・鶴林寺太子堂内陣荘厳の意想 林温
鶴林寺太子堂内陣の絵画の意匠を細かく分析し、荘厳の意図と現在は失われている普賢菩薩像が本尊ではなかったかと述べる。
・院政期 興福寺にかかわる大仏師 根立研介
麻木脩平氏の根立論文への反論に対する再論。
・快慶及びその周辺作品にみる来迎形阿弥陀三尊像の成立と展開 大澤慶子
初期快慶の作を細部にわたって検証し、来迎三尊像の造形の新たな展開の背景を探る。

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2008-01-20

一次資料の魅力を引き出す難しさ 深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記』文春新書

一次資料に基づいて書かれた歴史書は、これまでにも数多ある。これまでわたしが読んだものは、読んだ後に
 一次資料そのものを読みたい
と痛切な飢餓感を感じるものが多かった。

深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』はどうか。
残念ながら、一次資料の持つ魅力を存分に引き出せたと言えない。

原因はいくつかある。
一つは、
 時代背景を説明するために、一次資料の紹介部分を削った
ことだ。井関隆子の日記が書かれた天保11(1840)年1月1日から天保15年10月11日までの5年間が激動の時代であったことを説明するのに、かなりの紙幅を割いている。
二つは
 一次資料の現代語訳がぞんざい
という点だ。井関隆子の日記は文字も文章も流麗である。その
 一次資料のよさ
を現代語訳が生かし切っていない。
 文は人なり
という。井関隆子の魅力を伝えるためには、もっと現代語訳の部分に心を砕くべきであろう。

これは編集者の問題でもあるのだが、
 日記の体裁を破らず、時代背景を入れ込んで編集する
という手もあったはずだ。日記本文の分量が少なく、時代の流れが読めない編集になっており、短い本文に同じ資料が重複したりする不備のために、非常に浅薄な印象を受けるのは、『井関隆子日記』の資料としての価値を考えるならば、実に惜しい。

新書が矢継ぎ早に出ていて、編集者の力量が追いついてないというのを痛感させる出来である。

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2008-01-18

『唐研究12』の悲劇

あまりにも悲しすぎる。
午後6時過ぎ、京都の朋友書店から電話が来た。
 あの〜、定期購読されている『唐研究』の12号についてなのですが
天聖令特集号となり、一昨年から、朋友書店に
 入荷したら、すぐ届けてね
と頼んであった『唐研究』だというのに。
 実は、人気があって品薄となり、版切れ、「複製本」販売という形になりますが、よろしいでしょうか
だって。
 価格は普通の『唐研究』と同じで、印刷は悪くなります
という情けない話。こんなことなら朋友の入荷を待たないで、さっさとどこかで入手しておけば良かった。写真は諦めるとして、論文は読みたいから、複製本で購入する、と返事をした。

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2008-01-17

4分43秒でやっつける日本史

takechiさん経由。
学習用というよりは
 日本史ギャグを楽しむ
といった趣。
創聖のアクエリオン
の主題歌の替え歌のバックに
 日本史資料集
が挿入されるという
 一見学習フラッシュ
だけど、あまり受験の役には立たないかも。

サビの部分がツボにはまりました。

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2008-01-11

謎の現説案内メール→平城第423次(東院地区中枢部)発掘調査現説@1/19 平城宮東院

先ほど、過去への案内が奈文研から届いた。
--
 秋暑の候、皆様方にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 さて、このたび、本年4月から実施してまいりました、平城第421次(東院地区中枢部)発掘調査の現地説明会を下記の通り開催いたしますのでご案内申し上げます。
 なお、ご来聴の際は本状をご持参ください。

                  記

日 時   平成19年9月1日(土)
      説明は 午後1時30分〜 1回行います  ※小雨決行
場 所   発掘調査現場

--

 たぶん、別な発掘現場の現説案内なんだろうけど、参照したメールを誤送信しちゃったんだろうな〜。
(12:19)

続き。(12:32)
正しいメールが届いた。
お暇な方は、是非。
--
 新春の候、皆様方にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 さて、本年10月から実施してまいりました、平城第423次(東院地区中枢部)発掘調査では、大規模な掘立柱建物や石組溝・バラス敷きなどを検出する成果をえました。つきましては現地説明会を下記の通り開催いたしますのでご案内申し上げます。
 なお、ご来聴の際は本状をご持参ください。

                         奈良市二条町2丁目9番1号
                         独立行政法人国立文化財機構
                         奈良文化財研究所


日 時   平成20年1月19日(土)
      説明は 午後1時30分〜 1回行います  ※小雨決行
場 所   発掘調査現場
http://www.nabunken.go.jp/record/setsumei/img/2008/20080119/heijomap20.1.19.jpg

交 通   近鉄 大和西大寺駅北口 から東へ徒歩約30分、または、
       JR 奈良駅行きバス 『平城宮跡』下車南へ徒歩10分
報告者    都城発掘調査部 史料研究室
            研究員 浅野 啓介
※ 駐車場は、ありませんので車でのご来場は、ご遠慮ください。
--

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2007-12-16

現説 石神遺跡第20次調査@明日香村 12/15 奈良文化財研究所都城発掘調査部

NHKの中の人のリクエストにお答えして、昨日、明日香村大字飛鳥字石神で行われた、
 石神遺跡第20次発掘調査現地説明会
の様子を簡単に紹介する。(写真はクリックすると拡大します)
石神遺跡の最盛期は、斉明朝。

Isg1
石神遺跡現説に先立ち、挨拶する奈文研副所長。
手前でカメラを持っているのは取材に来ていた毎日新聞。この日は、ABCも取材に来ていたが、狭い現場の通路でカメラを振っていたので、かなり難儀なことになっていた。


出土遺物。
Isg2
漆を入れた壺の破片。 東西石組溝から出土。時代は7世紀でいいのか?(聞いてくるのを忘れた)


石神遺跡の南北溝遺構。
Isg3
現場の北端から南に南北溝を望む。
この溝は今回発掘されてない部分を含めて全長200m程度。このまま須弥山石出土地点の横まで延びる。
丁寧に石が組まれている様子が見て取れる。
写真が傾いているのは、前に何人も人がいて現場が見えないので、背伸びしてシャッターを押したためで、現場が傾いているわけではない。


南北溝の底面部の石組みの様子。
Isg4
西側に大きな石が護岸用に積まれていて、底面にはそれより小さい丸石が敷き詰められている。


南北溝に東西溝がとりついている部分。(T字形につながっている)
Isg5
南北溝の石積を壊して、東西溝が後から付けられているのが分かる。
底に見えている細かい東西方向の横縞は、木樋。東西溝は、とりつき部分が一番幅が狭く、30cm程度。


東西溝の木樋の終端。
Isg6
白い石が画面右側(西側)に見えているが、ここで木樋が終わっている。
木樋になっている理由は、とりつき部が詰まりやすいからだとか。

おまけ。
毎日新聞奈良版より。


石神遺跡:「迎賓館」遺構説明会 石組み溝などに熱視線--明日香 /奈良

 斉明天皇(在位655~661)が辺境の民や外国使節をもてなした「迎賓館」があったとされる石神遺跡(明日香村)で15日、発掘調査の成果を発表する現地説明会が開かれた。約900人の古代史ファンが訪れ、東限の可能性がある塀跡や精巧な石組み溝などに見入っていた。

 今回の調査では、「迎賓館」の東限を示す可能性がある塀跡や、須弥山(しゅみせん)石や石人像が出土した地点の延長上(北へ約200メートル)にあたる石組み溝などが見つかった。

 この日は、奈良文化財研究所の黒坂貴裕研究員が調査の概要を説明。現地で実際の遺構を見ながら訪れた人たちの疑問に答えた。兵庫県猪名川町の主婦(71)は「溝には石が整然と敷き詰められており、現代人と変わらない技術力を感じた。須弥山石から流れ出た水がこの溝を流れていたかと思うと、夢がある」と話していた。【林由紀子】

毎日新聞 2007年12月16日

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世界の文化は韓国起源 今度は「漢字は朝鮮民族が発明」説などを中国紙が取り上げる

baatarismさん経由。

なんですか、これは。レコードチャイナより。


エッ!「漢字は中国起源」じゃないの?韓国の“文化略奪”?に反発強まる—中国

2007年12月12日、新快報は「文化をめぐる中韓の戦い」と題した連載を開始した。近年繰り返される文化起源・世界遺産申請をめぐる争いを取り上げているが、特に近年韓国の一部学者が主張している「漢字韓国起源説」に注目している。

近年、韓国では「中国文化が実は韓国起源だ」との主張が相次いで発表されている。儒教の始祖である孔子や古代の美女・西施、中国医学の名著「本草綱目」の著者・李自珍はみな朝鮮人で、そればかりか漢方・風水などの中国文化も半島起源だという。これらの韓国起源説はたんなる主張で終わらず、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)に世界遺産として登録しようとする動きも見せていると中国では警戒されている。実際、韓国の「江陵端午祭」が世界無形文化遺産に登録されたことは中国に大きな衝撃を与えた。

今、特に注目を集めているのが「漢字韓国起源説」。去年10月10日、朝鮮日報は韓国ソウル大学の朴正秀教授による「漢字は朝鮮民族が発明した」との学説を紹介した。同教授は半島で生まれた漢字が大陸に持ち込まれ、現在の中国文化を形成したと主張し、韓国政府に漢字の復興と世界遺産申請とを求めているという。

先日、国際先駆導報は「あまり好きではない国」とのアンケート調査1位に韓国が選ばれたと報道したが、ネット掲示板を中心に韓国の「中国文化略奪」ともいえそうな動きに反発が強まっている。(翻訳・編集/KT)

いや〜、まともに相手するのもアホらしいと思ってた
 なんでも韓国起源説
を、中国の「新快報」を連載し始めましたか。朝鮮日報の「韓国漢字起源説」報道の日本語訳は見つけられなかったのが残念。

新快報の連載のリンクだけとりあえず張っておく。
中国網民捍衛漢字専利 中韓伝統文化之争1 漢字之争
7億 韓国搶奪端午根 中韓伝統文化之争2 端午之争
韓国"豪搶"中華文化名人 中韓伝統文化之争3 名人之争

おまけ。
anakataさん経由。

韓国起源の事例を紹介するブログ

う〜む、ネタでここまでやれるのか。

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2007-12-09

真珠湾のアリゾナ記念館分館ですか 毎日新聞奈良支局

ここまで
 アメリカ優越史観
に乗っ取って、書かれた
 日本人による真珠湾攻撃の総括
というのは、初めてお目にかかった。
つか
 ハワイ・オアフ島真珠湾にあるアリゾナ記念館
USS ARIZONA MEMORIAL
では、以前、こうした内容の映画を見せてから、今も多くの戦死者の遺体を抱いて真珠湾に沈むアリゾナに向かうプログラムになっていた。現在は、映画の内容がかなり、わたしが見た
 卑劣なJAPを罵り、正義のアメリカ人を讃える内容
よりマシになっているとは聞くが、確認していない。手元には、アリゾナ記念館で買ってきた、改変される前の上映ビデオの日本語版があるが、これを日本人学生に見せると一様に押し黙る、凄まじい内容である。

どうやら、毎日新聞奈良支局は
 真珠湾のアリゾナ記念館分館
なのらしい。

毎日新聞奈良版より。


きょう8日は太平洋戦争開戦の日… /奈良

 きょう8日は太平洋戦争開戦の日。1941年12月8日、当時の日本軍は米国・ハワイ真珠湾を奇襲攻撃。米国に対して宣戦布告した。卑劣な手段だった。その後の軍部は、偽りの「戦勝戦果」以外、不利な戦況など一切、発表せず「聖戦」を国民に押しつけた。国民は、戦々恐々としながら戦中を過ごした。

 その奇襲攻撃は、世界を巻き込む大戦に拡大した。わが国だけでも計約310万人の軍人、軍属、民間人の命が奪われた。広島、長崎には人類史上、初めて原爆が投下され、沖縄は戦場と化した。平和な今、卑劣な戦争を反省するためにも、終戦の日とともに、開戦の日を風化させてはならない。(稲田)

毎日新聞 2007年12月8日

これを書いたのは
 稲田敏雄記者
だ。

真珠湾攻撃がなぜ「奇襲攻撃」になったのかについては、今でも議論のあるところだと思いますがね。

なお、稲田敏雄記者は毎日新聞奈良支局では古参だと思われる。
1998年の支局長からの手紙に名前が出てくる。


読者のみなさんへ記者からの年賀状 輝く紙面へ全力投球 /奈良
1998.01.10 地方版/奈良 23頁 写図有 (全1,684字) 

(略)

 昨年フロンとダイオキシンの取材を続けてみたら、地球環境保全では国の方針を待つだけの自治体が目立ちました。横並びからの脱却を願って今年も取材を続けます。【大森顕浩】

(略)
 景気、環境、社会情勢などが気掛かりですが、災い転じて福と成す。ここで心機一転、幸多い年にしたいですね。私も「生涯現役」の魂を培い、着実な歩みを続けます。【稲田敏雄】
(以下略)

2006年11月現在で、桜井通信部長だ。

アリゾナ記念館の売店に行くと
 12/7付の真珠湾攻撃を報じる新聞のレプリカ
が売られていて
 JAPに騙し討ちされた!
という大見出しが踊っている。どうせなら、毎日新聞奈良支局でも、同じ新聞を売ったらいかがですか。もちろん
 12/8or9付の当時の毎日新聞
と一緒に。

続き。
日米開戦を告げる1941年12月9日の毎日新聞夕刊に躍る見出し。
 帝国陸海軍八日未明太平洋で米英軍と戦闘状態
 宣戦布告の詔書渙発 英米両国と国交を断絶
 皇軍遂に火蓋切る
 断じて許せぬ米
など。
 
(追記 12/10 13:51)
しかし、不思議だよね。
稲田敏雄記者っていくつなんだろう。
1. 団塊オヤジ→70年安保とかで、石投げたり、ゲバ棒担いで、デモとかバリケード封鎖とかしてた世代。このおっさんたちは、大学の教員をつるし上げるのが日課だったが、たいていの教員達は戦争の話を始める。すると「戦争の話はやめろ」と遮るのが常。自分たちは戦争には行かなかったが、戦争に行った世代に育てられた口。上にはガンガン文句を垂れるが、下に同じことをされると、逆ギレして恨みがましいのが特徴。
2. 60年代生まれ→「三丁目の夕日」より、ちょっと遅い世代。生まれたときからテレビがあった。何に対しても白けていた。祖父や伯父が戦争に行った経験がある。
このどちらかだと思うんだけどな〜。
 卑劣な戦争
というからには、
 自分はその卑劣な戦争を起こした日本人ではないし、係累にも一切戦争に関わった人間がいない
のでしょう。ということは
 第二次世界大戦で日本と戦った国の出身
なんだろうな。
しかも、戦争のプロパガンダを続けた毎日新聞の社員である。
 戦前と戦後は違う
では通らない。てか
 マスコミ人は、自分は全く関わりがないという上から目線で、第二次世界大戦を断罪
できるような、結構な立場にはないはずだ。
こういうヒトが、桜井通信部長って、
 三輪山をご神体とする、大神神社の取材
にも当然行ったりしてるわけで、凄いよな〜。間違っても
 国のまほろば
とか
 古代の日本人に思いを馳せる
などという言葉を使う原稿書いてないだろうな。やめてよね、
 商売では「日本を称揚する」が、12月8日になれば「卑劣な戦争」という「ダブルスタンダード」
は。

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2007-12-08

NHK関西ローカル「かんさい特集 朝鮮通信使400年 その知られざる歴史」@NHk関西ローカル管内 12/7 20:00-20:45

今年は朝鮮通信使が始まって400周年である。
それを記念したローカル歴史番組。


12月 7日(金)朝鮮通信使400年 その知られざる歴史

朝鮮通信使400年にあたる今年、通信使にゆかりの深い大阪のNHK大阪放送局と韓国・プサンのKBSプサン放送総局では、それぞれ関連の番組を1本ずつ制作し、両局で放送することにしました。
NHK大阪は、かんさい特集「朝鮮通信使400年 その知られざる歴史」を制作しました。朝鮮通信使は1607年から1811年までの間に、12回にわたって朝鮮から日本にやってきた外交使節であったことはよく知られています。ところが、初期の通信使は、豊臣秀吉の始めた文禄・慶長の役によって日本に連れて来られた朝鮮半島の人々を故国に連れ戻すという使命をも帯びていたのです。
華やかな通信使の大行列が帯びていたもう一つの使命。日本外交史に大きな意義を持つ朝鮮通信使の知られざる一面を明らかにし、記念の年にその意味を見つめなおしました。
また、翌8日(土) 総合 午後3時05分からは、KBSプサンが制作した「朝鮮通信使 400年前の韓流」を放送します。あわせてご覧ください。

韓流には興味がなかったのだが、朝鮮通信使にはいろいろ思うところがあるので、何とはなしに見ていた。BKの作る朝鮮通信使の番組だから
 日本に無理矢理連れてこられた朝鮮半島の人のその後
というトーンになることは予想していたが、知らない事実が結構あった。

その中でも驚いたのは
 降倭と呼ばれる人たちの子孫
だった。
 降倭サユモ(沙○某 ユにあたる文字を失念)の子孫
と名乗る韓国の人が
 わたしの祖先は日本人だ。だから日本を好意的に見ている。自分の祖先が日本人であることを隠すつもりはない。子ども達にもそう言っている。わたしは自分の中に日本人の血が流れていることをいつも感じている。
と、感情を昂ぶらせながら語っていたシーンがあった。万暦年間の日付が入った、今で言う
 辞令の類
が、洋服ダンスの上に割と無造作に置かれていて、それを降ろして、文書を見せていた。一枚目には
 サユモ
という日本名が、もう一枚には
 金義仁(だったかそんな名前)という朝鮮名を与えられた旨
が記されていた。だから、たぶんそのおじさんは金さんなんだろうと思う。文書が本物なのか、おじさんがどこの人なのか、その辺りは、全然わからない編集になっていた。その辺りを明示すると、なんか問題があるのか、BK。編集がぬるすぎるぞ。
少なくとも、ここに至るまで、代々、周囲の人々に好意的に扱われることはなかっただろうと思われる降倭の子孫のおじさんが、そこまで故国の血を我が身に感じている理由は何だろう。
日本に連れてこられた陶工が、現在の薩摩焼を作ったわけだが、その陶工の子孫の一人である、荒木乾二郎親子も出てきていたが、こちらは、
 朝鮮人であることを隠さなければならない時代があった
という話をしていた。

朝鮮統治時代、降倭の子孫達は、一体どうしていたのだろう。日本側にしてみれば
 寝返った裏切り者
だということになるのだろうし、朝鮮半島の人たちにしてみれば
 帝国主義の手先の血筋
ということになるのだろう。司馬遼太郎あたりが書いてそうな話だな。ちょっと調べてみなくちゃ。

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「日本に比べて文献史料が豊富な韓国」って古代に関しての話? 毎日新聞奈良支局の大森顕浩記者に是非お尋ねしたい

毎日新聞奈良支局が、こないだの木簡学会で取材に来てたようなんだけど、いつも古代史の記事を担当している大森顕浩記者が、こんなことを書いている。(毎日新聞奈良支局の古代史担当は、大森記者とあの「大淀病院産婦死亡事例」第一報を青木絵美記者と連名で書いた林由紀子記者)


鹿笛:先日開かれた木簡学会で… /奈良

 先日開かれた木簡学会で、韓国木簡学会の会長が講演した。韓国木簡学会は、今年1月の結成で、会員は約50人。韓国で確認されている木簡は約20カ所の遺跡から計300余点だ。

 日本に比べて文献史料が豊富な朝鮮半島で、木簡がもっと出ていてもいい気がする。韓国内では、木簡が少ないのは朝鮮半島の地質のためと悲観的な考えもあったという。しかし80年代の発掘調査の増大で木簡出土が続き、今後も各地の山城の発掘で出土が期待されている。

 「木簡を通じた日本、韓国、中国の文化交流を期待する」という会長の締めくくりの言葉に、会場から大きな拍手が上がっていたのもうなずける。(大森)

毎日新聞 2007年12月7日

あの〜
 三国時代以前の朝鮮古代史史料について「豊富」だというのなら間違い
だと思いますが。
朝鮮古代史研究の困難は、まさにこの
 古代の同時代文献史料が乏しい
ところに問題がある。
朝鮮古代史を記した『三国史記』『三国遺事』のいずれも、
 12-13世紀の成立
である。よほど
 『日本書紀』の朝鮮半島に関する記述の方が古い
のである。もっと言えば
 『源氏物語』の原撰時期(通説では1001年頃などといわれている 追記18:50 来年は「源氏物語千年紀」というイベントがあるが、その説では1008年の『紫式部日記』の記述を根拠に「源氏物語」の存在が確認されたとする)の方が『三国史記』や『三国遺事』より古い
のである。日本の史書で言えば
 『大鏡』の方が、1145年成立といわれる『三国史記』より古い
筈だ。
書いてある中身が古いということは、史料の成立が古いことを保証しない。そんなことが通用するなら
 いくらでも遡って偽史を作ることが出来る
ではないか。
だからこそ、朝鮮古代史の研究をする場合は
 『日本書紀』などの日本の文献や、当然ながら中国の史書を参考にして再構築しなければならない
んじゃないの?

いったい、古代の木簡を多く扱う木簡学会で、韓国木簡の出土年代に関しても、古代に属するものの話だったというのに、それを紹介する記事が指し示す
 文献史料が豊富
というのは、普通に考えて
 韓国で古代に書かれた朝鮮史の古代文献史料が豊富
と読むべきだと思うのだが、そう言い切る根拠はどこにあるのか知りたい。古代史に関して、新たに
 朝鮮半島の古代人の手になる確かな古代文献史料が出てきた
という話はわたしが勉強不足でまだ知らないので、是非、大森記者にはご教示いただきたい。

まあ、大森記者は、時々現場で見かけるけど、古代史の取材が気に入っているようには見えないからな〜。
今回の韓国木簡学会の設立が重要なのは
 文献史料が乏しく、従来知られなかった古代朝鮮史の記録が木簡の形である程度の数まとまって出土しており、それを利用して歴史の再構築ができる
という点に尽きる。そこをすっとばして
 文献史料が豊富
というのならば、最初から、韓国の先生の話をちゃんと聞いてなかったってことじゃないのか。会場で、わたしも同じ話を拝聴していたけど、そんな話じゃなかったはずだけどな。

それとも
 紋切り型の日韓友好を謳ったり、韓国のことをホメておけば、毎日新聞の主張とも合うし、井上支局長にもホメられる
とかという打算で書いた記事なのかしらね。これこそ、毎日新聞の大嫌いな
 歴史の歪曲
の筈なんですが。

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2007-12-04

論文を書く

木簡学会で、鈴木靖民先生に
 あなたの論文をこないだ書いた本に引用しましたよ
と声を掛けていただいた。自治体の道路工事に伴う緊急発掘で出てきた木簡についての論文で、埋文センターの出した報告書に掲載されているので、今となっては入手が難しいものなのだが、そうおっしゃっていただくと、実にありがたい。時々、コピーを求められることがあるのだけれども、さすがに筆者であるわたしの手元にも、抜き刷りの方は在庫が尽きてきた。報告書はほとんど残部がない。

今年の夏の酷暑で、すっかり内臓をやられてしまい、長い論文を書けなかった。
今回は今年末締切のものが一本あるので、鋭意準備中なのだが、風邪のせいで、なかなか文献を取りに行けない。内臓をやられると、こういうときに回復が遅くて困る。
奈文研と京大に行けば、だいたい用事が済むはずだが、週に何日も寝込んだりしている上に、学会シーズンだから、体力の配分が難しい。9月に1つ、11月に1つ、土日の木簡学会と、月に1回くらい学会に出ている。1回学会に行くと、消耗がひどくて、1週間は使い物にならない状態なので、結局、実働時間が限られる。ま〜、誰も助けてくれる訳じゃないので、泣いても喚いても、論文は書かなければならない。
案外、外でばたばたしてる方が、元気なんだけどな。
目眩は大分マシになった。
あとは気合いだな。

風邪が長引いて、肩と背中が重い。息も切れる。
売薬でごまかしてないで、病院に行かないと、いけませんかね、これは。
肺活量はある方なので、この二日ほど、ちょっと動くと息が切れるのには驚いた。咳が出ているわけでもないし、一体なんだろな。最近の風邪はいろんなタイプがあって、しかもタチが悪いらしいが。

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2007-12-02

木簡学会一日目@12/1

珍しく、木簡学会の発表が新聞で取り上げられている。
産経より。


和歌専用の長い木簡使用か 各地で出土の木簡を調査し判明 大阪市大教授が新説
2007.12.1 21:27

平城宮跡で出土した和歌の木簡。もとの長さは通常の数倍の長さだったと推察された=奈良市の奈良文化財研究所

 古代人は、通常よりも数倍長い専用木簡に和歌をしたため、儀式で朗々と詠み上げた-。そんな新説を、大阪市立大大学院の栄原(さかえはら)永遠男(とわお)教授(古代史)が1日、奈良市の奈良文化財研究所で始まった木簡学会の第29回研究集会で発表した。栄原教授は「歌会などで用いたのでは」と推察しており、独特の木簡の形態に迫る報告として注目される。
 栄原教授は、全国各地で出土した和歌が記された木簡を調査。荷札や役所の文書が記された一般的な木簡には十数センチ程度のものも多いのに対し、和歌が記された木簡は数倍長いものが目立った。
 「皮留久佐乃(はるくさの)皮斯米之刀斯(はじめのとし)」と記された難波宮跡(大阪市)出土の7世紀中ごろの木簡は、長さ18・5センチで途中で折れていた。栄原教授は、1首31文字が1行に書かれていたと仮定し、もとの木簡は文字部分だけで推定49センチ、余白を含めた全体はさらに長かったと推測している。
 また「目毛美須流…」で始まる平城宮跡(奈良市)出土の8世紀後半の木簡は長さ58・5センチだったが、同様にもとの木簡は文字部分だけで74センチだったと推測。裏には目盛りが残っており、物さしだったものが転用されたと考えられるという。こうした歌専用の木簡は「難波津の歌」が書かれたものなど約十点を確認。多くは通常の木簡の数倍の長さだったという。
 栄原教授は「フォーマルな場に長大な木簡を持っていき、唱和したり単独で読んだりしたのではないか」と推測。木簡学会に出席した犬飼隆・愛知県立大教授(言語学)は、この説について「公式の場で歌うために使われた専用木簡があったという指摘は画期的だ」と評価している。

実は、この新聞に写真が掲載されている木簡について、昨日、展示室で犬飼先生と議論をしていたところで、今日午後の質問タイムにまとめて質問の予定。ついでに資料も配付しようっと。(なんか最近、よく、木簡学会でボランティアで配付資料作ってるな)
栄原先生は、7月の「美夫君志会」(万葉集専門の名古屋の学会)で、この長い「和歌木簡」について発表されたが、昨日の発表では、更に発展した考察を述べられているというのが、「美夫君志会」に出席された犬飼先生から伺った話。栄原先生は、純粋に
 文物としての木簡
というアプローチ。
 和歌の中身は専門家にお願いします
ということだった。
犬飼先生は、万葉学者として、同時代の和歌という観点で考察されている。
ただ、この「物差し転用(というのが栄原説)木簡」については、記された和歌の内容、筆跡、物差しとの関係など、議論の余地がまだあるので、たぶん、今日の質疑応答タイムのメイン題目の一つになるのではないかと思う。
犬飼先生は、この「和歌木簡」について、すでに論文をお書きだとのことなので、刊行が待たれる。

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2007-11-30

木簡学会@12/1-12/2

というわけで
 12月第1週の土日は毎年木簡学会
だ。今年は明日と明後日、いつもの場所でいつもの時間。日曜日は
 東京からの参加者が新幹線に乗り遅れないように午後3時終わり
と決まっている。
沖縄に行ったりしている間に、参加葉書を出すのを忘れて、慌てて奈文研に併設されている木簡学会事務局に電話。出席を告げる。
木簡学会は、人文系学会の中では会費が高く、その代わり
 現物を見せてくれる
のが売りだ。半数が現場担当者で半数が研究者。(なんて書いてても、たぶん木簡学会員はこのblogは読んでない方が大半だと思われる)

また昨日で風邪を引き返したらしく、あちこちの関節が痛むので、今日は薬をのんでおとなしくして、学会に向けて英気を養う。
木簡絡みの論文をしばらく書いてなかったけど、次の準備はしてあるから、来年は木簡ネタを二つくらい出す予定。ひょっとして鬼が笑ってる?

明日は、単眼鏡を忘れずに持って行かなくちゃ。

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2007-11-21

初代ローマ皇帝アウグストゥスのドーム発見

21世紀になって、こんなものが発見されるとは。イタリア畏るべし。
産経=共同より。


初代ローマ皇帝のドーム 建国伝説の洞穴で発見
2007.11.21 11:12

建国伝説の地に初代ローマ皇帝が建てたとみられるドームの内部(イタリア文化省提供・共同)
http://sankei.jp.msn.com/photos/world/europe/071121/erp0711211112002-p1.htm

 イタリア文化省は20日、初代ローマ皇帝、アウグストゥス(在位・紀元前27~紀元14年)がローマの宮殿わきに建てた大理石のドームを発見したと発表した。
 ドームは洞穴のくぼみを生かす形で造られた。洞穴は、ローマを建国した双子の兄弟ロムルスとレムスがオオカミに育てられた場所と信じられ、当時、信仰の対象だったとみられる。考古学者は、建国伝説の地に宮殿とドームを建てることで、自分が新しい国父であることを示そうとしたとみている。
 ドームは高さ7メートル、直径6.6メートル。ローマ中心部にあるアウグストゥス宮殿跡の、テラスの下(地下16メートル)から見つかった。モザイクと貝で描いた円天井の鮮やかな模様が、遠隔操作のカメラで確認された。
 内部に土砂が流入しており、本格的調査にはかなり時間がかかるとみられる。
 ルテリ文化相は「数世紀の間、探し求めていた発見」と興奮した様子で記者会見。ベルトローニ・ローマ市長は「伝説の場所が、これで特定された。ローマにはまだまだ素晴らしい宝があることが分かった」と話している。
 当時、この洞穴にはオオカミが女神として祭られ、多産などを祈る重要な祭りが年1回、行われたという。

 ■アウグストゥス カエサル(ジュリアス・シーザー)により後継者に指名され、カエサルの暗殺後、元老院の力を抑えて実質的な元首(皇帝)の地位に初めて就いた。法整備、国境の防衛に力を入れた。内乱の時代の幕を閉じパクス・ロマーナ(ローマの平和)を確立。ローマの伝統や道徳を重んじた。宮殿跡はフォロ・ロマーノ遺跡内にあり、墓所はテベレ川近くに残っている。(共同)

しかし、いつから埋もれてたかは謎だが、21世紀に発掘されるというのも凄いというか何というか、驚きますね。
ローマのように、3000年近い歴史を持ち、建設と破壊がのべつ繰り返されている都市で、こうした建築が残っていること自体が奇蹟だ。
写真を見る限り、モザイクは今なお美しい。往時はローマの建築技術の粋を集めた荘厳な内陣だったんだろうな。

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2007-11-18

風邪気味

気力が涌かない。こう言うときは、まず風邪の初期症状だ。

昨日、京都の研究会に出て行ったのだが、学会で
 調子が良ければ行きます
と宣言したとおり、半病人モードで出席。行くときは少し暑かったので汗をかき、会場がちょっと涼しかったので軽い寒気。6時過ぎに終わったとたんに、ダッシュして1時間弱で奈良まで戻ってきたけど、やっぱりヘタリ気味だ。
軽く汗を流してから、おとなしく寝ているのだが、風邪引くか、引かずになんとか保つかの間くらいの体調。
疲れも溜まっていること故、栄養を取って、休息するに如かず、か。

玲舫さんのレシピを援用して
木犀肉片
でも作るかな。身体を温めて、栄養を取るのが一番だろうな。
冷蔵庫には、木耳は戻して入れてある。あとは、青菜と豚肉の処理。ご飯も炊かなくちゃ。

年末までに1本論文提出が決まったので、そうそう寝込んでもいられない。風邪を引くと、目が使えなくなるので、仕事が止まるし、外に出られないと、本を探しに行けない。
論文を上げるとなると、文献の再チェックに京都や奈文研に出かけないといけないからなあ。ご近所の奈文研で大体済んでくれるといいのだけど、奈文研にある本は京大になかったり、その逆だったりして、結局、どちらにも行く必要がある。「文献と考古学的事実の突き合わせ」なんて、当たり前のことだと思ってたら、きっちり文献が揃ってることはなくて、半分くらいは学際的になっちゃうのは何故だろう。今回は扱う範囲が
 美術史(中国・日本)・庭園史(東アジア・インド)・考古学(東アジア・インド)・中国古典文献学・印度文献学(要梵文)・仏教学
の間なので、ピンポイントの文献がなかなかない。知り合いに助けていただかないと、入手困難な論文もあったりして、苦労する。
日本の中世以降の状況については、富山にいる絵巻物が専門の友達が助けてくれた。教養時代からの付き合い、L4の同級生だが、持つべきものはやはり友だ。ただ、教えてもらった書物が手元にないので、これまた探しに行かなくては。

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2007-11-12

史跡円覚寺跡@那覇

太平洋戦争で、激しい地上戦の戦地となった沖縄は、今なお戦火で失われたままの文化財が少なくない。琉球では風水思想によってさまざまなものが構築されていたのだが、艦砲射撃で地形が変わってしまって、元の風水の見立てと合わなくなっている所もかなりあるそうだ。山を削るほどの艦砲射撃を想像するだけでも、いかに、沖縄戦が苛酷なものであったかと茫然とする。ハワイにも射撃訓練で島の形が変わってしまったカホオラウェ島があるが、これは太平洋戦争が始まってから1991年までの間、米軍が演習地として使用していたためだ。それまでに50年程かかっているが、沖縄の場合は、短期間の米軍の攻撃で地形が変わったわけで、その凄まじさは想像を絶する。

現在、県立芸術大学の向かい側に残っているのが
Ekj1
 円覚寺跡
だ。(画像はクリックすると拡大します)
第二尚氏の菩提寺として、鎌倉の円覚寺に倣い、15世紀末に建立された壮大な七堂伽藍は沖縄戦で焼失、石造の放生橋だけが残った。
Ekj2旧境内に立てられている案内板。旧伽藍配置図もあり、往時の姿を伝える。


円覚寺跡
国指定史跡
昭和47年5月15日指定

 円覚寺は琉球における臨済宗の総本山で、山号を天徳山と称した。第二尚氏王統の菩提寺であり、琉球随一の寺院であった。
 尚真王が父王尚円を祀るため、1492年から3年が仮で建立したと伝えられる。開山住持は京都南禅寺の芥隠禅師である。建築の手法は、鎌倉の円覚寺にならった禅宗七堂伽藍の形式を備えており、寺域は約3,560平米であった。伽藍は西面し、全面中央に総門を開き、その左右に掖門を備えていた。総門を入ると放生池があり、放生橋、山門、仏伝、龍淵殿が一線上に配置されていた。
 昭和8年に円覚寺伽藍として国宝に指定され、総門前庭の円鑑池やハンタン山の緑に映えて荘厳な寺院であったが、去る大戦でほとんど破壊された。
 現在の総門(県指定有形文化財)と左右の掖門は昭和43年に復元されたものである。放生橋(重要文化財)は昭和42年に修復された。橋の勾欄羽目の彫刻は精緻を極め、沖縄の石彫美術の最高傑作であるといわれている。
沖縄県教育委員会。

史跡指定の日付に注目して欲しい。
 昭和47年5月15日
とは
 アメリカから沖縄が日本に返還された当日
である。

現在、円覚寺跡は発掘調査中で、旧境内に直接立ち入ることは出来ないが、
Ekj5


現場横に通路があり、放生池から山門の基壇にかけては、見ることが出来る。

Ekj6写真右から、復元された総門、放生池と放生橋、山門の階段と基壇。


旧山門基壇。
Ekj7写真奥に伽藍が立ち並んでいた。


ただいま発掘中。
Ekj8旧伽藍配置図から推察するに、旧掖門周辺の発掘調査か。


案内板横にある、非沖縄県人にはわかりにくい注意書き。
Ekj3「文化財保護の為火の使用はご遠慮下さい。
尚ご使用になった線香等はお持ち帰り下さい。
沖縄県教育委員会」


これが「線香等」のために設けられているらしい小さな香炉とおぼしき設備。
Ekj4

境内の掃除をしているおばさんに尋ねたのだが、「よくわからない」という返事だった。

失われた聖地であっても、今なお尊崇を得ているのだろうか。

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2007-09-09

藤原宮大極殿院南門現説@9/8

藤原宮大極殿南門現説@9/8
ともかく、暑い現説。
半分ぼうっとしつつ、メモを取りつつ、聞く。
しかし、配布資料をただ読んでるような説明だったら、現説やる意味ないじゃん。聞かせる工夫がないのは、あかんのと違う?所内のポジションなんて、今日の現説と何の関係もない。部長は喋るの苦手らしいけど、その前に、現説に足を運んで来る人のニーズが何か、理解する必要があるのでは?
あの調子が続くようだと、寒心に堪えない。

(以下はクリックすると画像は拡大します)
Fj1
参加者に振る舞われた麦茶。氷入りにバージョンアップ。
冷たくて、頭がすっきりした。
どうもごちそうさまでした。


Fj3
頭を垂れ始めた稲穂。奥に見える二等辺三角形の山は、大和三山の一つ、耳成山。
藤原宮蹟のすぐ傍には、こうした田園風景が拡がる。
横を通ると、若い稲の香りが漂っていた。

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2007-09-08

現説 藤原宮大極殿院南門(飛鳥藤原第148次)@9/8 13:30- 奈文研

今日は13:30から藤原宮跡で
 藤原宮大極殿院南門の現説
だ。
場所はこちら。
http://www.nabunken.go.jp/record/setsumei/img/2007/20070908/f20070908.jpg

最近、現説に来るのはいいけど、マナー違反のヒトが多いらしく、こんな警告付き。


発掘調査現地説明会

飛鳥藤原第148次(藤原宮大極殿院南門)の現地説明会を開催いたします

【日 時】 2007年9月8日(土)
説明は午後1時30分〜 1回行います ※小雨 決行
【場 所】 奈良県橿原市高殿町
「飛鳥藤原第148次(藤原宮大極殿院南門)」発掘調査現場
【交 通】 近鉄大阪線「耳成」駅下車南へ徒歩25分
【報告者】 都城発掘調査部 研究員 高田 貫太
都城発掘調査部 研究員 箱崎 和久
※ 駐車場は、ありませんので車でのご来場は、ご遠慮下さい。
なお、現地説明会場へは地図の矢印の道順でお越し下さる ようお願いします。
現場周辺の畦道や水田を通ることはご遠慮下さい。

畦や水田は私有地だからな。結構、畦や耕作地を踏み荒らしてるヒトがいたりして驚く。(所謂「銀塩orデジタル一眼オヤジ」集団だったりするから、もっとびっくり。写真さえ撮れれば、いいのかと。)

今回出てきた大極殿院南門跡は、かなり大きいので話題になっている。
読売より。


奈良・藤原宮跡 大極殿院「南門」基壇・階段跡が出土

大極殿院南門にあった階段の一部と見られる石材(6日、奈良県橿原市の藤原宮跡で)=吉野拓也撮影
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/img/is70907a.jpg

 奈良県橿原市の藤原宮(694〜710年)跡で、天皇の即位など国家的儀式を行った大極殿院の正門「南門」の基壇跡と、南北に取りつけられた幅約25メートルの階段跡が出土、奈良文化財研究所が6日、発表した。門、階段とも最大級で、続日本紀に律令国家成立を国内外に示したと記された大宝元年(701年)の元日朝賀が行われた舞台だった。同研究所は「新しい国づくりの出発を荘厳に演出したのだろう」としている。

 土壇が残る大極殿の南50メートルを調査。南門の礎石と柱を据えていた基壇(東西39・1メートル、南北14メートル)と南北にそれぞれ階段跡(東西24・7メートル、南北1・2メートル)の遺構が出土した。過去の調査で見つかった11枚の石材が、階段の1段目に当たることも判明した。門は東西約35メートル、南北約10メートルの平屋構造と推定され、階段幅は平城宮第1次大極殿院の正門より約10メートル長い。基壇の下は、地面を約1メートル掘り込み、土と砂を交互に入れて層状に棒で突き固める「版築(はんちく)」の技法で地盤を強化していた。

 続日本紀には、文武天皇(683〜707)が役人からあいさつを受けた元日朝賀で、南門近くに、朱雀や白虎の四神などを表した7本の幢幡旗(どうばんざお)を立て、新羅の使者らが参列したという記述がある。現地説明会は8日午後1時30分。

 鈴木嘉吉・元奈良国立文化財研究所長(建築史)の話「天皇中心の律令政治のスタートに当たって、天皇の威厳を示す儀式にふさわしい大きな門と階段だ」

元日朝賀
 元日に天皇が貴族や役人らから、年始のあいさつを受ける儀式。皇太子以下の臣下が南門に向かって朝堂院に並び、天皇は大極殿の高御座(たかみくら)に着く。律令制下の重要な儀式だが、平安時代中期以後は行われなくなった。


(2007年09月07日 読売新聞)

うちからだと実に不便な桜井線乗り換えで、耳成下車が吉かな。
幸い、今のところはお天気が保っている。
デジカメの電源はチャージしたばかりなので、頑張っていってこよっと。
帰りは、おふさ観音方向に行くか、素直に耳成駅に戻るか、悩むところだ。昨日、徹夜明けで一本研究会発表をしてきたところなので、体力の残り具合で決めよう。

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2007-09-05

外台秘要方

今年の夏はあまりに暑すぎて、一ヶ月ほどへばっていたので、仕事がちっとも進まない。
ようやく
 外台秘要方(げだいひようほう)
を手に入れた。本屋に注文を出すのも忘れるくらい、暑さでボケていた。
亜東書店から。
注文して一日で届いた。亜東エライ!
書名は『外台秘要方』じゃなくて
 『王燾医学全書』唐宋金元名医全書大成 中国中医薬出版社 8,137円
 張登本主編/B5/1212p/精装 ISBN7801567218 /2006.1
底本は日本で景印版を出した宋版の『外台秘要方』なので、マシな方だと思うんだけど、問題は
 横組簡体字
だってあたり。
 ぐえ〜、縦で組め、古典籍なんだから繁体字にしろ
と言いながら、ネットサーフィンをしていて見つけた、中国人の入力した、文字化けの多い『外台秘要』と照らし合わせながら、仕事を片付けている。もう暑いから、夜中〜早朝くらいしか働けない。横浜にいると、みんな朝型の普通の生活だからなあ。今年の夏は暑すぎて、昼間は勉強できるような気温じゃなかった。
本当は横浜に行ってる間に、東京の中国本屋を回るつもりだったんだけど、上野の博物館にすらたどり着けない情けなさだった。
奈良に帰ってきたら、こんどはコンクリートの躯体がこの暑さですっかり熱を持ってしまって、冷房掛けても南側の部屋は冷えないし、屋上に貯水槽があるものだから、水がぬるま湯になってしまっていて、いくらガスの出力を最低にしても、シャワーからは熱湯が出てくる。9月が終わるまでは暑さに苦しみそうだ。

古典籍の簡体字版の問題は
 元の字が複数存在する可能性がある
ときで、こうなると版本を見るしかない。日本で四半世紀前に出た景印版はたぶん、気が遠くなるほど高価な本なので、図書館に行くしかありませんな。
とりあえず3時間ほどで1/4にあたる十巻までは片付けた。こういう仕事は異常に早いんだよな。

明日(というか今日だけど)は消渇、すなわち現代の
 糖尿病
から。

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2007-09-02

肉球マニア必見 1400-1500年前の猫の足跡つき須恵器出土

あらま、確かに猫の足跡が。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/img/is70901a.jpg

読売関西版より。


兵庫・見野古墳群 猫の足跡が付いた須恵器発見

 兵庫県姫路市の市埋蔵文化財センターは31日、同市四郷町の見野(みの)古墳群(6世紀末〜7世紀中ごろ)の横穴式石室から、猫のものとみられる足跡が付いた須恵器=写真=が見つかったと発表した。副葬品に動物の足跡が残るのは極めて珍しい。

 共同調査する立命館大の学生が杯身(つきみ)と呼ばれる食器(直径15センチ)の内側に、白く丸い肉球らしき跡が五つ並んでいるのを発見した。

 センターの担当者は「器を焼く直前に偶然、動物の足が付いたと思われる。埋葬当時は気付かなかったのでは」と指摘。地元の同古墳群保存会メンバーからは「猫好きの権力者のために作ったのかも」との声も。

(2009年09月01日 読売新聞)

猫が日本に来たのは奈良時代で、経典をかじる鼠避けとして大陸からやってきたという説があるみたいだけど、6世紀末〜7世紀半ばというと、それより100年近く早いことになる。
動物考古学は全然詳しくないんだけど、このあたり、どうなんだろう?

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2007-08-21

俵物三品 干し海鼠が中国で高値を呼ぶ

俵物三品といえば江戸時代の
 長崎の対中貿易での重要輸出品
として、学校で
 煎海鼠・乾鮑・鱶鰭
と習う。乾鮑と鱶鰭は、高級食材として、日本でも人気だが、最近、中華料理屋で
 海参(干し海鼠)の料理を見ないな
と思ってたら、なんと
 日本産海鼠が中国で大人気で、価格が高騰しまくっている
というのだ。朝日から。


日本産ナマコ、中国で空前のブーム 価格5年で5倍

2007年08月21日

ナマコの輸出量と単価

 中国で日本産のナマコがブームを呼んでいる。特に乾燥品は価格がここ5年で5倍に跳ね上がり、密漁も急増している。ただ生態にはナゾの部分が多く、いつ枯渇するかも分からない。このため農林水産省は産地の研究機関と共同で、北海道も独自に、実態を調査して増殖させる作戦に乗り出した。

 北海道最北の稚内市。日本の4分の1の市場占有率を誇る北海道の中でも、最もナマコ漁が盛んだ。ある漁師(66)がこっそり自宅の裏庭を見せてくれた。

 網の上に天日干しされた10センチ大のトゲトゲがついた黒い固まり。中国では干しアワビやフカヒレなどと並ぶ高級食材の「北海キンコ」だ。「最近、キンコ泥棒が多い。夜は自宅の中で保管するんだ」と言う。

 乾燥ナマコは現在、1キロ4万〜5万円で輸出される。「日本産はキロ当たり中国のサラリーマンの平均月収くらい」と中国人の輸出業者(44)は言う。背景に中国の経済成長がある。遼寧省や山東省で養殖を進めているが、富裕層は日本の天然ものを好むという。

 北海キンコの大半は中国へ輸出される。横浜中華街の老舗(しにせ)「珠江飯店」は今は特別な時以外仕入れない。「買うのは中国大使館ぐらい。入荷も不安定で日本人は食べないのに価格が異常だ」と料理人の片岡叔民さん(56)は言う。

 ナマコは生態が明らかでない点が多い。このため農水省は今年度から、北海道、青森、山口、佐賀、名古屋などの研究機関や大学など全国12機関と共同で、把握・管理の方法を探る。香港や中国本土で市場調査もする。担当者は「日本産は世界のナマコピラミッドのトップにいる。安定供給を可能にしたい」と話す。

 北海道も8月から増殖に本格的に取り組み始めた。3年間、毎年100万匹を孵化(ふか)させ、約1年かけて育てた後、放流して追跡調査する。「半分生き残ってくれれば上出来」と道の担当者。

 愛知、福井、山口、大分の4県は20年ほど前、水産庁の事業でナマコ増産の技術開発を始めたが、国内消費は伸び悩み長くは続かなかった。この事業にも携わった水産大学校(山口県下関市)の浜野龍夫准教授が主宰する研究会にはここ2、3年、問い合わせが急増している。

 浜野准教授は「中国では強壮に良いという言い伝えがある。今より下がったとしても、高値安定が続くのではないか」とみている。

あ〜あ、それで海参料理をメニューに載せてないのか。結構好きなんだが。
中国人とビジネスをしている友人は嘆いている。
 忘年会で5日続けて海参料理が出た。金持ちは海参が好きだ
という。あんまり海参が好きじゃないと、それは辛いかもね。
海参好きのわたしとしても悲しい。以前は、嘘みたいな値段で食べられたのにな。

今から20年ほど前には
 甲魚(鼈)が癌に効く
という話が中国全土に流行し
 甲魚料理が高騰
した過去がある。でも、海参料理は伝統的な中華料理のジャンルだから、今後そうそう価格が下がることはなさそうだな。
北海道あたりで密漁とキンコ泥棒が今後もひどそうな悪寒。金になると分かれば、あちこちから密漁船と泥棒が来るだろうな。佐藤錦を盗むよりは、干してある海鼠を盗む方が楽そうだし。

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新収『撰進一千年記念 醫心方』医心方一千年記念会(順天堂大学医学史研究室) 昭和61年(非売品)

先日、『医心方』研究班で坂出祥伸先生からご教示いただいた資料。
千葉の古書店・草古堂から入手。送料込みで790円と格安。後から見るように、790円でこんな凄い論文が掲載されている書物が手に入ってしまうのだから、ありがたい。

『医心方』は永観2(984)年、丹波康順によって、撰述され、朝廷に献じられた。それから1000年目にあたる昭和59(1984)年、日本医史学会が中心となり、10月10日に京都・今熊野観音寺に
 医心方撰進一千年記念顕彰碑を建立
し、丹波康順の功績をたたえ、併せて記念講演会が開かれた。
その時の記念講演会をまとめたのが
 『撰進一千年記念 医心方』
である。
主な内容は次の通り。
 宗田一 日本医学のあゆみ
 矢数道明 江戸医学における『医心方』の影写と校刻事業の経緯
 三迫初男 中国古代医学と医心方
 馬 継興 『医心方』中的古医学文献初探
最後の馬継興論文がともかく凄い。なにせ、『医心方』を博捜して、
 204種の先行する医学文献から1万880条を引用した
と結論づけている。というわけで、『医心方』のみならず古代中国医学にちょっとでも関心があるなら、必読の論文である。

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2007-08-13

神奈川県立金沢文庫 企画展「陰陽道×密教」@8/9-9/30

横浜に帰ってきて4日目。
夏ばてが治らないので、ぐずぐずしている。
家から歩いて10分のところに
 神奈川県立金沢文庫
があり、ちょうど、8/9から
 企画展 陰陽道×密教
が始まったところだ。今日は月曜なので休み。


平成19年8月9日(木)〜9月30日(日)
企画展 陰陽道×(かける)密教

 日本の古代から中世にかけて、占いやまじないの技術のベースとなったのが陰陽道でした。古代中国の陰陽思想や五行思想に基づき、天体の運行や地上の異変を関連づけて説明する考え方を「陰陽道」とよび、朝廷には「陰陽寮」という専門の役所が設けられて、「陰陽師」という専門家がその技術を伝承していました。
 災いを予知し、発生した異変を無難に処理する陰陽師たちは超人的な存在とみなされ、陰陽道の技術は民間社会に広まり、日本文化の基礎に深く広がっていきました。
 ところで、仏教のなかに「密教」とよばれる一分野があります。さまざまな修法で加持祈祷を行い、信者の災いを払うという点で、陰陽道の役割と共通するものがあります。中国では陰陽道が「道教」という独立した民族宗教として発展するのですが、日本では陰陽道はついに独自の宗教として確立することはありませんでした。その一つの原因は平安時代の密教が陰陽道の技術を吸収したことが挙げられます。
 鎌倉時代に成立した「称名寺聖教」を調べると、陰陽道の色彩を濃厚に含んだ密教修法が多く見られます。この展示では、聖教という中世の仏教の書物を通じて、陰陽道と密教の混合した中世の信仰と観念の世界をご紹介します。

【主な展示内容】
 よみがえる「式盤」
  長い間謎とされてきた陰陽道の式盤(占い道具)の姿が、金沢文庫に保管する中世の密教資料の中に描かれているのが発見されました。

 権力者が好んだダキニ法の実像
  平清盛から後醍醐天皇まで、独裁的権力を握った人々が愛好し、邪法として恐れられた「ダキニ法」の実態が判ってきました

 日本史を影で動かした謎のキツネ信仰
  稲荷神は、日本で一番人気のある神様ですが、その正体は謎に包まれていました。重要文化財・称名寺聖教の調査から、中世の稲荷・ダキニ天信仰の特異な姿が浮かび上がってきました。

【主要展示品】
 重文 称名寺聖教            鎌倉〜室町時代
 重文 十二神将像(12幅のうち2幅)   鎌倉時代
 県文 焔魔天曼荼羅図          鎌倉時代
 重文 什尊願文(金沢文庫古文書のうち)  鎌倉時代
 重文 九重守(弥勒菩薩立像納入品のうち) 鎌倉時代    ほか

【休館日】毎週月曜日(ただし9月17日、24日は開館)、9月18日(火)、25日(火)

というわけで、式盤の現物ではなく
 絵
が出てきたってことね。
式盤に関しては、古いものは中国でいくつか見つかっていて、論文もある。
詳しくは以下に。
 2005-09-19 陰陽道で使った占い「六壬式」に挑戦
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2005/09/post_d9e3.html

加えてダキニですか。怪しさ爆発ですな。

図録もあるので、明日にでも出かけて仕入れてくる予定。(『五行大義』班のメンバーで、欲しい方は直接メールください)

今回の式盤に関しては、3月に出た、
 金沢文庫研究 318号

 西岡芳文「式盤をまつる修法−聖天式法・頓成悉地法・ダキニ法−」
という論文が掲載されている。これは明日金沢文庫の図書室へ行って、現物を見てから、コピーするか、買うかしてこようっと。

尚、展示に合わせた講演があるが、事前申し込みが必要。


夏期講座のお知らせ

日時  9月9日(日) 13時30分〜15時30分

演題  陰陽道の背景−中国的宇宙論の世界

講師  鈴木 一馨氏(財団法人 東方研究会研究員)

会場  金沢文庫地下大会議室

定員  100名(応募者が多数にのぼった場合は抽選とさせていただきます)。

申込  往復ハガキに、「9/9夏期講座 希望」・住所・氏名・電話番号を明記の上、お申し込み下さい(お一人様1枚でお願いいたします)。
       ※お申し込み先:〒236-0015 神奈川県横浜市金沢区金沢町142 神奈川県立金沢文庫 行

締切  8月28日(火)必着

備考  当日は観覧券をお求めのうえ、聴講してください。

鈴木氏が話すのか。
 

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2007-08-05

槙佐知子訳『医心方』の問題点 「果敢な挑戦」ではあるが、学術論文にそのまま引用できない水準 出版元である筑摩書房の担当編集者は怠慢の極み

2007-07-31 虎なんていないのに@医心方巻十八
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2007/07/post_b529.html
で、毎年現代語訳が筑摩から出ている
 槙佐知子訳『医心方』
が、
 なぜ大学図書館に入ってないのか
と疑問を呈したが、昨日の『医心方』研究班で、槙佐知子訳の極一部を見る機会があり、内容の検討がなされ、その理由がだいたいわかった。
1. 槙氏が医学や中国学の専門家ではないために、訳注の付け方や写本の校訂の仕方が恣意的で、典拠不明の文言があり、細かい誤りが多い
2. 誤りが多いだけでなく、明らかに校正不足
3. 槙佐知子訳は、学術論文に於いては、そのまま引用してはいけない水準
こういうわけで
 高価な書籍だが、そのままでは到底使えない「専門書の現代語訳」
なのだ。もし、槙佐知子訳『医心方』を学術論文で使うのであれば
 自分で『医心方』原文に従って、補訂した上で使う
のが、正しい。
 現代語があるから便利
とばかりに、そのまま引用すると
 誤りの上に、誤りを重ねる
ことになるだろう。

しかし、
 筑摩は、編集業務において、手を抜いている
としか思えない。一体、編集者は何をしているのか。少なくとも
 中国学に造詣のある編集者が担当しているとは思えない
のである。だいたい
 『唐書芸分略』
などという杜撰きわまりない訳注がつくのを放置しているのは、怠慢以外の何者でもない。一体、
 編集者は校正チェックを入れているのか
と思う。ちょっと説明すると、『唐書』と呼ばれる史書は
 『旧唐書』と『新唐書』の二種類
あり、どちらも書籍に関する解説目録を持っているが名称が違う。
 『旧唐書』は「経籍志」
であり,
 『新唐書』は「芸文志」
である。また
 芸分略
という不思議な名称は、恐らく
 南宋・鄭樵の 『通志』の「芸文略」
と混同した物だろう。つまり
 『唐書芸分略』
などという書物は存在しないのである。これは
 国立大学の中国の古典を扱う学科であれば、三回生で習得する水準の文献学的知識
である。ちなみに
 新旧二種類の正史があるのは『唐書』と『五代史』
であり
 引用するときは『旧唐書』『新唐書』『旧五代史』『新五代史』と新旧の別を明らかにするのが最低のルール
だ。
薬物名においても、植物では典拠不明の和名が載っており、甚だしい場合は
 植物の科名が間違っている
場合すらある。たった10数頁をみただけだが、
 有毒植物を薬用植物と混同している例
もあるのだ。

『医心方』の個人訳というのは、尊い仕事ではあるのだが
 もし、間違った処方を世に出した場合、それを使用した人が中毒などの被害を受ける
ことは、考慮されているのだろうか。
最近は、
 エコの流行
もあり、
 伝統医学の見直し
の機運もある。それはいいのだが
 『医心方』の現代語訳で処方部分の植物名に明らかな誤りがあり、人体に有害な場合もある
とすると、これはダメだろう。

少なくとも、筑摩書房と筑摩の担当編集者は
 読んだ人が、訳注に従って、「有毒でない」と思われる処方を実験する
ということも考えてほしい。少数の専門家が使う書籍だから、そうした間違いは放置しても大丈夫とタカをくくっているのだとしたら
 出版社としての見識を疑う
のだ。
 公刊された以上、誰もがアクセスできる公共図書館には収蔵されている可能性がある
のだ。
今は夏休みだ。もし
 小〜高校生が夏休みの自由研究で、図書館で借りた槙佐知子訳『医心方』に従って、処方を実験する
なんてことがあって、それが
 比較的入手が容易な有毒植物(庭木になるような植物にも有毒植物はある)を、「薬用植物」と間違って「処方」しているものにトライする
と、死に至ることはないにせよ、いいことはないだろう。

出版社は、自らの出版物にもっと責任を持ってもらいたい。恐らく、槙佐知子訳『医心方』に関しては、膨大な正誤表が必要になると思う。

しかし、筑摩書房って
 吉川幸次郎全集
を出してる出版社なんだよな。比較的中国古典には強い出版社だったはずなのだ。
その筑摩でこのていたらく。
しかも
 筑摩から出ている、高価な学術書
だから、普通は
 信頼に足る、すばらしい内容
だと思うわけで、二重の意味でショックだった。
大丈夫か、筑摩。

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2007-08-01

産婦の脳出血@医心方巻二三

大淀病院産婦死亡事例は、出産中の産婦さんが脳内出血を起こし亡くなられた、不幸で稀な事例だった。合掌。

ところで、MRIもCTもなければ開頭手術もできない、平安時代、安倍晴明の活躍したのとほぼ同時代に成立した日本最古の医学書である丹波康頼『医心方』巻二三には
 出産の際に脳出血を起こした産婦さんの治療法
というのが載っている。(ちなみに『医心方』巻二一〜二四は、産婦人科に充てられている。)
こんなの。
 第二七 治産後中風口噤方(産後に中風となり口がきけなくなる症状の治療法)
この時代は脳出血という概念はないから、すべて
 中風=風に中(あた)る
ということになる。
産婦の脳出血は知られていたようで、以下中国の医書から
 小品方二条
 葛氏方一条
 千金方一条
 録験方一条
 僧深方一条
 博済方一条
 産経一条
と合計八つの治療法が引用列挙されている。治療法といっても、
 服薬による対症療法のみ
で、果たしてどれだけ効果があったのかはわからないけれども
 産後の脳出血
にこれだけ治療法があるということは、それだけ知られた症状だった、ということだ。

ちなみに、巻二五は小児科の巻だがここにも
 第五十 治小児口噤方
があり、脳出血もしくは脳性麻痺で口を開かない乳幼児の治療法が書かれている。書いてある処方は
 雀の糞を麻の実くらいのくらいに丸めた物を呑ませる
 鹿の角と大豆とを粉状にしたものを乳房に塗って呑ませる
というもので、効果はなさそうだけど。二つ目の処方は「乳房に塗る」ということだから、赤ちゃんの脳出血や脳性麻痺を想定しているのではないかと思う。

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2007-07-31

東北大学薬学部の漢方の講座がなくなっていた

NIIで引くと、日本の大学では、
 東北大学医学系
のみに収蔵されている
 中國中醫基礎醫學雑誌 2004/10
を探し求めているのだが、昨日は医学分館に
 ありません
と断られた。かくなる上は
 薬学部の図書館かな
と電話をしたら
 薬学部の漢方の講座は廃止されて先生もいなくなった
とのこと。げげっ、それで
 2005年までしか、中國中醫基礎醫學雜誌のNII登録予約
がないのか。
日本中の大学で、NIIで引っかかってくる限りにおいては、東北大学にしかない。
司書の方が親切で、
 可能な限り探してみます
と協力してくださるとのことで、ちょっとほっとした。
もし、東北大学でアウトだと、あとは
 中国医学史研究者の個人蔵書
を尋ね回るしかないんだけどな。どうしても必要な文献なので、ちょっと今は頭を抱えている状態。
どうか東北大学薬学部旧漢方講座の蔵書にありますように。

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虎なんていないのに@医心方巻十八

ひたすら『医心方』各巻の細目を手で入れている。手元にあるのは半井家の写本を江戸時代に翻刻したものの影印版だからOCRが使えない。 翻刻の詳しい話は森鴎外『澁江抽齋』を読んでくださいね。
ま、手で入れると覚えるからいいけど。
いま片付けた巻十八というのは
 いろんな動物や昆虫に咬まれたり刺されたりしたときの治療法
が載っている箇所。
日本に虎なんていないんだけど
 虎に咬まれたときの治療法
なんて項目がある。おい、丹波康頼、ちょっと聞きたいんだが、
 見栄で入れたのか?
あとヘンなのは
 蚯蚓に咬まれたときの治療法
とか
 井戸や古墓の毒に当たったときの治療法(井戸は分かるが墓の毒って、墓泥棒でもしてるのか?)
とか
 熊に咬まれたときの治療法
も、当然ある。いずれも遭遇したくない。
 蛇に巻き付かれたときの治療法
という、あまり考えたくない状況にも、きちんと対策がある。

この巻の前半は、刀傷や矢傷の治療法が列挙されているのだが
 刀傷を負って、エッチしたら、急に大量出血しちゃったときの治療法
なんて
 英雄色を好む
というか
 おい、ちょっと待て
というか、何とも不思議な状況の治療法も記されている。

まあ、古代の人たちの
 分類法
って、よくわからん基準だから、適宜突っ込みを入れながら入力していくことになる。ちなみに、この巻の最後は
 蠱毒を避ける方法
だ。蠱の呪いなんて、掛けられるとイヤですが。

論文が仕上がって暇になったら、こうした変な治療法を紹介していこうかな。
巻十八に関しては槙佐知子さんの現代語訳があるのだが、滅茶苦茶高価な上に、大学図書館には所蔵がない。筑摩が出してるんだけど、大学図書館が入れてないって事は、値段の問題なのか、訳の精度の問題なのか。NIIで引っかかってこないからなあ。国立国会図書館にはさすがにあるけど。
槙佐知子訳『医心方』は現在までに全30巻の内の23巻分が出ている。一冊18000円前後だから、全部揃えるとちょっと目がくらみますね。どうしても読みたければ、国公立図書館で入れてもらって読むのが吉かな。

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2007-07-25

薄毛・禿を治す@医心方

夏休み集中
 『医心方』研究会
は、八月に2回ある予定。
巻四の頭からだというので、昔台湾で出た影印版を開くと、いきなり
 治髮令生長方第一(髪を生長させる治療法)
からだ。
以下
 治髪令光軟方第二(髪に光沢を持たせ、柔らかくする治療法)
 治髮令竪方第三(髪の根元をしっかりさせる治療法)
 治白髪令黒方第四(白髪を黒くする治療法)
 治鬢髮黄方第五(鬢の髪が黄ばむものの治療法)
 治鬢髮禿落方第六(鬢の髪が禿げて落ちる症状の治療法)
 治頭白禿方第七(皮膚が白くなる禿の治療法)
 治頭赤禿方第八(皮膚が赤くなる禿の治療法)
 治鬼舐頭方第九(鬼舐頭=円形脱毛症の治療法)
 治頭焼髪不生方第十(火傷してできた禿の治療法)
 治眉脱令生方第十一(眉が抜けたのを生やす治療法)
 治毛髪妄生方第十二(毛髪がやたらに生える症状の治療法)
と続く。
『医心方』の書かれた時代は、984年すなわち平安時代で、安倍晴明と同時代だ。当時は
 男性も髪を長く伸ばして、髷を結い、冠をかぶった時代
である。従って
 禿や薄毛、髪が伸びないと、大変困った
のだ。今より
 禿や薄毛に対する意識が強かった
と言っていいかもしれない。

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2007-07-09

万葉文化館建設による遺跡破壊 飛鳥池遺跡完全保存できず 何を今更毎日新聞奈良支局

和同開珎以前の日本の貨幣である富本銭の枝銭が発見されただけでなく、さまざまな
 古代工房の遺跡や遺物
が発掘された
 飛鳥池遺跡
は、
 万葉文化館の建設
によって、ほぼ全容を失っている。申し訳程度に
 部分保存
されているのが実情だ。
そもそも
 万葉文化館の計画
が出てきた段階で
 あそこは掘れば出る
と言われていた場所なのだが、結局
 奈良県が「観光資源を優先」
して、多少の計画変更をしただけで、貴重な7世紀の工房遺跡は完全保存されることなく、一部は永久に破壊されてしまった。
詳しくは以下に。
 飛鳥池遺跡発掘調査の経緯
さすが、
 遺跡を破壊して「ハコモノ」を優先した柿本県政
である。
このときの新聞各社の動きは緩慢で、
 飛鳥池遺跡の破壊を座視していた
と言ってもいい。ちゃんとした論戦を貼らず、
 地方の1ニュース
という位置づけが中心で、みすみす飛鳥池遺跡破壊を許した。もちろん
 万葉文化館開館
の時には、提灯記事を書いている。

で、その一翼を担った毎日新聞奈良支局が、今頃こんなことを言っている。


鹿笛:出土した銀粒やるつぼの分析から… /奈良

 出土した銀粒やるつぼの分析から、国内最古の銀の精錬場と判明した明日香村の飛鳥池遺跡。石見銀山(島根県大田市)より900年さかのぼる大きな発見となった。取材して「もっと早く判明してほしかった」と思った。
 8年前、富本銭が日本最古の貨幣と判明したのも同遺跡の調査だった。飛鳥時代の巨大工房遺跡にもかかわらず、この遺跡の上に現在の県立万葉文化館が建てられた。
 富本銭発見や同館建設計画などを取材し、「銀精錬の話が分かっていたら計画変更もあり得たのでは」と悔やんだ。石見銀山の世界遺産登録が決まっただけになおさらそう思う。(大森)
毎日新聞 2007年7月8日

要するに、毎日新聞奈良支局大森顕浩記者にとって
 世界遺産になった「石見銀山」が判断基準
なのだ。つまり
 もっと早く気がついてくれていたら、破壊せずに観光資源になったのに
くらいの卑しい下心が底流にほの見えている。ついでに
 奈良支局でスクープできれば、よかった
と思ってるんだろう。

そもそも
 もっと早く判明していれば
と新聞記者が口にすること自体がおこがましい。
いま、こうした古代研究に携わる文化財研究所の研究環境は、年々悪くなることはあっても、良くなることはない。
今回分析を担当している村上隆上席研究員は、金属加工研究に関する第一人者で、わたしはファンである。筆も立つし、分析もクリアだ。2003年に出版された、至文堂『日本の美術 金工技術』は、古代の金属加工技術の水準の高さを実感できる名著である。
村上上席研究員の所属する奈良文化財研究所は、独立法人化され、予算面でも、人員の手当の面でも、縛りがきつくなっている。そうした劣悪な研究環境の元で、大量にある金属資料を一つ一つ分析してやっと得たのが今回の
 飛鳥池遺跡の「灰吹法」で得られた銀粒
という結論なのだ。詳しい記事は以下に。
奈良・飛鳥池遺跡 官営工房、銀の精錬に灰吹法

こうした研究環境の問題には、もちろん
 文系からどんどん予算を削っている「国の財政方針」
が預かっているわけで、
 かつて日本の国都であった地域の研究にも容赦しない
のだ。

その上で、物を言え、といいたい。
もし、
 もっと早く「ネタになる情報」がほしい
なら、毎日新聞のカネを
 古代研究に寄付
するとか、こうした恵まれない基礎研究に財政的な援助でもしてからの話ですな。
 カネも出さずに「クレクレ」と手を出す
のは、食料品売り場の試食に群がる子どもじゃあるまいし、みっともないこと夥しい。

新聞記者は自分で調べない。
なにか記者発表があれば、やってくるが、事前に勉強してくる記者は年々少なくなっている。
報道を見ると、的外れな見出しが躍っていることも少なくない。
結局は
 遺跡は金儲けの種
くらいにしか考えてないのではないか、毎日新聞奈良支局。
これがここ何年か奈良で遺跡記事を担当している記者の
 ホンネ
なのだから、情けないという気持ちを通り越して、暗澹とする。
経済効率からでしか文化遺産を考えられないのは
 新聞社が攻撃している「弱者切り捨ての財政」
と実は根は同じなのだ。こうした類の記者を相手に記者発表を開いている各地の発掘担当者には、心から同情申し上げる。

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2007-06-22

平城宮跡付近にホテル誘致?

国から金をいかに引き出すか。
官僚の優秀さは、予算をどれくらい分捕れたかで決まるという。
官僚が自治体の長になると、次にやるのは
 地元の懐を痛めず、いかに国から金を分捕れるか
だ。

奈良県の荒井正吾知事は、運輸省出身。その後自民党から参議院に出ていたが、今年、前知事引退に伴い、知事選出馬、初当選となった。ま〜、このヒトが出るまでの間に、誰が出るか、奈良県の官庁周辺はかまびすしかった。
2010年の平城遷都1300年記念事業では、荒井知事は
 平城宮跡に恒久的施設を建設して、国営公園化し、観光客を呼び込む
というのが方針のようだ。当然
 お財布は国の税金
である。国営公園なら、国に作ってもらえばイイわけね。

5/30の定例記者会見ではこんなことを言っている。


平成19年5月30日(水)
(略)

平城遷都1300年記念事業について
記者: 平城遷都1300年記念事業についてですけれども、文化庁に対して使用許可の申し出がまだないとお聞きしてるのですが、いつごろに出される?
知事: 今まで使用許可の内容として、パビリオンをいくつもつくってという内容の内々の詰めがありました。今度は、大極殿の復原を主として国営公園の方式でしてもらおうと。そして、平城遷都1300年記念事業に今の天皇陛下の行幸を仰ぐということになれば、国の国営公園事業として、大極殿の周りの大極殿院や朝堂院を整備してもらうようにお願いできないかと考えています。国営公園化の同意と、その上での祭事をどのようにするかという2つの仕組みが要ると思います。まずハードをどうするかということで、文化庁に同意してもらえるような内容にならないと。そして、その上でやる祭事、お祭りも宙の上でするわけではないので、文化庁の許可は遅くなると思います。
記者: そうですか。
知事: 内容が固まった上で、国営公園の中で何をするかということもすり合わせながら、使用許可の申し出をしたいと思っています。
記者: 大極殿院と朝堂院の整備をまずお願いして、同意を得た上で、その上で何をやるかについてまた許可を仰ぎたいと?
知事: そうですね。この前の要望で、文化庁は「平城宮跡の復原を国営公園の方式でやるのは総論的には賛成です」というところまで言っていただいて、ではどのような復原だと賛成なのか、それはいつどのあたりまでするのかということを、これから事務的に詰めなければいけません。それを国土交通省の予算要求までに、基本的な絵柄を書かなければいけませんので、そのためにはこちらからこういう形にしてほしいということを要望に行き、その案が固まってくれば発表しようかと思うのです。
 けれども、まだ絵をかきつつある段階ですので、その絵が出来てお願いした段階で、ではその場所でどのような催し事をするのかという仮のアイデアを発表していきたいと思っています。
記者: そうすると文化庁の許可はかなり遅くなるということですか?
知事: そうなりますね。
記者: 最速のスケジュールでいってもかなりずれ込む?
知事: そう思いますけどね。
記者: どのぐらいを予測しているんですか?
知事: 国営公園の同意をしてもらうということは、予算要求のときに文化庁のある程度の同意や協力がないと「人の土地で勝手に予算要求をして」ということになりますから。
 概算要求のときに国土交通省へ要望書を持ち込んだときに「文化庁はこれでいいと言っているんですね」と必ず聞かれると思いますので「はい、そうです」ということができればと思うんですね。予算要求までにそのすり合わせの過程で、国営公園の上で祭事をしますということならば、実質的にはその時点で何らかの形で了解となると思うんです。ただ、その許可申請と許可に何かの形が要るならもっと遅くなるのかもしれませんが、実質的に国土交通省の予算要求に「文化庁の同意を得て予算要求にまいりました」ということになれば、それは実質的に同意というようになると思います。
記者: 予算のスケジュールと絡めて、やっぱり夏、秋頃になると?
知事: 予算の概算要求は8月末ですが、それまでに普通は与党の調整というか報告があります。議連と政調にかけるというと、議連は予算要求前の夏に参議院議員選挙があるから、今年の議連や政調の自民党と与党との調整は、おおよそ8月の末ぐらいに「要求はそれでいいよ」というのを報告します。あとは編成過程で「応援してやるぞ」ということを各部会でお墨つきをもらうのが常ですので、そこにかけるということは与党の了解をもらったということになります。「頑張ってきます」といって予算編成過程に事務的に入りますので、秋以降ですね。内示は12月に出ます。この内示がとても重要で、予算要求を宙に浮いたようなものもできません。
 先日要望に行ったときも財務省の主計官も、既に予算要求前から勉強してくれていました。こんなことはめったに査定官庁ではないのですが、事急ぐということで査定官庁の方が随分勉強してくれていまして、それはありがたいことだと思っています。
 国土交通省も平城遷都1300年記念事業をどのように助けられるのかということを、事務的にもいろいろと、総合政策局が各部局に照会をしてくれていまして、これもとても異例のことでありがたいと思っています。心して要求していかなければいけないと思っています。
記者: そうすると許可の方向性については、今おっしゃったように早ければ夏ぐらいにめどがつけれたらいいなという?
知事:実質的な意味としては、そういうことですね。要求の内容が固まれば大きなめどはつくと思います。許可行為というのは、後になると思います。許可となると、要求が確定していないとなかなか出ないと思いますので、予算内示が出るまでには許可は出ないと思うんですよね。
記者: もう一度繰り返しますが、大極殿院や朝堂院の整備をしてもらうお願いも、この6月4日の宮内庁のときの陳情とは別ですか?別ですよね?
知事: 宮内庁は平城宮跡に関係していませんので、別ですね。
記者: そうですね。
知事: 要求するのは国の官庁だから事務的に会議を積み重ね、折衝が進んだ段階で、すり合わせのもとに地元でも発表しないといけないと思っています。もう少し遅くなると思うんですが、段取り的には、遅くとも議連と同じぐらいに発表しないといけないと思っています。議連がいつ開かれるのかは、選挙や先生の日程とかあるので、それと内閣がどうなってるかとか、いろいろあると思います。
記者: 今の話で夏ぐらいに方向性にめどをつければ、2010年のスケジュールには?
知事: 急がないといけないですが、間に合うような内容にしていかなければいけないと思います。正式に予算が固まるのは、内示のある年末になるのですが、その過程で折衝していますと、政治的なバックアップも含めて感触は出てくると思います。平城遷都1300年記念事業が成功がするかどうかの大変大きな要求と結果なので、今年1年は大変緊張した年になると思っています。

おお〜、すげー。元の出身官庁(現国交省)に
 お願い
に行ってるのね。
しかし、文化庁がそうそう簡単に首を縦に振るものかどうか。
 奈良を儲けさせるために、ここは一発、税金を投入してください
というのをお願いするのに
 天皇行幸をダシに使っている
わけで、政治手法としては普通なのかも知れないけど、あまりいい感じはしませんね。それとも、これが
 国交省の予算分捕りの伝統的手法
ですか。確かに
 行幸・行啓があると道が整備される
のではあるけど、今度は
 大極殿だけでなく、他の施設も整備してもらっちゃおう
という、すごい合わせ技だ。国の借金がいくら、一世帯当たりにするとどのくらいの額というのを、毎日カウントしてくれる「財部誠一 借金時計」
http://www.takarabe-hrj.co.jp/clock.htm
を見ると、そんな暢気なことを言ってられない訳なのだが。
そもそも
 平城宮跡を整備すれば観光客が来る
というのは幻想に過ぎない。
奈良に来ないで、なぜみんな京都に宿泊するのか。
理由は簡単。
 奈良には、文化財以外に魅力的なコンテンツもサービスもない
からだ。たとえば
 京料理はあっても奈良料理はないに等しい

 京の職人技は有名でも、奈良の職人技は地味
だ。都としても
 京は1000年の都、平城京は8世紀に70年ちょっと(740年代には聖武天皇がうろうろするから奈良は都ではない期間がある)だけ都
だったわけで、地力が全然違う。
 奈良の寝倒れ
という言葉があるごとく、夜の楽しみについては、京都の足下にも及ばない。
そんなプアな環境に今度は
 国賓を呼べるホテルを平城宮跡付近に誘致する
んですと。
毎日新聞奈良版より。一連の大淀病院産婦死亡事例報道でもおなじみの中村記者の記事。


県:平城宮跡周辺にホテル 知事が誘致の意向表明 /奈良

 荒井正吾知事は20日の定例会見で、国営公園化を目指している奈良市の平城宮跡周辺に、大型のホテルの誘致を検討することを明らかにした。外資系を含めて誘致先を探したいという。
 荒井知事は「セントラルパーク(米・ニューヨーク)、ハイドパーク(ロンドン)など街の中の公園のそばはホテルの好立地。都市計画など手続きの問題はあるが、大きな売りものになる」と説明。「宿泊数の増加を観光面で最大のターゲットにしたい。国際会議で元首級が泊まれるホテルがないのは情けない」などと必要性を語った。【中村敦茂】
毎日新聞 2007年6月21日

6/20の定例会見は、まだサイトに載ってない。
ああ、さすが元運輸官僚。
 金をかけて、ハコモノを作れば、人が来る
と思ってますね? ひょっとして
 ウインザー洞爺のマネ
でもしたい?
奈良は都市としての魅力に欠けるから、宿泊客が増えないのだぞ。問題はハコモノじゃなくて、
 ソフトウェア
の方だ。
で、平城宮跡付近って、当然
 緊急発掘をやって、「遺跡は破壊してホテル建設」
ってことですね? 今度
 長屋王邸宅跡級の遺跡
が出ても、
 破壊してホテルを建てる
って、
 そごう誘致の時と同じ轍(てつ)を踏む
ってことで、よろしいですか?
これが
 荒井知事の考える「文化・歴史の活用」
らしいぞ。

続き。wiskijiさんから次のようなコメントを頂いた。


荒井知事のサイトの公約を見ても坊さん風体の下に開発主義という鎧が丸見えですね、近鉄西大寺や平城京跡区間を地下化とか、山辺の道付近に「高速道路をもう1本?」ですし。
平安京へ遷都することになった原因が仏教勢力だそうですが、偶然ですかねえ…

外資系だと国際的な保険会社の多面的な評価も加わるので厳しくなるんじゃないかな。
宿泊の「稼働率」なら、JRと自治体が共同作戦を行うDestination
Campaignといった地域活用という意識を定着させないでは、いくら箱を作っても元の木阿弥でしょうに。

荒井知事って、見た目は、いいおじさん風なんだけどね。。。

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2007-06-19

「朝鮮戦争は日本が侵略」韓国の小学生の2割がこたえる 「南軍北進す」でも「北軍南進す」でもないのか

日本でも
 歴史を知らない子どもや若者
が問題になるけど
 朝鮮戦争は日本が侵略した
って、
 南北分断の歴史
について、根本的に間違って覚えてるのではないか。
産経より。


韓国の小学生2割「朝鮮戦争=日本が侵略した戦争」

 【ソウル=黒田勝弘】韓国現代史の最大の悲劇といわれる朝鮮戦争(1950〜53年)について、韓国の小学生の5人に1人が「日本が韓国を侵略した戦争」と考えていることが明らかになった。18日発売の韓国の有力月刊誌「月刊中央」7月号が朝鮮戦争57周年を機に実施したアンケート調査の結果として伝えたもので、同誌はその原因として最近の親北朝鮮的な学校教育と日本に対する相変わらずの敵対心を挙げている。

 同誌によると調査は4月から5月にかけソウルの7つの小学校で3〜6年の児童3660人を対象に行われた。

 その結果、朝鮮戦争が起きた時代について「現代」と正しく回答したのは46%で、過半数が李朝時代(14世紀末〜20世紀初)など、それ以前の出来事と答えている。

 また「誰がどのように引き起こしたか」という質問には72%が「北韓(北朝鮮)が南韓(韓国)を侵攻した」と正しく答えたが、一方で「日本が韓国を侵攻した」という回答が22%もあった。しかし北朝鮮や左翼勢力の主張である「南が北を侵攻した」は2%だった。

 興味深いことは、朝鮮戦争は李朝時代に起きたと回答した児童の51%が「日本が韓国に侵攻」と答えている。これは朝鮮戦争と、16世紀の豊臣秀吉軍による朝鮮侵攻(日本では文禄・慶長の役、韓国では壬辰倭乱)とを混同しているためで、子供たちの間では「とにかくわが国に攻めてきたのは日本」という漠然とした考え方があるためと、同誌は解説している。

 この結果、「朝鮮戦争というと何を思いだすか」という質問に対しても、日本支配時代の独立運動にからむ「柳寛順(人物)」や「独立万歳」「日本軍」などの回答が多く、「金日成」「金正日」など北朝鮮がらみのものはほとんどなかったという。

 対北融和政策が進められている韓国では近年、学校教育でも「統一教育」の名の下、北朝鮮との過去や対立関係はできるだけ教えず和解と協力が強調されている。

 これに対し日本については、領土問題や慰安婦問題、靖国神社問題などを通じ歴史的な敵対関係が強調され、日本と韓国は交戦国ではなかったにもかかわらず、戦争したかのような認識が広がっている。こうした雰囲気が子供たちの「間違った歴史観」にも影響を与えているものとみられる。

(2007/06/19 07:59)

おいおい。
 8月15日の光復節
って、
 日本の植民地政策から解放され、独立を回復した記念日
だったんじゃないのか、韓国。

不思議なのは
 南軍北進すとこたえた小学生が2%しかいない
ってあたりだ。

この小学生達があと10年もすると、韓国の20歳前後の若者になるわけで、
 日本が韓国を苦しめた史観
にどっぷり浸って、サッカーやラグビーなどの日韓戦で燃えるのか、それとも、この10年の間に
 歴史認識を改める
のか、謎。
もし、この10年の間に
 南北統一
が行われると、東西ドイツのベルリンの壁崩壊より更に悲惨な経済格差がある南北融和は、えらいことになるのが予想されるので、
 全然違う歴史観
になっちゃうだろうな。たぶん、統一前の希望に満ちた歴史観とは、まったく違った現実を毎日見ることになるはずなので。

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2007-06-16

下三橋遺跡現説@6/16 大和郡山市 平城京の十条大路出土 京南特殊条里の謎も解明

毎度おなじみ、平城京の当初計画では
 大路は九条まででなく十条まであったのではないか
という、驚きの発掘結果が出ている、大和郡山市の下三橋遺跡の現説だ。
以前の記事はこちらに。
 2006-03-12 下三橋遺跡 平城京の羅城と十条まであった都市計画
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2006/03/post_67c7.html
 2005-08-27 平城京は広かった? 定説を覆す発見
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2005/08/post_7404.html

なにが梅雨入りだか。
本日は晴天で暑い。まさに現説日和。
今日の現説は、10時〜12時までと、時間設定が短い。朝一は、たぶん報道陣などとかち合うだろうからと、1時間遅らせて正解。報道陣がいると、カメラの三脚や脚立が邪魔だし、絶対に報道陣がいいカメラ位置を取っている。
こちらは今後も繰り返し使う商売道具、研究資料の現場写真を撮らなくちゃいけないのだ。できるだけ広く視野を取れる状態で写真を撮りたい。遺跡は恐らく埋め戻される。チャンスは短い。
取材に来る記者達のどれほどが、奈良県の遺跡に興味があるか知らないけど、半分以上の記者は、そのうち
 昔遺跡の取材に行かされたなあ
で終わってしまう話だろう。覚えてないかも知れない。

それほど混んでいない状態で、まず
 十条条間小路と東二坊坊間西小路の交差点(XW調査区)
を見る。前回前々回から掘っているところの延長部分だ。ここで
 この道路が建設された時期は、道路の幅が710cm=20×35cmで、713年に廃止された「1大尺=35cm」の単位を用いて設計されていることからも、当初の都市計画で作られたことがわかります(平城遷都=710年)
と説明を受ける。ここの発掘は元興寺文化財研究所の佐藤亜聖さんの担当。非常に手慣れた現説でわかりやすい。
XW調査区は、後世の土地利用によって、削平を受けていて、道路の溝が分かりにくくなっていた。

さて、問題の十条大路へ。XW調査区から5分くらい歩いたところに現場がある。途中、脚立を担いで、道路の右側を戻ってくる報道陣(おそらく新聞各紙)とすれ違う。気のせいか、誰かにガンを飛ばされたように感じたのだが、右目は見えないので、よく分からなかった。ま、勘違いでしょ。
現場に着く手前のところで、読売新聞記者が、現場の人にいろいろ質問していた。たぶん、このあたりの地名について聞いていたのだと思う。

十条大路が見つかるかどうか、というのは去年の現説で
 あの池あたりですね〜
という話を聞いていたのだが、現場は池の東側だった。
 十条大路と北側の2本の側溝、南側の1本の側溝
が綺麗に出ている。こちらは大和郡山市教育委員会の担当。現説担当者が名乗らなかったので、氏名不詳の男性。
十条大路も側溝もまったく削平されてないのだった。そのため
 北側の溝の中心から南側の溝の中心まで幅が15.75m=45×35cm=45大尺
 北側の溝の北端から南側の溝の南端までの幅が17.5m=50×35cm=50大尺
と、都市計画の様子が明確に遺構に残されているのである。
面白いことに
 九条以南の道路が廃絶すると、建物の柱は抜き、溝や道路は埋めた
のだが、
 十条大路の幅一杯に水田を作った
のだという。
 十条大路の北は畑、南は荒れ地
だ。このあたりは、所謂
 京南特殊条里(106m四方)
と呼ばれる、一般条里(109m四方)とは違う、変な条里地割が残っている場所である。
 京南特殊条里の一番南端は、なぜか正方形地割でなく南北が35mと短い長方形地割になっているの
のは、謎とされ、諸説があった。
ところが、今回の十条大路の発掘で、
 九条以南十条までの道路廃絶後、106m四方の地割=九条〜十条の532m四方の一辺を5等分したもの=京南特殊条里
だということが判明した。その後、京域外の南の方から
 109m四方の一般条里
が北上してきて、ちょうど十条大路で、
 106m四方だった一番南端の京南特殊条里が70mほど一般条里に浸食され、残りが35m分の短い長方形に変わった
ということが分かったのだ。つまり、このあたりの地割の変遷は
 十条条坊→京南特殊条里→一般条里
という順序だったのである。
 35mの謎
は、こうして解決したのだった。

いや〜、地割なんて地味なものだけど、掘ってみると、いろんなコトが分かって面白いな〜。

残された課題は
1. 十条大路と交差する南北の道路を掘ってT字形になっていれば、めでたく「十条大路が平城京の南端」と判明(まだ掘ってない)
2. 今回発掘したのは、平城京の東半分にあたる左京部分。では、西半分の右京にも十条大路があったのかどうか(これもまだ掘ってない)
の二つ。
発掘続けられるのかな〜。大丈夫なのか? イオンスーパーセンターを作るためにやってる発掘なんだけど。

十条大路の南側は竹藪。竹藪のあたりもいくつか試掘したけど、道路の跡は出てこなかったそうだ。
竹の蔭で、ため池を通る涼しい風にちょっと当たって、一服。
1時間に1本しかないバスが、ちょうど行ってしまったところだったので、神殿(こどの)まで歩いて、帰りのバスに乗った。さすがに神殿まで行くと、もう少しバスの本数が多い。

しかし、神殿の「神」ってなんなんだろう? 忘れない内に調べておかなくちゃ。

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2007-06-13

宮本長二郎『出土部材が解く古代建築(日本の美術 490)』 鈴木規夫編『文化財と科学技術 東京文化財研究所のしごと(日本の美術 492)』

今年の3月と5月に出た「日本の美術」シリーズの二冊。

宮本長二郎 『出土部材が解く古代建築(日本の美術 490)』

日本の各地から出土する木材には、器物や木簡だけでなく
 建築部材
も多い。一つの遺跡から大量に建築部材が出たという報道はされるが
 どんな建物のどういう部材か
ということは、報告書でも読まない限り、なかなか分からない。
本書は、古代建築の専門家を得て、これまでに出土した古代の木材と家形埴輪、著者がフィールド調査で撮影した東アジア・東南アジアの稲作文化圏の少数民族の建築例を総合して、
 弥生時代から10世紀までの日本の木造建築とその技術
を復元する試みである。
家形埴輪で
 デフォルメした表現
と考えられていたものが、実は木材が出土して、その通りの部材の加工をした柱の様子を忠実に表したものだった、と分かる例など、
 出土物を丹念に拾い上げて、再構成する緻密な検証
が光る。
現代の東南アジアの少数民族の建築と日本の古代建築や神社建築との関係については、文化人類学的なアプローチで言及したのを読んだことがあるが、ここまで
 考古学で古代木造建築を語る
ことができるようになったとは、すばらしい。
個人的には
 貴州省侗族の刻み梯子
がツボにはまった。まさに
 こざとへんの象形のもとになった梯子の形
だったからだ。

鈴木規夫編 『文化財と科学技術 東京文化財研究所のしごと(日本の美術 492)』

高松塚・キトラ古墳の保存・修復作業で、何かと話題になった東文研が、
 普段は何をやっているか
という情報宣伝活動のための一冊。てか、大体みんな
 東文研ってなにやってんだっけ?
と悩む。奈文研の場合は
 奈良県内の遺跡の発掘
という、非常にわかりやすい仕事があるから、あんまり
 奈文研って何やってるの
とは聞かれないのだが。

東文研が最近とみに成果を上げている
 顔料の蛍光X線分析
あたりが、まあ、わかりやすい。

ところで、これは余談だけど
 なぜ高松塚古墳の作業日誌がある時期ない、もしくは不十分なのか
という話で、
 修復の人たちは「日報」をつける習慣がなかった
と聞いた。考古学にちょっとでも触れたことがあれば、日報の重要性は、口を酸っぱくして説かれる。作業を終えて、日報を書かないなんてことはあり得ないのだが、美術の人たちには、そういう
 文化がなかった
というオチをちらっと耳にした。
文化財保護の闇は、変なところで深い。

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2007-06-12

国際シンポジウム 伝統中国の庭園と生活空間 6/9-6/10@みやこめっせ 第二日目(その2)

前の晩に
 趙紫陽軟禁中的談話
を、寝しなに読み始めたら、すごく面白くて、寝過ごしてしまい、会場には15分ほど遅れて着く。

いくつか印象に残った発表を紹介する。
 宋鎮豪 中国社会科学院歴史研究所研究員 商甲骨卜辞中的建築称名和建築礼制(甲骨金文の専門家が、実見し得た膨大な量の甲骨から、建築に関する甲骨文字の釈義を行うという、まあ贅沢な発表。後には「宗廟」と熟して使われる「宗」と「廟」だが、甲骨文字には「宗」はあっても、未だに一字も「廟」字は発見されていないとのこと。いや、こういう分厚い研究発表を耳にできただけでも、幸せというものだ)
 黄蘭翔 中央研究院台湾史研究所副研究員 台湾板橋林家花園的真仮与虚実(庭の機能が、台湾では世俗化するという話。庭には舞台がしつらえられて、演劇が上演されたという。こうしたところは、大陸の庭園では好まれなかった)
 大平桂一 大阪府立大学教授 『西遊補』の庭園・建築群(ご本人が「怪しい」と事前に予告されたとおり、『西遊補』の世界はとことん怪しい。久々に、古白話を読みたくなった。しかし、『西遊補』は壮大かつ滅茶苦茶な話で、いろいろ裏がありそうだ)

途中、昼ご飯を挟んで、藤井有鄰館へ。
昼食はどこも混んでいて、東山二条の「唐子」でラーメン。大将が途中からの雨降りに、傘を恵んでくださる。
まさに
 一天俄にかき曇り、盥を覆すが如き豪雨
になって、会場に這々の体で戻ると、しばらく足止め。

閉会後には懇親会。
ロイヤルホテル地階の中華料理「精華」で。
実は、
 田中淡先生の還暦を祝うサプライズ
が仕掛けてあって、非常によい雰囲気で終わる。

国際シンポにはいくつか出たことがあるけど、今回のシンポジウムは、
 随一といってもいいくらい、すばらしい国際シンポ
だった。発表者とコメンテーターの人選が的確で、実に刺激的だった。

次回もあるといいね、という話になっている。たまたま大平さんから
 なんかやらない?
と尋ねられたので、
 あ、『金瓶梅』の庭でやります。「庭と性愛」ってことで
と即答。果たして、こんな恐ろしい題目が通るとは思えないけど。

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2007-06-11

国際シンポジウム 伝統中国の庭園と生活空間 6/9-6/10@みやこめっせ 第二日目

北京の景山公園は、故宮の北側にそびえる、人工の山である。頂上には万春亭があり、ここからは、南側に広がる瑠璃瓦の葺かれた故宮の黄色い屋根を見渡すことができる。

藤井有鄰館は凄かった。
有鄰館の屋根には
 清・乾隆年製の本物の故宮の瑠璃瓦
が葺かれている。そして、屋根の四方の隅棟には
 走獣
とよばれる、瓦と同じ色の魔除けの動物などが置かれているが、これも故宮のものと同じだ。
去年、瀋陽の故宮で割合近くで見たのとほぼ同じ走獣で驚いた。
藤井有鄰館の屋上に、わたしたちは特別に上がらせていただいたのだが、故宮の瑠璃瓦は、屋上で、実際に目近に見たり、触れることができた。
 皇帝のみに許された黄色い瑠璃釉がかかり、軒丸瓦には皇帝のみが使用できた五爪の龍が踊る、本物の故宮の瓦
だ。皇帝のために焼かれた瑠璃瓦は、堅牢で、今なお風雪に耐えている。
 故宮
http://www.allchina.info/heritages/2007/02/post_7.html

かつて、中国が清末民国初の混乱にあった時期に、中国の文物の散逸を恐れて、蒐集し、公開したのが、藤井有鄰館の創始者藤井善助だった。今でも、定例の開館日は月2回第1・第3日曜(1月と8月は閉館)の正午から午後三時半までの三時間半のみ。その代わり
 私財を傾けて、蒐集した高水準のコレクション
を、
 当代随一の建築家武田吾一プロデュースの元、「コレクションに合わせた展示スペース」から設計した博物館
で、惜しみなく公開している。書画は、照明を落とすことなく、明々とした光の中で、その美を詳細にわたり見ることができるのだ。たぶん、ホンモノをこれだけ明るいところで公開しているのは、世界中でここだけだろう。
その気前の良さには、驚くしかない。

まずは、藤井有鄰館のサイトから。


有鄰館の沿革と概要
京都・東山連峰にほど近く清らかな疎水に面し、乾隆年製の黄釉瓦36,000をのせ、中国古材の朱塗りの八角堂をいただく有鄰館は、大正15年(1926年)に、滋賀県五個荘出身の藤井善助翁によって設立されました。翁は近江商人の血をひき17歳で上海の後の東亞同文書院大学に学び、33歳では数十社の経営に当り、満34歳で衆議院議員となり、この時出会った犬養毅翁の薫陶が中国文化への認識を深めさせ、古印などの収集をはじめることとなりました。有鄰館という名前は、「徳は孤ならず必ず鄰有り」と中国との善隣と友好を願って「論語」より名付けられました。

「美術は一国文明の象徴にして文化の尺度たり。古来、東洋文物の世界に貢献するところ極めて深く、わが国文化の開発は、往昔中国に負うところ更に深し。しかるに近時、東洋文化の誇りとすべき宝器名品海外に流出し、欧米に去るを防がんと欲し、自ら微力を顧みずこれを蒐集す。しかるに美術の人心に及ぼす影響大なるを考え、蒐集家の深蔵を改め、公衆に公開して人心を美化し、美術の学術研究に資する。」という設立者の精神は今日まで脈々と流れ、大正15年以来の定日一般公開をつづけています。

殷代より清代に至る約4000年間に生み出された芸術性の高い中国文化の結晶である、青銅器、仏像彫刻、陶磁器、磚石、印璽、書蹟、絵画などは、私達との血のつながりを肌で感じさせます。 又、文字の発達、変遷を甲骨文や青銅器の銘文にはじまり、多くの資料を通じて学ぶことが出来るのも有鄰館の特徴であります。「精神的に豊かな社会づくり」はビジョンであり、人間性の維持と復活という永遠のテーマに対し、鑑賞者が何らかのヒントを見出していただけると共に、やすらぎのひとときを与えられる美術館でありたいと念じています。(有鄰館館長)

雲崗石窟の仏頭、敦煌出土の絵画や文書、殷墟出土の甲骨など、いまの中華人民共和国に言わせれば
 劫略
と呼ぶに違いない、第一級の文物が所狭しと並んでいる。


蔵品略目
国宝、重要文化財をはじめ、絵画、書蹟、古印等常設展示されていないものもありますのでご了承ください。

一階陳列室  
  佛像・彫刻  
    婦人木彫 エジプト
    マトウラー帝釈窟説法図 インド
    仏伝図・石仏 ガンダーラ
    雲岡石窟仏頭 北魏
    太安元年仏座像 北魏
    天平二年弥勒三尊仏立像 東魏
    元象元年交脚菩薩像 東魏
    河清三年三尊菩薩立像 北斉
    開皇四年金剛力士像
    黄玉観音立像 隋
    仁寿四年鉄観音立像 隋
    貞観十三年仏坐像 唐
    響堂山石窟羅漢像 唐
    五台山胡僧礼拝図 唐
       
  画像磚石・瓦当  
    東王父・西王母画像石 漢
              画像空心磚・狩猟画像磚柱 漢
    十二字磚・長楽未央磚等 漢
    双馬画像磚 唐
    瓦当「羽陽千歳」・「羽陽臨渭」等 漢
       
  石経・経石  
    熹平石経 漢
    正始石経 魏
    統和二十八年陀羅尼石幢 契丹
       
二階陳列室  
  青銅器・權量  
    饕餮文卵形容器(有銘)
    善夫克竊曲文鼎(銘七十二字) 西周後期
    饕餮帶文鼎(銘六字) 西周
    龍文鐘(有銘) 西周
    犧首饕餮巴状尊(有銘)
西周

    男女鈕銅匣 戦国
    犠牛 戦国
    銅象嵌獸文壷 戦国
    鉄権・銅権・銅量等 秦
    鳳鈕蓋薫炉(建平四年銘) 漢
    燭台(建初八年銘) 漢
    獸環銅洗(綏和元年銘) 漢
    塗金獸鐶方壷(長沙元年銘) 漢
    重圏清白鏡 漢
    八稜雲龍鏡 唐
    海獸葡萄鏡 唐
       
  銅仏  
    古式金銅菩薩立像 五胡十六国
    青銅三尊仏立像 北魏正光三年
    金銅仏立像 北魏孝昌二年
       
  玉器  
    玉璧・玉�・含玉 周
    渦文玉 周
    緑色玻瑠環 周
       
  漆器  
    鳥獣雲気文漆奩 漢
    塗漆木肘付弩 漢
       
  璽印・封泥・印譜(常設展示ではありません)  
    周玉璽・古印(官私印)  
    「日庚都萃車馬」 戦国
    「彭城丞印」・「和仁都尉」 漢
   
純金印「崇徳侯印」「関中侯印」


    流金龍鈕「内府図書」 南宋
    乾隆帝玉璽「十全老人之宝」 清
  文房具  
    瀞上人端渓詩硯 宋
    桃河緑石蛟龍硯 宋
  衣裳  
    夾帯衣裳 清
       
三階陳列室  
  陶磁器・玉器  
    緑釉・望楼・犬・鷲・梟 漢
    鎭墓獣及び神将俑 唐
    三彩馬及び胡人 唐
    万暦赤絵薫炉
    梅花碗古月軒 清
    翡翠水瓶・香炉 清
    白玉香炉 清
       
  寝台・衣裳  
    螺鈿朱漆寝台 明
    乾隆帝龍袍
       
  書蹟・古文書・碑版法帖(常設展示ではありません)  
    華厳経巻第三十七(開皇三年) 隋
    顕揚聖教論巻第五(貞観二十二年) 唐
    西域出土文書・勧善文  
    天発神讖碑・爭座位帖  
    春秋経伝集解 唐
    黄庭堅 李太白憶旧遊詩 北宋
    范純仁告身(元佑三年) 北宋
    蘇軾 尺牘 北宋
    呉説 遊絲書(紹興十五年) 南宋
    張即之 李伯嘉墓誌 南宋
    鮮干枢 杜甫詩草書(大徳二年) 元
    宣宗帝勅書(僧道淵に下賜) 明
    董其昌 謝希逸月賦(万暦三十九年) 明
    王鐸 香山寺詩(崇禎十三年) 明
    朝鮮通信使関係資料   
       
  絵画(常設展示ではありません)  
   
            南詔国観音応化図

五代
    王庭筠 幽竹枯槎図 金
    許道寧 秋山蕭寺図 北宋
    馬和之 毛詩大雅蕩之什図 南宋
    陸治 白岳紀遊図(嘉靖三十三年) 明
    陳洪綬 花鳥図 明
    王時敏 菖蒲石寿図(順治十年) 清
    郎世寧 春郊閲駿図(乾隆九年) 清
    楊柳観音像 高麗
    聖徳太子孝養図(鎌倉) 日本
       
貴賓室  
    堆朱衝立・大埼子 清
    鳳凰立像薫炉 清
    乾隆飾付時計 清

もし、これらがここになかったら
 日中戦争や国共内戦や文化大革命で永遠に失われていたかも知れない
と思うのだ。

屋上には、北京の役人だか金持ちだかの東屋が移築されている。外の彩色などは、塗り替えられているが、内部には、四隅に巨大な四天王の板彫があつらえたように配置されている。もともと四天王がこの東屋のものだったのか、そうでなかったのかはわからないが。
ちょうど、藤井家の方がおいでになって説明してくださったところによると、有鄰館を作ろうとしているときに、たまたま北京で道路の拡張工事があって、この東屋が取り壊されそうになったので、買わないか、というオファーがあったとのこと。二つ返事で引き取ってみると、最初からそうであったように、屋上に配置するのにぴったりの東屋だったそうだ。
往時の岡崎一帯には、今のように高い建物は少なく、屋上の東屋からは、東山一帯が我が庭のように眺められたであろう。
誠に贅沢な空間なのである。

中央大の妹尾先生が
 京都にはすごいものがありますね
と嘆息されていた。空襲で焼け野原にならなかった京都ならではの文物管理ではある。

館内で一部4000円の図録を求めた。これまた気前のよい図録だった。

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2007-06-09

国際シンポジウム 伝統中国の庭園と生活空間 6/9-6/10@みやこめっせ 第一日目

3月になぜか招待状が届いた国際シンポ
 伝統中国の庭園と生活空間
は参加料25000円という、とっても辛いお値段なのだが、なんとか参加。
体調が今ひとつなので、寝るかと思ったら、内容が面白くて、ほとんど寝る暇がない。(スライドで場内が暗くなったときに一瞬かくっと居眠りするくらい)
主催は京大人文研科学史教室。
田中淡先生の研究班が中心となって企画・運営しているのだが、遅れてついたら、武田先生が中国社会科学院の楊鴻勛先生のパワーポイントの調整をしてあげているところだった。この手の会議の冒頭は、機器の調子が今ひとつだったりする。(遅れたのは、右目が開かなかったから)森村先生の隣の席になる。

いくつか印象に残った発表を紹介する。
 王才強 シンガポール国立大教授 唐長安における日常生活空間(CGによる大胆な長安街区の再現 再現案についての是非は今後発掘調査で問われるとして、長安の生活空間を体感できるのは凄い)
 外村中 人文研客員教授 インド仏教の庭園デザインと古代中国の庭園(7c以前の中国でなぜ方形池が発見されないかについては、魅力的な仮説だが、対象とする文献がそれでいいのかは問題)
 ビアンカ・マリア・リナルディ オーストリア ウイーン農工大学助教 イエズス会士が描いた中国庭園(これぞヨーロッパのシノロジー。丹念にイエズス会の文献に当たり、ヨーロッパの「中国庭園」受容の変遷をたどる)
いや〜、いろいろ勉強になる。明日も、この調子で
 濃い発表が続く
予定。
明日の昼は、藤井有鄰館の見学もある。こうした国際シンポで参観するときは、珍しい物を特別に見せてもらえたりするので、楽しみだ。

使用言語は中国語・英語・日本語。
最初が楊先生の中国語だったが、ネイティブのスピードだったので、耳が慣れるまで聞き取れず。
英語の発表は、日本語訳されたレジュメを見ながら、英語を聞く。(だんだん耳が慣れてくると、できるようになる。中国語の固有名詞は、ピンインになっているし、庭園や歴史関係の専門用語が英訳されると元の中国語がすぐには思い浮かばないので、和訳レジュメをみないと、なんのことだかわからない) 
まだ年若い女性研究者ビアンカ・マリア・リナルディさんは、いかにも新進気鋭。こういう発表は、聞いているのが楽しい。

レセプションはお向かいの京都会館で。
立食でビールなどを傾けつつ、いろいろと議論したり、久闊を叙したり。
明日は九時から。
朝早いので、京都に宿を取る。

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2007-06-06

やるな成都晩報 「天安門事件」意見広告を掲載

一昨日は
 天安門事件18周年
だった。
中文の学生だったわたしには、心のトゲになった事件で、研究室は中国からの留学生が集まり、天安門広場が人民解放軍に制圧されていく様子を映したビデオを、日本人学生と共に固唾を呑んで見守っていた。京大は民主化支持派の拠点校の一つだったから、その後の抗議集会などでは、
 中国共産党の学生スパイ
が跳梁跋扈した。学内デモと雖も、写真を撮られないように、民主化支持の留学生達は気を配らなければならなかった。
その後、北京を訪れたことはあったが、天安門広場に足を踏み入れたのは、やっと去年の9月だった。
 2006-09-30 国慶節前の天安門広場 五星紅旗はためく下に
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2006/09/post_3754.html
17年間、どうしても、中に入れなかったのである。

さて、北京五輪をにらんで
 人権にも気を配る中国
という世界的なメッセージ発信のためか、
 天安門事件の再評価
が始まっているという。
その中で、こんなコトが起きている。
朝日より。


天安門の犠牲者の母、現場に花手向ける 当局、初の黙認
2007年06月05日20時45分

 89年の天安門事件で犠牲になった学生の母親らが、事件後初めて息子が銃弾に倒れた現場に花を手向けて冥福を祈っていたことが5日、香港紙や関係者の話で分かった。

 事件18周年前日の3日深夜、事件で長男を失った丁子霖・人民大学元助教授ら3組の肉親が北京市の復興門外大街を訪れた。現場に花と写真などを供えて子供らの死を悼んだという。

 丁氏ら事件の犠牲者の肉親の一部は、6月4日の前後は当局から外出を制限されてきたが、今回は自宅周辺の監視もなく、当局は初めて現場で弔うことを黙認した形だ。

 一方、四川省成都市では、夕刊紙「成都晩報」の広告ページに4日、丁氏らの活動について「意志を貫く強さに敬意を示す」とする意見広告が掲載された。香港紙によると、広告ページの編集は成都晩報が代理店に外注しており、晩報は「手違い」を強調経緯の調査や当局への説明など対応に追われているという。

民主化勢力による政府転覆はあり得ない、と踏んでいるのか、中国共産党。とりあえず
 害のなさそうな関係者に寛容なところを見せるパフォーマンス
か。
注目すべきは、後半の
 成都晩報に「天安門の母」を讃える広告が掲載された
という部分。
 外注だったから
とか、バックレてるけど、印刷直前に紙面の最終確認はするだろっ。
ま、
 成都晩報GJ!
ってことで。

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2007-04-02

厚労省の医師・歯科医師検索システムは穴だらけ? (その2) 母が「男性」で登録されていました

う〜ん、やっぱり、厚労省の医籍の元データに不備があるようだ。
母上が「男性」として登録されていたという、ある先生の憤慨。つぶれかけのクリニック 75巻2号(No128)スレッドより。


246 :卵の名無しさん :2007/04/02(月) 15:18:01 ID:HMvl/gqu0
あれ、母親の名前で検索したら載っていない?! ちゃんと医師免許証はあるのが。

249 :卵の名無しさん :2007/04/02(月) 15:52:30 ID:ysz06i6f0
>>246
旧姓で検索すれば。

250 :246:2007/04/02(月) 16:06:38 ID:3/SEID4F0
爆笑!

俺の母親が、厚労省に問い合わせたら、「男」で登録されていたって。
いつから、医籍に男として登録されていたのか、本人も憤慨(笑)。

251 :246:2007/04/02(月) 16:07:51 ID:3/SEID4F0
だから、データにどれだけの信憑性があるか分からない。自分のデータも
定期的にチェックする必要があるかも
ね。(笑)

252 :卵の名無しさん :2007/04/02(月) 16:10:04 ID:WtPQk2pwO
↑マジレス、旧姓なのでは?

253 :246:2007/04/02(月) 16:10:51 ID:3/SEID4F0
>>252
マジですよ。親子で大笑い。

255 :246:2007/04/02(月) 16:24:04 ID:ycE6FVd50
>>254
いえいえ、最後が「子」で終わる>60才のお婆ちゃんなのに、男に登録するとは、
厚労省のプログラムにこの程度のチェッカーがないのは不思議
。最後、男女の
集計で分からないものかな?

256 :卵の名無しさん :2007/04/02(月) 16:46:36 ID:Sp9KxM3H0
閉経後は自動的に女からはずされるとか

257 :卵の名無しさん :2007/04/02(月) 16:58:12 ID:Mp5dDZII0
>>256
早く気がついたから良かったけれど、「偽医者を診察に使っている」と患者の
間で噂になったら、厚労省に行政訴訟を起こさなければならないところだよ。

あらま〜、厚労省側の完全な登録ミスですね。
どういうデータ管理をしてるんだか。
257さんのいうように、
 患者が主治医を検索して、ヒットしなかったから疑いをもたれる
なんてことが今後起きないとは限らない。そういえば、知り合いも
 近所のおばあちゃん先生が登録されてないぞ!
と驚いてたけど、まさか医籍が旧姓のままなのかしら。

おまけ。
奈良時代、僧尼名籍から、死亡者の名前を抜かず、制度的には「悪用」されたことがある。
今回の医籍の「物故者がリストから外れない」件について、関係者が
 死んだからといって、医籍からの除籍を届け出るのは、遺族にとって何のメリットもないから、わざわざ手続きはしないだろう
といっていた。そのヒトも亡くなった親族がまだ医籍に載っているのを発見している。
奈良時代の僧尼名籍は、医籍よりももっと使い道があるから、
 聞かれるまでは、知らん振り
だったのかもな。そう簡単にバレるものでもないし。
遵法意識が徹底している近代以降の見方で、古代の制度運用を見ると、たぶん考え違いをするだろうな、と思った次第。
この話の続きは、こちらで。
http://iori3.cocolog-nifty.com/kantokibun/2007/04/post_0041.html

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2007-03-30

縄文人もガンジャをキメる? 土器の底から麻の実

持って回った表現がおかしい。
共同配信の考古記事。


縄文土器の底にアサの果実 秋田・由利本荘の貝塚から

 菖蒲崎貝塚で見つかった縄文土器に付着していたアサの果実(秋田県由利本荘市教育委員会提供)
http://www.kyoto-np.co.jp/static/2007/03/29/P2007032900157.jpg

 秋田県由利本荘市教育委員会は29日、縄文時代早期の菖蒲崎貝塚で出土した縄文土器の底から、炭化した約7600年前のアサの果実10数粒が見つかったと発表した。アサの繊維でできた縄や種子が見つかった例はあるが、アサを加工、利用しようとしている状況が分かる例はなかった。市教委は「縄文時代の植物資源の海外からの導入や栽培、利用を知る上で重要な発見」としている。

 市教委によると、アサは直径約31センチ(推定)の深鉢の中で見つかった。「おこげ」のような状態の炭化物として見つかり、アサの果実と確認された。

 市教委によると、食用に加工したり、果実から油を取った可能性があるほか、アサには毒性があるため祭祀に使われたとも考えられるという。

 アサは日本に自生しておらず、中央アジア原産とみられるが、日本へ伝わったルートはほとんど分かっていない。(共同通信)

いや〜
 アサには毒性があるため祭祀に使われた
って、表現がなかなか。
 毒性
ってずいぶん持って回った言い方ですが。

縄文人が麻を焚いて、ラリパッパの陶酔境で宗教儀礼を行ったかもね、と言いたいのかな?

麻は、繊維としては甚だ優秀な植物であるだけでなく、種、花と葉っぱは薬用として使えるから、伝播は早かったんだろうな。繊維は残りにくいし、種はもっと残らない。
7600年前の縄文人達が、麻を有効利用してたとなると楽しいではないか。

おまけ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/大麻
大麻といえば、思い出すことがある。
1980年代半ばの上海では、留学生宿舎に大麻樹脂を持ち込む中国人がいたとか。ハッシッシで日中友好でもあるまいが。
1989年、天安門事件直前の北京でも、街中の少数民族系食堂の一部には、奥に仕切られた部屋があり、そこでは大麻樹脂を始め、その手のおクスリが売買されているから絶対にそっちの部屋に入るな、と言われていた。見た目は普通の食堂なんだけどね。大体、その手のVIPルームには白人が出入りしていた。表側の食堂部分では、ご近所の庶民や学生、人民解放軍兵士などが普通に食事をしている。とっても変な光景だった。白人は中国語ができない奴が圧倒的に多いので、英語など通じるはずもない、こんな庶民の街にいること自体が珍しかったのだ。食堂のおじちゃんやおねえさんたちとVIPルームの経営者の関係は不明だ。全然、人の種類が違った。VIPルームを管理しているおにいさん達を見かけたことがあるが、目つきが鋭く、あまり関わり合いたくない類の方々だった。
今でも、旅行者の荷物に勝手に麻薬を入れて、旅行者が公安に捕まるという事件は起きているので、一人旅の人はご注意を。中国では、麻薬の国外持ち出しの最高刑は死刑なので、シャレにならない。他人が勝手に入れたにしても、公安があなたの荷物から麻薬の類を見つけたら、即逮捕だし、まず簡単には釈放されない。中国語ができなければ、更にコトは困難を極めるだろう。そうならないためには、旅先でむやみに、身元の不確かな、知らない人と仲良くならないことである。
最近はどうだか知らないが、2000年に貴州大学に行ったとき、突然、どこから聞きつけたのか
 お前は日本人だから金持ちだろう。わたしと一緒に商売しないか。
としつこく迫ってくるおばちゃんがやってきた。幸い、周りにいた大学関係者が追い払ってくれたけれども、向こうから近づいてくる人には、危ない人物も結構いる。慎重になるに越したことはない。

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2007-03-29

N特シルクロード第二部デジタルリマスター版放映中

なにかと評判のいまいちな
 シルクロード第二部
なのだが、現在、深夜にひっそりデジタルリマスター版放映中だ。
国会中継の関係で放映予定が変更になっていて、今日未明が第二回だったのだが、HD録画に失敗した模様。関テレの
 あるあるII捏造問題訂正放送
を15分入れておいたのが敗因。
"Milinda panhaa"(『ミリンダ王の問い』 漢訳は東晋失訳『那先比丘経』大正No.1670)の間抜けな画像で切れちゃった。

これからの放映予定。あくまでも予定であって、変更ありなので、深夜まで気が抜けない。
■シルクロード「秘境ラダック」
 2007年3月29日(木)深夜【金曜午前】0時〜0時52分 総合 放送予定

■シルクロード「玄奘三蔵・天竺の旅」
 2007年3月30日(金)深夜【土曜午前】0時〜0時52分 総合 放送予定

■シルクロード「炎熱・イラン南道」
 2007年3月31日(土)深夜【日曜午前】1時〜1時52分 総合 放送予定

■シルクロード「砂漠とコーラン」
 2007年4月1日(日)深夜【月曜午前】1時25分〜2時17分 総合 放送予定

■シルクロード「バグダッドの彼方へ」
 2007年4月2日(月)深夜【火曜午前】1時5分〜1時57分 総合 放送予定

■シルクロード「湖底に消えた道 〜幻のイシククル湖に潜る〜」
 2007年4月3日(火)深夜【水曜午前】1時10分〜2時2分 総合 放送予定

■シルクロード「大草原をゆく」
 2007年4月4日(水)深夜【木曜午前】1時5分〜1時57分 総合 放送予定

■シルクロード「はるかなる大宛 〜天馬を求めて〜」
 2007年4月5日(木)深夜【金曜午前】1時5分〜1時57分 総合 放送予定

■シルクロード「消えた隊商の民 〜ソグド商人を探す〜」
 2007年4月6日(金)深夜【土曜午前】2時10分〜3時2分 総合 放送予定

■シルクロード「草原の王都 〜サマルカンド・ブハラ〜」
 2007年4月7日(土)深夜【日曜午前】1時10分〜2時2分 総合 放送予定

■シルクロード「灼熱・黒砂漠 〜さいはての仏を求めて〜」
 2007年4月9日(月)深夜【火曜午前】1時5分〜1時57分 総合 放送予定

■シルクロード「絹と十字架 〜コーカサスを越えて〜」
 2007年4月10日(火)深夜【水曜午前】1時5分〜1時57分 総合 放送予定

■シルクロード「キャラバンは西へ 〜再現・古代隊商の旅〜」
 2007年4月11日(水)深夜【木曜午前】1時5分〜1時57分 総合 放送予定

■シルクロード「騎馬の道はるか」
 2007年4月12日(木)深夜【金曜午前】1時5分〜1時57分 総合 放送予定

■シルクロード「アジアの果て 絹の町」
 2007年4月13日(金)深夜【土曜午前】1時10分〜2時2分 総合 放送予定

■シルクロード「すべての道はローマに通ず」
 2007年4月14日(土)深夜【日曜午前】1時40分〜2時32分 総合 放送予定

この中でトンデモ系は
 「消えた隊商の民 〜ソグド商人を探す〜」
だ。とにかく笑えた回だったのを覚えている。

おまけ。
本当にソグドに興味のある人は次の研究会へGO!だ。


ソグド文化研究会
日 時:2007年3月30日(金),午前10時〜午後4時
会 場:天理大学文学部
話題提供:榮新江氏(北京大学中国古代史研究中心),羅 豊氏(寧夏文物考古研究所)
-----------------------------------------------------------------------
日 時:2007年4月3日(火),午前10時〜午後4時
会 場:滋賀県立大学
話題提供:林梅村氏(北京大学考古文博学院),衛 忠氏(寧夏文物局)

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2007-03-05

高松塚古墳解体 天井石に新たな亀裂発見 解体途中で崩壊の危機

前々から言ってる
2006-04-18 高松塚・キトラ古墳保存問題 渡邊座長辞任で済む話ではない (その3) 終末に至る「終末期古墳 高松塚」
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2006/04/3__909d.html
のだが
 高松塚古墳の解体が失敗しても、特に天井石が砕け散っても、許してあげてほしい
のだ。だって
 高松塚古墳の石室は1300年以上を経た、二上山凝灰岩という極めて脆い石でできている
のだから。しかも
 高松塚を解体しよう
と言い出したのは文化庁で、現場は尻ぬぐいをさせられているだけなのだ。そうでなくても
 過去の失政のツケで高松塚古墳壁画が損傷
した上に、
 うまくできて当然、失敗したら非難の囂々
という立場に立たされる
 解体実行班の士気ははなはだ上がりにくい状況
である。中には
 なんで自分たちが上司たちの長年にわたるミスの責任を負わなくてはいけないのだ
と、自らの運命を呪っているヒトがいてもおかしくはない。

いままで解体実験は
 新しく切り出した凝灰岩
でやってきた。確かに、内部から見て取れる亀裂などを再現して何度もシミュレーションを行ってるのだけれども、
 相手はもっと古く、もっと脆く、もっと傷だらけで、かつ1300年にわたって版築された墳丘に押しつけられていた凝灰岩
なのだ。何が起きてもおかしくない。シミュレーションに使った凝灰岩には、そうしたストレスは全くかかってないからね。
だいたい
 天井石が砕け散っても、それは「経年劣化」のなせる技
なので、
 現代の技術が及ばなくても致し方ない
と思っている。

さて、案の定
 天井石に新たな亀裂発見
だそうだ。ま、
 天井石を外そうとしたら、かなりの確率で壊れるだろう
と思ってるから、わたしは驚かない。驚いてるのは
 高松塚の石室の状態を「切り出したばかりの凝灰岩と変わらない」と信じているマスコミ
の方だ。アホですか。
共同通信からにするかね。


高松塚の天井石姿現す 1枚小さく2枚に亀裂

 高松塚古墳の発掘調査で、初めて姿を現した石室の天井石。十字状に見えるのは墳丘の土層を残したもの=5日、奈良県明日香村(代表撮影)
http://www.kyoto-np.co.jp/static/2007/03/05/P2007030500082.jpg

 石室解体に向け発掘調査が進む奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)で、4枚ある石室の天井石が築造から約1300年を経て初めて姿を現し、文化庁が5日、発表した。

 表面は平らで風化もなく、状態は良かったが、4枚のうち北端の1枚がほかの石より1回り小さかった。Tkk1別の2枚で新たに亀裂Tkk4
が見つかった。

 予想外の状況で、解体時に固定する器具の改良や、方法の見直しが必要になる。担当する奈良文化財研究所の肥塚隆保室長は「深刻な事態。ほかに亀裂が見つかってもおかしくない。全容が分かった段階で対応を考えたい」としている。

 天井石は4枚合わせた南北の長さが3・85メートル。南から3枚は東西幅約1・8メートル、厚さ0・6メートル前後で、北端の1枚だけ東西幅1・6メートル、厚さ0・45メートルだった。北端の1枚は、石室内側からの調査で小さいと考えられていたが、南北の長さは想定より0・3メートル以上長く、約1メートルあった。(共同通信)

痛々しい亀裂の状況。時事通信より。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070305-05070532-jijp-soci.view-001

ま〜、肥塚室長が本当に
 予想外
と思ってるかどうかは謎。考古学的に普通に考えると
 想定の範囲内だが、文化庁の予算外
というあたりかな〜。文化庁は、
 わからないものには予算はつけない
からね。

続き。毎日より。


<高松塚古墳>天井石側面に新たな亀裂…関係者に衝撃
3月5日21時28分配信 毎日新聞

 「解体方法を再検討せざるを得ない」——。ついにその姿の一部を見せた高松塚古墳(奈良県明日香村)の石室。だが、天井石側面で新たな亀裂が見つかり、関係者に衝撃が走った。鉄製用具で挟んで持ち上げる計画だが、亀裂のある面は挟めず、力の入れ具合では亀裂が拡大する恐れもあるという。北端の天井石は想定より小さくて薄いことも判明した。用具の作り直しは必至。待ったなしの解体はうまくいくのか。
 新たな亀裂について、解体作業を担当する高妻洋成・奈良文化財研究所主任研究員は、「石室内では、南から2番目の石は西から鉄分を含んだ黒いしみが直線状に延び、3番目の石の隅は割れていた。石の外側にも延びたら怖いと思っていたが、まさか現実になるとは」とショックを隠せない。
 3番目の石の亀裂は北東隅に近い位置にある。解体作業を担う左野勝司・飛鳥建設社長は「縦、横どちらの方向で挟んでも、隅の部分が取れてしまう恐れがある。隅の部分だけ特別に挟む方法を考えないと」と話した。
 横幅が想定より約20センチ短かった北端の天井石も頭痛の種だ。Tkk2
横幅が短すぎると挟む力が弱くなるといい、作業責任者の肥塚隆保・同研究所保存修復科学研究室長は「準備していた用具では使い物にならない」と話す。Tkk3用具の作り直しには約1カ月かかるが、左野社長は「時期を延ばすと、(カビなどが増殖する)気温が高い季節になる」と思案する。
 「無事に石室をすべて露出させることができるか心配だ」と話すのは、発掘担当の松村恵司・同研究所考古第1研究室長。掘り進めるにつれて、石室自体が倒壊する恐れもあると指摘。「石室をつっかえ棒で支えることも考えないと」と、頭を抱える。【大森顕浩】

 ◇石室北端の天井石のなぞ
 石室北端の天井石は、他の三つの石と比べ小さくて薄かった。「何かの転用材?」「運んできた石が小さすぎたのか」。それとも「設計上のミス?」——。関係者は首をひねる。
 北端の石は検出された長さが南北約1メートル、東西の幅は約1.6メートル。他の三つの石に比べて東西幅が約20センチ小さく、厚さも約15センチ薄い。一方、石室内部の寸法から考えると、南北の長さはもっと短くても足り、天井石が北壁からさらに北へ突き出ている可能性もあるという。ちぐはぐな石について、発掘を担当する奈良県立橿原考古学研究所の岡林孝作・主任研究員は「現場と石切り場の連絡ミスがあったのでは」と指摘する。
 一方「三つの石で天井を造るつもりだったのでは」と推測するのは、奈良文化財研究所の松村恵司・考古第1研究室長。南から1番目の石の継ぎ目部分に残されたノミの削り跡が他の石と比べて粗いことに注目し、「石室の組み上げ作業中に、1番目と2番目の石との組み合わせ部分が破損する事故があり、急きょ4番目の石が必要になったのではないか」と話す。【林由紀子】

最終更新:3月5日21時28分

ま〜、普通に考えて、これまでの想定が甘かっただけのことで、1300年も経ってれば、何でも起こりますとも。
しかし、本当に松村室長、頭を抱えてるんだとしたら、わたしの方が頭を抱えるけどな。まさかなあ。

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Nスペ 歌麿 紫の謎@3/4 21:00-21:50 NHK総合

浮世絵が題材のNスペということは
 NHKエデュケーショナル制作だとアウトだな
と思ったら、案の定エデュケの制作で、
 おいしいものをまずく料理する編集の典型
でがっかりした。
 NHKスペシャル 歌麿 紫の謎
http://www.nhk.or.jp/special/onair/070304.html
 NHKエデュケーショナル
http://www.nhk-ed.co.jp/

エデュケは、NHK本体からの出向と自前の採用でスタッフを形成しているが、最近の本体からの出向組は片道切符で、本体に戻してもらえない、という話を聞いている。そのせいなのか、非常に士気の低い番組で、エデュケのダメっぷりを晒している。

話の軸は三つ。
1. ボストン美術館秘蔵のスポルディングコレクションで、高精細のデジタルアーカイブを作成中。これまで褪色していて、確認できなかった、鮮やかな本来の色彩を目の当たりにする
2. 本来の色彩による作品(ただし木版。肉筆ではない)を見直すと、これまで色が飛んでしまってわからなかった「歌麿の紫」が全面的に出てきた
3. 「歌麿の紫」は「藍+紅(呉藍)」の「二藍」ではなく、「青花+紅」による紫で、青花を使うと発色は鮮やかだが、褪色が早期に進んだ

なんか変なのは2〜3の検証部分。まず
 木版の浮世絵は褪色した作品で評価を余儀なくされている
というのは常識なので、
 保存状態のよい作品が発見されると、それまでの作品観は変化する
といっても、そもそも
 「原作とは違う色」という保留付きで作品論があるのが浮世絵
なので、そのあたりを知っていると、実に気味の悪い編集になっている。てか、浮世絵論やるひとはエクスキューズとして
 現在残っている作品では、発表当時の色彩はわからないが
と必ず一言添えるはずなので、
 浮世絵のプロの作品観が変わる
としたら、変じゃないの? 油絵の洗浄とはちょっと事情が違うだろう。
編集の方向が
 新たな発見
に向いちゃってるから、そういうことになる。むしろ
 歌麿の豊かな色彩の再発見
くらいにしておけば、更に話がふくらんだものを。なんだか
 NHKが初めて公開します
みたいな、意味のないPDやCPの功名心が、せっかくの上質の素材を台無しにしている。
それと、
 二藍じゃなくて、青花+紅の紫
を選択したのは
 本当に歌麿
なのか? 木版浮世絵は
 絵師
 彫師
 摺師
の分業によって成立している。歌麿はあくまで絵師であって、木版画としての製品は
 絵師の肉筆のタッチを創意工夫によって版画に反映させようとする彫師の彫刻刀の冴え

 摺り切れないほど細い線を彫られても、忠実に紙の上に摺り出す摺師の意地
とがせめぎ合う職人技の世界だ。果たして
 絵師に摺り色の指定権があったのかどうか
は、わからない。確かに
 摺られた作品は青花+紅
だけど、浮世絵は版元あっての作品。普通は版元指定だと思うけどどうなのか? 番組ではあたかも
 歌麿が青花+紅の色指定をした
ことになってるけどね〜。今でも
 印刷物の色指定は編集者の仕事
なんですが、そこまで歌麿が容喙できたのか? 謎。どうも
 歌麿の作品
という言葉の解釈を間違ってるように思うんですが。

で、
 歌麿の紫の検証
も、せっかく
 団十郎に「助六の鉢巻き」の「江戸紫」
について語らせながら、全然実証的でない。団十郎が
 江戸時代は芝居小屋が暗かった
と言ってるのだから、江戸時代の芝居小屋といえば、讃岐の金比羅さんに現存する
 旧金比羅大芝居
にでも行って
 江戸時代の照明下で「江戸紫」の効果を再現する
くらいはできたはず。まったく説得力がなく、つまらなかった。

本当に
 歌麿の紫を再現したい
とは思ってない編集で、話になりませんね。

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2007-02-28

東洋文庫「シルクロードの新出土文書:トルファン新出土文書の整理と研究」@3/2 14:30-16:30 忙しい一週間

急に東京出張が決定。明後日はまた上京。東洋文庫へ栄新江さんの講演を聴きに行く。


2006年度第5回特別講演会

 会 場: 東洋文庫 3階 講演室
 日 時: 3月2日(金)14:30〜16:30

「シルクロードの新出土文書:トルファン新出土文書の整理と研究」

(中国語)
北京大学 中古史研究センター教授  栄 新江氏

司会:斯波義信・東洋文庫理事長

通訳:西村陽子氏・中央大学大学院博士課程後期


聴講は無料です。どなたでもご参加ください。

東洋文庫はこちら。
http://www.toyo-bunko.or.jp/news/TBmap.html

これは、中国仏教および日本古代仏教研究者は必聴の講演である。

石塚晴通先生とも、その場でお会いする予定。昨夜、お電話をいただいた。どうも不在中、毎晩お電話をくださっていた様子。申し訳ない。石山寺一切経のこととか、各種密談。

さて、新幹線どうするかな〜。チケット買っておくか。

問題は、洗濯物が溜まっている件。これからは雨が降らない様子なので、さっさと片付けようかな。花粉と戦いつつ、洗濯物を干そうか。

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2007-02-27

あなたの誕生艦は?

宝石屋の陰謀である誕生石や、花屋の陰謀かも知れない誕生花に比べれば、なんとすがすがしい、
 今日の誕生艦
http://bohshi.fc2web.com/birthday.html
日本艦を中心に、進水式の日付を博捜、併せて外国艦で補訂してあるという労作だ。
 2月29日以外は判明
という。
作ってくださった某氏に感謝。

さあ、あなたの誕生艦はどの艦だ?
亡くなった父方の祖父の誕生艦はあろうことか
 戦艦ミズーリ(現在、ハワイ州オアフ島パールハーバーに繋留中。重光葵が降伏文書に署名した甲板の該当箇所にはいまも「シゲミツプレート」が置かれている)
だった。おじいちゃん、がっかりしてないだろうな〜。

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2007-02-11

飛鳥京跡第157 次(橿考研)・甘樫丘東麓遺跡(奈文研)現説@2/11 12:00-16:00 明日香村

飛鳥京第157<br />
 次・甘樫丘東麓遺
写真は甘樫丘東麓遺跡の第3期層から出てきた滑石製の子持ち勾玉と漆布。工房があったと見られる。

続き。以下の写真はクリックすると拡大します。
いつもながらのことなのだが、飛鳥の現説は人出が半端ではない。
第一回目の現説に間に合うように、大勢の人が押しかけるのが通例で、そのために現説開始時間が繰り上がったりするのもよくある。
最近は、取材チームに知り合いがいないので、早出はしない。今日は2時台の現説をめがけて出かけた。

橿原神宮駅東口から臨時バスが出ている。
今日は建国記念日で、橿原神宮は別な意味で大盛り上がりの筈。午後の東口は閑散としていた。雨が落ちてくる。
臨時バスは、甘樫丘東麓遺跡の現説を通り過ぎて、飛鳥のバス停に着く。見た感じ、えらく混んでいそうなので、先に飛鳥京跡第157次の方に回る。雨は強くなった。

それでも
 一杯のお運びで
という状況。
As1
遺跡の北側の遺構写真は、結局いい状態では撮れなかった。南側の石組遺構を撮ろうと思ったら、少し前の方にいかなくてはいけないので、今回は北側の撮影を諦める。順次、歩きながら出て行く形になるので、先の方に行ってしまうと戻れない。
見えている斜行溝は、飛鳥寺の方位の振れ幅と合致しているとか。飛鳥京跡の方は正方位で設計されているので、プランが違うのがはっきりわかる。ま、正方位は天武期らしいといえばその通りだ。

As2飛鳥京の北限か、と思われる東西方向の石組み溝。ただし、石組み溝の南側に塀が未だ検出されてない。
塀がない、ということは、宮は囲まれていたと考えられてるので、ちょっと変。まだ北限かどうかは確定しない、ってところか。

続いて、甘樫丘東麓遺跡に向かう。
谷の東半分を整地して、一段高く造成、その法面に石垣を組んでいる。
Am1
見た目、川原石かな?
この時期が
 蘇我氏の邸宅があった時期ではないか
と言われている訳。

その後、谷の残る西半分にも土を盛った。かなり土を入れ、石垣は完全に埋まる。
総柱建物が二棟あり、倉庫か高床の建物か謎。
こないだの大嘘Nスペ「大化の改新」ネタで
 武器庫か
とか言い切ってたのが、この総柱建物なんだけど、今のところ
 武器の痕跡はない
そうだ。ま、武器は一斉に移動しちゃうことがあるから、出てこないから武器庫ではないとはいえないけど、武器庫だったという証拠もやはりない。
Am2
写真はこの時期に作られた石敷きの様子。雛壇のように段差がもうけられていて、段差の部分には石を立てて貼ってあるのがよくわかる。

第3期が、工房跡と思われる遺構が出ている時期で、藤原宮期。
炉が四つ出てきていて、その内二つには送風口が残っている。何を加工していたかは不明。
漆を盛った土器や漆布なども出土している。
加工前の水晶や、子持ち勾玉も出てきているので、鉄工・玉作・塗師など多岐にわたる工房跡か?

甘樫丘まで行くと、雨は止んだ。ちょうど、雨を降らす黒雲がわずかな範囲にだけあった状態で、変な天気だった。傘の用意のない人はかなり濡れ、気の毒だった。

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2007-02-09

安倍ちゃんの「美しい国」は日本の文化破壊国家か 文化財研究所と国立博物館を統合

何でも統合して効率化すればいいというものではなかろう。
前々から噂されていたことだが
 文化財研究所と国立博物館を統合
するのだという。
朝日より。


国立博物館と文化財研究所、4月に統合 政府が閣議決定

2007年02月09日09時51分
 政府は9日、独立行政法人国立博物館法の一部を改正する法案を閣議決定した。

 この決定により、4月1日付で、国立博物館と文化財研究所の2法人が統合され、新たに独立行政法人国立文化財機構が誕生する。

 国立博物館は、東京、奈良、京都、九州(福岡市)の4国立博物館、文化財研究所は東京、奈良の2研究所からなる。

 いずれも文化財の保存・活用を目的としていることから、経営効率などを高めるため、05年、総務省の政策評価・独立行政法人評価委員会によって統合が勧告された。

 しかし、その後、文化人らによって「効率性追求による文化芸術の衰退を危惧する」と、反対運動が起きていた。

文化財の保存保護を目的としている、といっても、国立博物館と文化財研究所とでは、やってることが違う。問題は
 収益の上がるような事業を立ち上げにくい文化財研究所を潰すのか
という点だ。
奈文研でも、遺跡発掘調査だけではなく、別働隊を作って、事業とのリンクをはかっているようだが、本体業務に益するほどの収益を上げら