2008-07-08

拝受 渡辺晃宏(代表)『推論機能を有する木簡など出土文字資料の文字自動認識システムの開発』(平成15-19年度科研費基盤(S)成果報告書・『奈良文化財研究所紀要2008』・市大樹「慶州月城垓字出土の四面墨書木簡」

著者の市大樹さんから頂く。ありがとうございました。
 ・渡辺晃宏(代表)『推論機能を有する木簡など出土文字資料の文字自動認識システムの開発』(平成15-19年度科研費基盤(S)成果報告書
は、奈文研が中心となって取り組んでいた、木簡釈読のためのデータベース解析研究についての分厚い報告書。全部で300ページを越える。
 ・『奈良文化財研究所紀要2008』
は、6月に出たばかりの奈文研紀要の新刊。冒頭にカラー口絵、前半が研究報告、後半が発掘報告。発掘報告の地図や測量図は二色刷りで見やすい。
・市大樹「慶州月城垓字出土の四面墨書木簡」(奈良文化財研究所・大韓民国国立文化財研究所『日韓文化財論集I』奈良文化財研究所学報77所収)
は、慶州の四面墨書木簡(149号木簡)を、日中の資料を援用して読みを確定し、木簡の性格を明らかにした論考。とても面白い。

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2008-06-23

藤原京跡出土木簡から藤原不比等邸を示す記述発見→NHKと朝日は取材に行けよ

今のところ、読売が報じている。


藤原京跡で不比等示す木簡、邸宅の存在裏付け

木簡の出土場所

 奈良県橿原市の藤原京(694~710年)跡で出土した木簡に、右大臣を意味する「右大殿(みぎのおおとの)」との文字が書かれていたことが奈良文化財研究所の調査で分かった。

 当時の有力政治家、藤原不比等(ふひと)(659~720年)とみられる。藤原京内で不比等にかかわる木簡が見つかったのは初めて

 木簡は縦24・1センチ、横2・5センチ。同研究所が1979~80年に行った発掘調査で、藤原京の中にある藤原宮の12の門のうち、東側の一番北にある門跡近くの溝から出土した。

 同研究所の市大樹(いちひろき)・主任研究員が赤外線写真で分析した結果、「右大殿荷八」と書かれていることが判明。宮内から、右大臣邸に八つの荷物を運ぶ際、門で外された荷札とみられる。

 荷物を運び出す際には、邸に近い門を使用したと考えられることから、不比等邸が藤原宮の東か北東にあったと推定できる。平安時代の文献に、不比等邸を「城東第」と記され、宮の東にあったとしていることを裏付けるという。

 不比等は日本最初の法典・大宝律令制定を主導し、平城遷都を進めた。

(2008年6月23日14時35分 読売新聞)

関西版が詳しい。木簡の写真入りだ。


藤原京跡から「不比等」示す木簡、邸宅の存在裏付け

「右大殿荷八」と書かれた木簡の赤外線写真=奈良文化財研究所提供

 奈良県橿原市の藤原京(694~710年)跡で、宮の北東にあった門付近から出土した木簡に、右大臣を意味する「右大殿(みぎのおおとの)」と書かれていたことが判明、藤原不比等(ふひと)(659~720)を指す可能性が高いことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。藤原京内で不比等にかかわる木簡が見つかったのは初めて。門に近い宮の東側か北東側にその邸宅があったことを示す物証となり、謎の多い古代の実力政治家の実像を探るうえで貴重な資料となる。

 木簡は縦24・1センチ、横2・5センチ。1979~80年に行った発掘調査で、藤原宮の12の門のうち、東側の一番北にある門跡近くの溝から出土した。

 当時は「大殿」の文字しか読めなかったが、市(いち)大(ひろ)樹(き)・同研究所主任研究員が赤外線写真で分析した結果、「右大殿荷八」と書かれていることが判明。宮内から、右大臣邸に八つの荷物を運ぶ際、門で外された荷札とみられる。同じ溝から、不比等が右大臣に任命された「和銅元年(708年)」の年号が入った木簡が出土しており、「右大殿」が不比等を示す可能性が高いと判断した。

 荷物を運び出す際には、邸に近い門を使用したと考えられることから、その邸宅が藤原宮の東か北東にあったと推定でき、平安時代の文献で不比等邸を「城東第」と記し宮の東にあったとしていることを裏付けるという。

 不比等は日本最初の法典・大宝律令制定を主導、平城遷都を進めた。平城京(710~784)では不比等邸の跡地にある法華寺の門前付近で「右大殿」と書かれた木簡が調査で見つかっているが、藤原京では不比等に関する木簡は出土していなかった

 千田稔・立命館大客員教授(歴史地理学)の話「右大臣になった年の木簡が出ており、間違いなく不比等にかかわるものだろう。宮の東側の調査が行われれば、新たな発見が期待できる」

(2008年6月23日 読売新聞)

というわけで、
 以前出土した木簡を再検討したら、「右大殿」の文字が出てきた
のが、今回の発見だ。
この間の
 所謂『万葉集』木簡
もそうだったけど、
 以前出土した木簡の再検討で、新たな発見
が生まれている。

さて、NHKのニュースを待つかな〜。

と、思ったら、ちょっとしたネタが入って、
 朝日とNHKが奈文研に取材に行ってない
らしいぞ〜。
 不比等邸を示す木簡
というと、相当でかい歴史ネタなんですが。ダメじゃん、朝日とNHK。
 木簡なら絵も撮れる、おいしい歴史ネタ
なのに。朝日は小滝ちひろ編集委員が月曜だから遅出なのか? NHK奈良局は久保記者とか稲垣記者の担当じゃないの? 最近「ならナビ」ちゃんと見てないから、誰が古代史担当かチェックしてないんだけど、少なくとも
 奈良やまと路報道室の担当記者
の持ち場だろう。
ちなみに
 読売が抜いたネタ
だそうで、報告書を丹念に読んで記事にしたパターンだそうだ。大阪読売の文化部、エライじゃん。
NHKも朝日も取材に行けよ〜。
毎日は当然ながら、橿原以南は
 「大淀病院産婦死亡事例」第一報の林由紀子記者が担当
だよな。

で、結局NHK奈良は
 大安寺の笹酒でがん封じ
という、
 定例暇ネタ(毎年1月と6月23日の行事)がトップニュース
だった。今は研修期間で記者がいないとか、かね。
ま、記者リポートでも何でもいいから今後フォローを宜しく。

ちなみに今回もそうなんだけど
 活字の刊行物の論文からネタを拾う
のは、関西各メディアがやるんだけど、NHK奈良はかなり遅い。こないだ各紙とNHK奈良は、しばらく
 『正倉院紀要』の新刊ネタ
をバラバラにやっていた。
『正倉院紀要』はここからダウンロードできる。
正倉院紀要閲覧
で、ニュースネタに使われていたのは、
・第30号 正倉院宝物の螺鈿技法に関する知見について(北村昭斎)Kitamura

・第30号 正倉院「厚朴」の原植物について-正倉院薬物材質調査補遺-(柴田承二・米田該典)Shibata・Yoneda
についてで、媒体によって取り上げる速度に遅速があった。一番遅かったのがNHK奈良かな。各紙の記事も、書いた記者の腕力が一目瞭然で、こうやってリポジトリで成果が公表される時代に、果たして
 新聞やテレビニュースが、正しい歴史関連ニュースを報道できるのかどうか
は、ニュースの受け手が簡単に検証できるようになってきている。前は
 報道発表資料と会見での質疑に基づいて記事を書く
ことが多かったが、いまはPDFで報道発表資料を公開している研究所や教育委員会が増えてきたからね。
大学などの機関のリポジトリ一覧は以下に。
国内の機関リポジトリ一覧
各機関にリンクされているので便利。このリストには正倉院事務所は含まれていない。

(追記 6/24 12:00)
その後の後追い状況。
共同通信 2008/06/23 20:54
不比等あての木簡か 藤原京、右大臣示す

産経新聞 2008.6.23 21:50
藤原宮跡で藤原不比等にあてた木簡発見

23日中には毎日・朝日・NHKは報道せず。

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2008-06-22

「3の倍数ではアホになります」九九の計算間違いが書かれた1200年前の木簡が発掘・発見される@兵庫県豊岡市

この話は、本命は
 詩経の注釈書である『毛詩正義』(これが正しいかどうかは別に検討する)
の書かれた木簡が見つかった、というところなんだけど、掲示板を見ていたら、あまりにも面白かったので、
 三九廿四
と書いた計算間違いを1200年も経って、見つかってしまった、名もなきかわいそうな下級役人の話をメインにする。
そもそもは、こんな話。
毎日より。


詩経:注釈の木簡、兵庫祢布ケ森遺跡で出土…9世紀初め

 兵庫県豊岡市教委は20日、律令制下の役所の一つ、但馬国府跡とされる同市日高町の祢布(にょう)ケ森遺跡から、中国の四書五経のひとつ「詩経」の注釈を記した9世紀初め(810年前後)の木簡が国内で初めて出土した、と発表した。詩経の注釈書は官吏養成機関のテキストで木簡に書き写して勉強したらしい。9世紀前半は漢詩集が次々に編さんされた時代で、平安京での漢詩の流行が地方にも及んだことを示す貴重な史料となりそうだ。

 203点の木簡の中から見つかった。食器などを載せる底板(縦39.5センチ、横10.9センチ、厚さ7ミリ)に、墨書で「淒(せい)寒風也谷風曰東風健児長」(寒風はすさまじく、万物を成長させる谷風は春風)などと書かれていた。

 「淒寒風也」は「淒其以風」(いたみ悲しみつつ亡き妻の霊を降ろす)。「谷風曰東風」は「習習谷風以陰以雨」(さわさわと柔らかな春風が吹き、雲は立ちこめ雨をもたらす)の注釈という。「健児長」は該当する詩が見当たらず、軍事組織である健児(こんでい)や、木簡の著者と考えられるという。裏面には、中国の古典に著れる「君子」と書かれていた。

 当時の役人は、教養を高めるため文字や計算の勉強を重ねた。多数出土した木簡の中には、九九を記したものもあり「三九廿四(さんくにじゅうし)」と、うっかりした間違いもあった。

 木簡の一部は21日~7月8日(水曜休館)、但馬国府・国分寺館(0796・42・6111)で公開される。【小園長治】

【ことば】詩経

 中国最古の詩集で、儒教の教典・四書五経の一つ。西周初期(紀元前11世紀)から春秋時代中期(紀元前6世紀)ごろに黄河の流域を中心に各地で歌われた作品を収めたとされる。305編からなり、地方の民謡を集めた「風(ふう)」、宮廷の宴会で歌われた「雅(が)」、祖先をうやまう「頌(しょう)」に分類される。

毎日新聞 2008年6月20日 21時36分(最終更新 6月21日 15時16分)

で、この
 計算間違い木簡
に突っ込んでいるのが神戸新聞の記事。


平安人は勉強家? 九九を何度も練習 豊岡の木簡

 兵庫県豊岡市日高町の祢布ケ森遺跡で大量出土した木簡の中には、九九の練習で計算間違いをしているものがあった。調査した豊岡市教委は「当時の官吏の人間味が感じられる」と話している。
 木簡は勉強するとき、現代のノートのようにも使用していたという。間違いが見つかった木簡は長さ三一・六センチ、幅二・九センチの細長い形で、裏面に九九を記していた。
 現代とは逆に大きい数の九九から始め、六九から四九までを飛ばした後、「三九廿四(さんくにじゅうし)」と間違えている
 見つかった二百三点の大半は、この木簡のように文字や計算を練習した跡だった。
 表面を削って再利用できるが、木片も多く確認されており、繰り返し勉強した様子がうかがえる。
 九九が書かれた同時期の木簡は他にも例があり、今回も計三点出土。解読した奈良文化財研究所は「官吏が一生懸命活動していたことを示す史料」としている。(上杉順子)
(6/21 08:48)

ま、よくある計算間違いなんだけど、1200年後に見つかって
 きゃ〜、計算間違いだ
なんて、こんなに大々的に報道されるとは思ってなかっただろう。

掲示板の突っ込みもなかなか笑える。
【考古】「三九廿四(さんくにじゅうし)」 大量出土した木簡の中に九九の練習の跡 でも計算間違い 兵庫・豊岡祢布ケ森遺跡スレッドより。


12 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:25:16 ID:b0C0JOPc0
俺らってやっぱ昔から馬鹿だったんだな……。
つか、公務員かよ。ますます困った俺らだな。

>>8
ものすごく難しかったのか。それなら九九を間違えるのも無理はない。

13 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:25:31 ID:bA3u1nhi0
「時代(とき)を超えた恥さらし」

ここまでスケールが大きいと、むしろ俺もやってみたいと思えてくる。

14 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:25:54 ID:z8xgCaMO0
失態が保管されるという

15 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:26:10 ID:REV7AhLWO
ゆとり?

22 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:27:23 ID:KoI0t8pk0
昔から公務員はバカ

と言う正しい出土品ですね。

27 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:28:41 ID:FX8ZTfvJ0
こんな気の長い釣りは中々見ないな

57 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:34:51 ID:FqYkHNiM0
>>27
だよな
これは釣りだろ

29 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:29:13 ID:USVz6uJt0
アピカ1000年ペーパーより木簡か

34 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:30:17 ID:d9CBA/gXO
九九ができなくても役人になれた時代
大阪府職員には、今でもいそうだ。

36 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:30:43 ID:3KXcQbhT0
しかし、こいつは計算ミスで租税を多く取り立て
出世したかもしれない。

42 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:31:44 ID:ZIc9WgNIO
ヒント:3の倍数

50 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:33:02 ID:dtP7QPXwO
3の倍数だからアホになったんだな

51 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:33:15 ID:a75Dp/Qx0
あの頃から
ゆとり世代だもんな

65 :名無しさん@全板トナメ参戦中:2008/06/21(土) 20:38:22 ID:aKT9AhY6O

九九自体は単なる暗記だから
「計算間違い」というのは違和感がある


とにかくこの木簡により3の倍数でアホになるのは
日本の伝統芸能だと立証された

世界のナベアツのご先祖様か?

墨というのは実に優秀で、木簡から見えなくなっていても、赤外線を当てると、うっすらと文字が読めたりする。
現物を見てないから、何とも言えないが、神戸新聞の記事通りだとすると
 九九八十一、八九七十二、七九六十三、三九廿四
と書いてあったようですな。

前にも書いたことがあるけど、わたしの京大の同級生は
 五の段までしか九九が覚えられなかったけど、現役合格した
という剛の者だった。彼女は、
 五の段以上は、足し算で対応
していた。計算間違いは絶対にしない、と豪語していたが
 足し算に時間が掛かるので、時間が足りれば数学は満点だけど、そうでないとその分点数が減っちゃう
という、優秀なのだが、ちょっと変わった子だった。電卓がある現代では、九九の暗算が出来なくても、そんなに困らないけど、平安時代の但馬国国府では、九九は必須だっただろうなあ。

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2008-05-31

奈文研図化室に眠る往年の名機達

奈文研のあかねださんのblog「寧楽の手向に」の記事
子曰く、故きを温ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし
が凄い。
奈文研の図化室に眠る
 往年の名機の数々
が、手際よく紹介されている。この手のマシン好きの人は必見。

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2008-05-24

「難波津の歌」と『万葉集』収録歌が裏表に記された木簡見つかる@紫香楽宮跡(滋賀県甲賀市信楽)

やはり
 木簡としては薄すぎるのが問題
だ。

木曜日は少し夜遅く帰ってきたのだが、
 紫香楽宮跡と推定される滋賀県甲賀市信楽の宮町遺跡から出土した木簡の裏表に「歌」が書いてある
のが、大きなニュースになっていた。昨日の大阪本社版朝日の朝刊では一面トップの扱いだ。


万葉集成立前?に万葉集収録の歌を書いた木簡が出土
2008年05月22日

 滋賀県甲賀市教委は22日、奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる同市信楽町の宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、国内最古の歌集の万葉集の歌が書かれた木簡が見つかったと発表した。万葉集収録の歌が木簡で確認されたのは初めて。出土した他の木簡に記載された年号から、この歌が収められた万葉集16巻の成立(750年前後)より数年から十数年前に墨で書かれたとみられる。
 
万葉集の歌などが記された木簡=滋賀県甲賀市、諫山卓弥撮影
  
 木簡は上下二つに分かれて出土し、上部は長さ7.9センチ、下部は14センチ、いずれも幅2.2センチ、厚さ1ミリ。上部の片側には漢字1字で1音を表記する万葉仮名で「阿佐可夜(あさかや)」、下部には「流夜真(るやま)」と書かれている。万葉集16巻には、陸奥国に派遣された葛城王をもてなした前(さき)の采女(うねめ)(元の女官)が、王の心を解きほぐすため宴席で詠んだ「安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」が収録されている。

 反対側の面にも「奈迩波ツ尓(なにはつに)」「夜己能波(やこのは)」「由己(ゆご)」とあり、10世紀初めの平安時代に編さんされた古今和歌集収録の「難波津(なにはつ)に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の一部とみられる。「難波津」の歌が書かれた木簡は奈良県の平城宮跡などで見つかっている。

 この2首の歌について紀貫之は古今和歌集の仮名序(905年)で「歌の父母のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける」と、初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。2首を手本とする考え方はその150年前から存在していたといえそうだ。

木簡の元の長さは文字の大きさから約60センチと推定。宮廷の儀式や歌会などで用いられた可能性が高いとみている。

 市教委は25日午後1時から同市内の信楽中央公民館で報告会を開き、木簡を展示する。定員150人(先着順)。26〜30日にも同市内の宮町多目的集会施設で展示する。いずれも無料。

     ◇

 「安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに」(安積香山の影までも見える澄んだ山の井のような浅い心では私は思っていないのです)=小学館の「日本古典文学全集」などから

     ◇

 「難波津(なにはつ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」(難波津に梅の花が咲いています。今こそ春が来たと、梅の花が咲いています)=小学館の「新編日本古典文学全集」などから

     ◇

 〈上野誠・奈良大教授(万葉文化論)の話〉 万葉集の原本は見つかっておらず、これまでの研究はいわば写本の比較にとどまっていた。今回の発見は、人々の間に広まっていた歌が書き記され、歌集になるという万葉集の一連の成立過程を明らかにする上で極めて重要な発見だ。

歌木簡の話は、昨年12月の木簡学会で、今回の調査に当たられた栄原先生が発表された。
その時、わたしは次の点を指摘した。
 長さについてだが、漢代の竹簡の長さは、その記される書物や文書の性格によって決まっている。約2尺という長さは、そうした竹簡の長さとの関わりとも比較すべきだ
と。
今回の木簡は長さは60cmと推定されているから、これも
 約2尺
の木簡である。儀式や歌会で用いられる木簡の長さとしては申し分ない。
問題は
 薄過ぎる
点だ。宴席で歌を詠むために使われるような正規の木簡であれば、ちゃんとした厚さが必要なのだが、
 たったの1mm
なのだ。これでは、宴席に持ち運ぶことが出来ない。
実物を見てないから、何とも言えないのだが、読売の報道では、次のように指摘している。


裏側に着目、至宝発見…栄原教授

(略)
2006年、大阪市中央区の難波宮跡から、和歌とみられる万葉仮名が書かれた木簡が出土。以来、「歌を書くための木簡があるのではないか」と考え、全国各地の「歌木簡」とみられる14点を調べてきた。

 甲賀市の文化財作業所を訪れたのは昨年12月10日。紫香楽宮跡で1997年度に出土した「難波津の歌」が書かれた木簡が気になったからだ。

 「表面がきれいに整えられている。歌木簡に違いない」。調査を終え、ガラス板の上に置かれた木簡をぬらしたガーゼでくるもうとした時、ふと裏側の墨痕に気付いた。「阿佐可夜(あさかや)」の4文字が読めた。「電撃が走ったような驚きだった」

 出土から10年余り。難波津の歌を表にして保管され、薄さから片面にしか文字が書かれていない削り屑(くず)とみられてきた。「歌木簡を考えていなければ、気付けなかったろう」。出土した7100点の木簡から、〈至宝〉の1点を探りあてた。

(2008年05月23日 読売新聞)

恐らく、
 難波津の歌
が記されている方が本来の表面で、こちらは綺麗に表面を削ってあるところに、難波津の歌を書いてある。
問題は、
 裏面の『万葉集』所収の「安積香山の歌」
の方だ。これまで、この歌が気がつかれなかったのは、上記記事のように
 薄すぎて、削り屑木簡だと考えられてきた
からだ。これはやはり
 表面を削った裏に書いた
と考えるのがよいと思う。
現在公開されている写真からでは、裏表が
 同じ人間の手によるのか、それとも違う人間が書いたのか
まではわからない。これは、木簡研究で常に考えなければならない問題で、同じ面に書いてある文字でも、
 手が同じかどうか
は、現物を見ないとわからないのだ。

今回の木簡の価値は
 『古今和歌集』仮名序に「歌の父母」として紹介されている二首が裏表に書かれている点
にある。
『古今和歌集』仮名序。〈〉は仮名を漢字に直したもの。[]は注釈部分。岩波の古典大系本による。


なにはづ〈難波津〉のうた〈歌〉は、みかど〈帝〉のおほむはじめなり。[おほさゝぎのみかど〈大鷦鷯帝=仁徳〉、なにはづ〈難波津〉にて、みこときこえける時、東宮をたがひにゆづ〈譲〉りて、くらゐ〈位〉につきたまはで、三とせ〈歳〉になりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける哥也。この花はむめ〈梅〉の花をいふなるべし。]
あさか〈安積香〉山のことばは、うねめ〈采女〉のたはぶれよりよみて、[かづらきのおほきみ〈葛城王〉を、みちのおく〈陸奥〉へ、つかはしたりけるに、くにのつかさ〈国司〉、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、うねめ〈采女〉なりける女の、かはらけ〈土器〉とりて、よめるなり。これにぞ、おほきみ〈王〉のこゝろ〈心〉とけにける。]
このふたうた〈二歌〉は、うた〈歌〉のちゝはゝ〈父母〉のやうにてぞ、てなら〈手習〉ふ人の、はじ〈始〉めにもしける。

ただ、
1. 「儀式用木簡」としては薄すぎる
2. 字が汚い
3. 裏表の筆者が、同一人物かどうか分からない
ので、
4. 「歌の父母」が同時に書かれたものではない
だろう。もっとも、
5. 宴席で最初に詠まれると推定される「難波津の歌」が書かれた「歌木簡」を削ったもの
というのは動かないと思う。で、
6. 歌木簡の表面をこけらのように薄く、一枚のものとして削り、裏に「歌の父母」として一対をなす「安積香山の歌」を書き付けた
のが、今回発見された
 『万葉集』成立以前に『万葉集』収録歌が書かれた木簡の正体
だと思う。記事はミスリードしかかっているが
 「歌の父母」が記された状態で「宴席に持ちこまれた木簡」
ではない。
7. 「難波津の歌」の書かれた「儀式用の歌木簡」の本来の裏側に書かれていたものは不明
である。たまたま、削られた表面だけが、今のところ残っているのだ。
で、「難波津の歌」の部分だけれども
8. 字が汚いので、実際に宮中の宴席には持ちこまれてない
と思う。いくらなんでも、この字はまずいでしょう。
上野誠先生が、上記の読売の記事で


一方、仮名序の説明に注目する上野誠・奈良大教授(万葉文化論)は「二つの歌は、英語の『ABCの歌』と同じ。聞いた歌を書き留め、文字を学ぶ練習に使った木簡ではないか」と推測している。

とコメントされているように、
 法量としては「儀式に使われた歌木簡」だが、実際には儀式では使われてない
と見るのがいいのではないか。平城宮やその周辺から出てくる木簡の書風から推定するに、今回の「両面歌木簡」は、
 習書(お習字)
と見た方がいい書風である。儀式に使うものであれば、もう少し丁寧に書くだろう。ま、紀貫之が「仮名序」に書いた如く
 手習ふ人の始めにもしける二首
なわけで、まず、文字を習い始めたときに覚えるのが、この二首という伝承が、貫之の頃にもあったってことね。その現物が出てきた。

今回の木簡は、『万葉集』成立前に『万葉集』収録の歌が書かれていた。上記の推論のように、本来の木簡の表面を薄く削った裏に「安積香山」の歌を記したこの木簡が『万葉集』の稿本だとは、到底考えられないが、歌の編集に木簡を使っていただろうことは、不思議でも何でもない。
長いテクストを、細長い竹や木の札に書き付けて、紐で編んでいたのが、中国の古い書物の形態だ。日本では、「細い簡を編んで大きな面を作る」という部分はなく、板に短いテクストを書き付ける形態が一般的だと思う。
そういう使用法だと、和歌は、ちょうど木簡に書き付けるにはちょうどいい長さだ。
カルタを考えればよい。木簡はカルタより遙かに細長いけれども、そこに、歌を書き付けて、編集する過程があったとも考えられる。いくらでも並べ替えが可能だからな。少々乱暴な言い方をすれば、北海道の
 木札カルタ(百人一首の下の句だけが変体仮名で記された木のカルタ)
を想定するといいのではないか。木札カルタを並べるときは
 心
とか
 今
とか、文字別に並べたり、得意な札を手前に持ってきたり、自由に並べるけど、そうした操作性は、木簡でも同じだろう。
 木簡→編集→紙に清書
という段階が想定できる。

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2008-05-15

高松塚古墳壁画見学会にはずれる

今日、高松塚古墳壁画見学会の当否を知らせるハガキが来た。
結果は落選。
どう考えても応募が殺到するのに
 先着順
ということだったからな〜。もし、先着順だったのなら、気がつくのが遅すぎたってことなんだろう。

次回公開がいつになるのか分からないけど、あと1年以内じゃないと、たぶんわたしの肉眼では見えなくなってしまう。薄暗いところでものを見る能力がこのところ急激に落ちている。
次回も、同じようなやり方で、見学者を選ぶのであれば、必ず見られるとは限らない。

ひょっとしたら、永遠に高松塚古墳壁画を肉眼で見られないかも知れない。視力の低下と、「当選待ち」の両天秤だから、難しい。
残念だ。

今回は、研究者対象の公開もないと聞いているし、古代史研究者で同じように落選しちゃったヒトはたくさんいるだろうな。
応募が殺到して、見学者募集は途中で打ち切られた。
iza!より。


高松塚壁画公開、応募殺到で締め切り
05/02 22:20更新

 奈良県明日香村の修復施設で31日~6月8日に一般公開される高松塚古墳の国宝壁画について、文化庁は2日、応募が殺到したため、当初予定の今月7日までの募集を急遽繰り上げ、2日で締め切ったと発表した。
 4500人の募集に対し、2日午前までに1万2350通の応募があったという。
 同庁は4月16日から募集を始め、往復はがきに2人まで応募できる方法で、希望日時に応じて先着順に受け付けた。
 しかし、担当事務局には同日から電話が殺到し、回線が少ないため電話が通じないこともしばしばあったという。
 同庁古墳壁画室は「予想以上に国民の関心が高い。年度内にも再び公開の機会を設けたい」としている。

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2008-05-14

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の埴輪キャラ「イワミン」

なんですか、これは。

Iwm
キャッチコピーは


イワミン
石見遺跡出身のイワミンです。これからボクがみなさんをご案内します。

だそうで。
ただ今開催中の橿考研附属博物館の
 春季特別展「はにわ人と動物たち-大和の埴輪 大集合-」
のイメージキャラらしい。


今回の特別展で案内役を担当しますイワミンです。会場内で僕をさがしてね。

だってさ。うろうろしてたら張り倒すぞ。

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2008-05-05

法隆寺へ

藤ノ木古墳の見学を終わり、法隆寺へ。
GWなので、人だらけ。
ここは拝観料が高いのがネック。西院伽藍・大宝蔵院・東院伽藍込みの1000円券と新造された玉虫厨子を見るなら別に500円が必要。興福寺とか東大寺(大仏殿に入るには拝観料が必要)の「場所によっては拝観料を取るけど、境内を歩くのはご自由に」という太っ腹さ加減に慣れていると、ちょっとがっかりする。
Hrj1
とても混んでいる。

法隆寺まで足を伸ばしたのは数年ぶり。

昨日は五重塔の塔本塑像がわりによく見えた。
Hrj2
特に南面と西面がはっきり見えていた。
光の加減によるから、北面と東面を見るためには、季節と時間を勘案しないといけないだろうな。

現在、金堂が修理中のため、釈迦三尊像は、上御堂に移されている。
Hrj3
金堂の吉祥天・毘沙門天も大宝蔵院だったか、秘宝展だったか、どちらかに移されていた。(メモしてなかった)

塔を仰ぎみる。
Hrj4

帰りに中宮寺に寄る。中宮寺はそれこそ高校の修学旅行以来だ。
金属製かと見まごう黒漆の、頭に二つ丸い髷の載った、可憐な半跏思惟像にお参りする。中宮寺では如意輪観音と伝え、教科書には弥勒と書いてあったりするあの仏様である。本当は金箔が押してあったのだけど、尼さん達が撫でるようにお身拭いを続けた結果、いまのような黒漆の肌になったのだとか。
仏前にネーブルだかデコポンだか、形の面白い柑橘類が盛られていたのが、いかにも尼門跡のお寺らしかった。

ちょうど昼食時。法隆寺門前の観光食堂は避け、法隆寺バスセンターのすぐそばにある、ファミレスの「さと」に行った。ここは昼前に入れば、そんなに混んでないし、観光食堂にありがちな外れを引く確率も低い。

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藤ノ木古墳石室特別公開@5/3-5/6

藤ノ木古墳の石室が整備されたので、GW中の4日間だけ、特別に石室が公開されている。


史跡藤ノ木古墳整備完了記念石室特別公開

日  時 平成20年5月3日(土)~6日(火)  
   午前9時~午後5時
   (整理券配布午前8時30分より)
  
場  所 史跡 藤ノ木古墳
 斑鳩町法隆寺西2丁目1795番地(地図
  〈交通手段〉
1 奈良交通バス 斑鳩町役場前バス停下車北へ徒歩約4分 
2 JR法隆寺駅より奈良交通バス
   法隆寺門前バス停下車西へ徒歩約5分
 *駐車場がありませんので車での来場はご遠慮下さい。 
 見学方法 石室内特別見学は、見学用通路の関係で1時間単位の整理券(見学時間指定)を先着順に配布いたします。
*当日分の整理券の配布が終了次第締切となります。
お問合せ 斑鳩町生涯学習課
 ℡0745-74-1001 内線238

朝一番の整理券配布に間に合うように行く、という前提で話をすると、JR沿線なら、法隆寺で下りるよりも、王寺まで出て、王寺駅北口からバスに乗り、斑鳩町役場前で下りる方が速い。ただし、王寺駅から東行きの道路は狭くて、休日は朝9時頃には渋滞し始めると思われるので、遅い時間になってからはこの限りではない。
付近に駐車場はない。自転車は斑鳩町役場に停めて、現場まで歩く。トイレも斑鳩町役場を利用することになる。

昨日、5/4に、朝7:26JR奈良発の難波行きに乗って王寺まで出た。7:50発のバスで斑鳩町役場前下車が8:00前。そのまま3-4分歩くと現場だ。もう100人近く並んでいた。
暑いのと、人が多いので、整理券配布は15分前倒しになり、8:15から。無事、朝最初の見学整理券9:00-10:00までの分をゲット。そのまま見学を待った。
整理券は1時間ずつに分けられている。9:00-10:00の整理券で列を離れて時間内に見損なうと、次の時間帯以降には、「最後尾」で見学ということになるので、時間に注意だ。
待っている間には、周りに出店があるので、飲み物やかき氷(200円)を買うこともできる。ともかく、暑かったので、水分補給を呼びかけていた。救護所もあるにはある。
藤ノ木古墳入り口。
Fjk1
内部は撮影できない。
見学時間は、何人かずつを一度に石室内に入れ、二人ずつ石棺の前で30秒ほど説明を受ける。石室内にいられる時間はだいたい3分前後だ。外の暑さがうそのような涼しさだ。
羨道で順番を待っている間に、石室内の石積みを観察する。西側には閉塞石を残してある。
石棺は二上山の凝灰岩。頭が東になるように若干歪んだ形に整形してある。
今回の特別公開を逃すと、こうした形で石棺をじっくり見る機会はないだろう。これからは、ガラス越しに3mくらい先にある石棺を見ることになるという。

藤ノ木古墳全景。
Fjk2

法隆寺までは、歩いて10分ほどの距離。法隆寺の見学もするつもりなら、門前の駐車場(一番安いところで600円くらい)に停めて、藤ノ木古墳に来るのがいいかも。

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2008-04-21

杏雨書屋開館30周年記念展示会と講演会@4/19

よいものを見た。
武田製薬の中にある
 杏雨書屋開館30周年記念展示会
は昨日が最終日だった。

杏雨書屋入り口。
Kus1
建物の前には、杏を始めとする薬用植物が植えられている。

杏雨書屋の礎を築いた武田家第六代武田長兵衛生誕100年記念で植えられた杏。
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隣は、今年杏雨書屋開館30周年を記念して植えられたばかりの杏。

杏の根元にある標識。
Kus3
それを拡大したもの。
Kus5

最終日はよく晴れていた。
16:00終了なので、15時頃到着。
さすがに、15:30を過ぎると、他の観覧者はいなくなり、貸し切り状態になった。
心ゆくまで、単眼鏡を通して、
 国宝・唐鈔本『説文解字』木部残巻
を拝見した。調査のために唐鈔本『説文解字』を見せてもらえるほどエラくないので、次はいつ実見できるか分からない。木部のこの部分は、以前に読んだ個所だから、中味はなんとなく頭に入っているが、改めて唐鈔本の実物を目にすると、そのすばらしさに圧倒される。きりっとした細い線が、美しい。そして、ガラス越しに見る料紙の質感がすごい。わたしは現物至上主義ではないのだが、さすがに、『説文解字』研究者であるならば、一度はこの唐鈔本『説文解字』は実物を見ておいた方がいいだろうな、と思う。わたしは『説文解字』は読むけれども、専門じゃないから、そこまではしないけれども、こうした千載一遇の機会に拝見するだけでも幸せである。
漢代研究者としては、その下に展示されていた二点の国宝
 南宋刊本『毛詩正義』
 北宋刊本『史記集解』(単刻本)
など貴重な典籍をじっくりこの目で眺められたのが楽しかった。仏教関係では
 『性霊集』(重文)
 『聖徳太子伝暦』(重文)
 『薬種抄』(重文)
 『香要抄』(重文)
 『穀類抄』(重文)
 『香字抄』(重文)
などが出ていて、多分次はないだろうな、と思いながら、短い時間だが楽しく拝見した。
また
 『宝要抄』
には、最初に梵字で
 ratna(=宝)
と書いてあるのが、結構ツボにはまった。

本草関係では、原色で描かれた動植物の図が美しいものが、幾つも展示されていて、それだけでも、目の保養になった。

武田製薬は太っ腹で、この展示の図録を、カラー印刷で作り、観覧者に無料で配布していた。このカラー印刷がよくできていて、タダで貰ってきたのが、申し訳ないほどのカタログなのである。

前日、4/19には記念講演会が開かれた。

開会の挨拶をする吉川忠夫先生。
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この4月から杏雨書屋館長になられた由。

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2008-04-16

『日本医史学雑誌』を求めて

大阪の森ノ宮医療学園専門学校には
 日本医史学雑誌が全部揃っている
という話を聞いたので、行ってきた。

東洋医学の授業がある専門学校だから、たしかにオリエント出版の影印シリーズはそこらにあるし、あんまり込んでもいないので、図書室は使いやすいのだけれど、肝心の『日本医学史雑誌』は、
 森ノ宮医療専門学校にも森ノ宮医療大学にもありません
と司書兼務の方ににべもなく断られた。そもそも
 閉架の図書は外部の人間には閲覧不可
だそうだ。製本雑誌の閲覧が出来ないのじゃ、交通費を掛けて行く意味が半減してしまうな。うちからだと片道750円かかる。近鉄奈良から乗り換え1回で行けるのは便利なんだが。

森ノ宮医療学園専門学校は、夜間コースがあるおかげで、
 21:30まで図書室が開いている
というのが魅力ではあるんだが。

しょうがないので、意を決して、国立国会図書館関西館に行こうか。一応、『日本医史学雑誌』の所蔵は確認した。
国立国会図書館関西館は、非常に行きにくい場所にあるんだよな。
車がないと不便、という立地。車じゃなければバス。当然、免許を持ってないわたしはバスで行くしかない。

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2008-04-15

杏雨書屋開館30周年記念展示会 4/14-4/20

武田製薬が出資している
 武田科学振興財団

 杏雨書屋開館30周年記念展示会
を昨日から開いている。


杏雨書屋開館30周年記念展示会

期 間:2008 年 4 月14 日~4 月17 日 国宝、重要文化財はレプリカの展示
   4 月18 日~4 月20 日 国宝、重要文化財は実物の展示
場 所:杏雨書屋2 階展示室
開館時間:9 時~16 時
展 示:杏雨書屋の国宝、重要文化財
杏雨書屋所蔵の国宝3 点、重要文化財10 点を始め、歴史的に価値の高い所蔵物を一挙公開いたします。
〒532-8686 大阪市淀川区十三本町2-17-85
武田科学振興財団・杏雨書屋
杏雨書屋への行き方
TEL:06-6300-6815 FAX :06-6300-6034

杏雨書屋の所蔵する国宝・重要文化財のリストは次の通り。


主な収蔵品

[国 宝]
 説文解字木部残巻   1巻
 毛詩正義      17冊
 史記集解      11冊

[重要文化財]
 薬種抄      2巻
 香要抄       2巻
 穀類抄       1巻
 香字抄      1巻
 古文孝経      1巻
 春秋経伝集解    4巻
 遍照発揮性集   7巻
 聖徳太子伝暦    6冊
 春 記      3巻
 実躬卿記 51巻

というラインナップだ。
実に短い期間の展示なので、気合いを入れて是非。
見に行くなら、実物が展示される4/18-4/20がお奨め。今電話して確認したが
 雨天でも国宝の展示はある
そうだ。以前、恩師が雨の日に写本調査に行ったら『説文解字』を見られなかったと仰っていたが、展示だからか、大丈夫とのこと。

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2008-03-17

読売新聞カメラマン、発掘された木棺を損傷

あまりにも間抜けな話で呆れる。
それは東大寺二月堂修二会最終日でもある3月14日に起きた。奈良県内の人なら分かると思うが
 雨の日
である。現場は相当にぬかるんでいたはずだ。
読売新聞大阪本社版より。


本紙記者、木棺の一部破損…奈良の発掘現場で足滑り

 14日午後1時20分ごろ、奈良県香芝市の下田東遺跡発掘現場で、出土した木棺を撮影中の読売新聞大阪本社の写真部員(29)がぬかるみで足を滑らせ、木棺の一部に靴の底をぶつけた。このため、一部が削られて破損した。破損したのは数センチ大とみられる。

 市教委は破損した木片を現場で回収。復元できるかどうかについて保存処理の専門家に調査を依頼する。

 この日は報道各社が午前中から取材、撮影していた。

 木棺については時期や考古学的な価値などを継続調査中で、市教委は検討を重ねたうえ、破損状況と併せて後日、詳細を発表する。

 読売新聞大阪本社は同日夕、香芝市教委に謝罪した。

 読売新聞大阪本社広報宣伝部の話「本社カメラマンが、取材中に貴重な遺物を傷つけたことは、誠に申し訳なく、深くおわびします。今後こうしたことが起きないよう、慎重な取材の徹底について改めて指導します。破損個所の修復が可能であれば、費用については本社で負担させていただく所存です」

(2008年3月15日 読売新聞)

発掘現場を報道に公開したら、木棺を壊されましたか。ていうか
 晴雨にかかわらず、そもそも現場は滑りやすい
ので、足拵えは基本中の基本でしょう。たぶん、木棺をぎりぎりのところから撮ろうとしたかなんかで、現場の一番崩れやすいところで足元を確保せずにカメラを構えたんだろうな。カメラは壊さなかったけど、木棺は壊したって話なら、二度と発掘現場に来ないように。

朝日新聞奈良版には大体の現場の状況が書いてある。


読売写真部員が木棺破損
2008年03月15日

 ■香芝・下田東遺跡
 読売新聞大阪本社は14日、香芝市下田東3丁目の下田東遺跡で、出土した木棺の底板とみられる木製遺物(長さ約3メートル、幅約50センチ)を撮影していた同社の写真部員(29)が過って一部を破損させたと発表した。市教委は破損の程度や修復できるかどうかについて、専門家に調査を依頼するという。
 同社などによると、14日午後1時20分ごろ、撮影中だった写真部員が足を滑らせて木製遺物の端に足先をぶつけ、遺物の表面が3〜4センチにわたってはがれた。現場は傾斜がついた粘土質の周濠(しゅうごう)の中。この日は報道機関が市教委に要請した撮影会があり、当時は小雨が降っていた
 同社広報宣伝部は記者会見を開き、「深くおわびする。慎重な取材の徹底を改めて指導する。修復が可能であれば、費用を負担させていただきたい」とコメントした。
 同遺跡は縄文時代から近世にかけての複合遺跡。「遺言」が書かれた平安初期の木簡や5世紀頃の木製の鞍(くら)の一部などが見つかっている。

ああ、傾斜の付いた周濠なんて、雨が降ってなくても、滑りまくるに決まってるじゃん。

二月堂に行ったわたしですら、14日はトレッキングシューズで出かけたぞ。滑ると洒落にならないからな。雨の前後に発掘現場に行くのであれば、どうせ報道陣は車で行くんだろうから、滑りにくく、動きやすい靴くらい一緒に持って行けよ。現場に入る前に履き替えて行け。それくらいの暇はあるだろう。

続き。毎日は英文記事にもしていて
 世界中に読売新聞カメラマンの恥を発信
する「親切心」を見せている。
英文記事の方を上げておく。


Yomiuri photographer damages priceless archeological find

OSAKA -- A Yomiuri Shimbun photographer accidentally damaged a wooden coffin excavated from an archeological site in Nara Prefecture while taking photos of it, company officials said.

The accident occurred at around 1:20 p.m. on Friday, as the 29-year-old photographer was taking photos of the bottom of the wooden coffin which was excavated from a moat surrounding a burial mound at the remains, Yomiuri officials said. One of his feet slipped on a wet slope and hit the coffin.

The Kashiba Municipal Board of Education, which is excavating the Shimoda-Higashi remains, will commission experts to determine the extent of the damage.

The Yomiuri Shimbun Osaka headquarters was apologetic about the incident. "We deeply apologize for damaging such an important archeological find."

The exact age of the wooden coffin is still unclear, but experts say they believe it was produced during the Kofun period, between the mid-third century and the end of the seventh century.

古墳時代の木棺の底板だとすると、結構痛い事故ですな、読売新聞のカメラマン。

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2008-02-17

唐家[玉旋]と胡錦涛が奈良にやってくるらしい

唐家[玉旋」が20日に奈良に来る。
胡錦涛も来月の訪日時に奈良に来るつもりらしい。
読売より。


中国・胡主席、来日の際に奈良訪問へ…唐招提寺など検討

 今春に来日予定の胡錦濤・中国国家主席が、滞在中の奈良県視察を検討していることが16日、分かった。

 視察先としては、奈良市の唐招提寺などが挙がっている。同寺は、奈良時代に苦難の末に唐から日本に渡った高僧、鑑真が創建したことから、「日中の切っても切れぬ結びつきを確認する」(外務省幹部)狙いがあるという。斑鳩町の法隆寺も訪問する方向だ。

 昨年末に中国を訪問した福田首相は、「日中の古くからの思想的な共通点を確認したい」として、孔子の故郷、山東省曲阜で孔子廟(びょう)を視察している。胡主席の奈良訪問には、「答礼」の意味合いもあるとされる。

 胡主席の来日準備のために20日に来日する唐家セン・国務委員も、大阪経由で奈良を視察する予定だ。

(2008年2月17日09時03分 読売新聞)

胡錦涛国家主席がどこに来るかはわかったけど、唐家[玉旋]国務委員は奈良公園付近まで来るんじゃなかろうな。
たぶん、訪問先には、奈良女子大に留学している中国人学生なんかをフィーチャーするんだろう。奈良にも日中友好協会はあるから、すでになんらかのアクションはあるんだろうな。
大阪からなら来るのはすぐだから、別に構わないけど、唐招提寺はまだ
 平成の金堂大修理
だ。ま、鑑真和上像は、御影堂だけど、金堂が普通に公開されてないと、唐招提寺の値打ちは半減する。平成の修理は、来年終わる予定だから、金堂の修理工事現場でも見せるのかしら。
法隆寺も、金堂の工事が始まるところだ。
 法隆寺で仏像の魂抜く法要 修理と展覧会前に 2008年02月12日13時54分

そういう意味では、奈良に来ても、ベストの状態ではない。

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2008-02-11

ソウルの南大門(崇礼門)炎上→日本は「1500年後の恩返し」が可能か

瓦の崩壊する音が痛々しい、動画つきニュース。
中央日報より。


“国宝1号”崇礼門5時間で全焼・崩壊

大韓民国の国宝第1号の崇礼門(スンレムン)(南大門)が火災により崩壊した。

崇礼門は朝鮮時代である1398年に創建された。ソウルにある木造建築物の中で最古だ。

10日午後8時40分ごろ、崇礼門で放火とみられる火災が発生した。首都のど真ん中で起きたこの火災は11日夜遅くまで続いた。初期火災鎮圧に失敗したためだ。消防当局と文化財庁の安易な対応で、国宝1号が消えてしまったのだ。

一時火は消し止められたように見えた。しかし11日0時になるとさらに激しく炎上、一歩遅れて消防当局は屋根をはずして放水しようとしたが、炎が崇礼門全体を覆うと断念した。

出動した消防車50台余りと消防署員150人がはしごやホースなどを利用して水による鎮火作業を試みたが、火災発生4時間後に崩壊が始まった。

11日0時40分、樓閣2階と屋根が崩れ落ちた。時間が経過し、骨組みだけ残して形がわからなくなるほど崩壊が進んだ。消防関係者は「指針で文化財庁と協議の下、鎮火作業を行うことになっている。これにより文化財庁と協議を経た後で、ようやく屋根を取り除けることになったため、火を消し止められなかった」と話した。

個人タクシー運転手イ・サングォンさん(44)は「午後8時40分ごろ短髪にミリタリージャンパーと黒の登山用ズボンをはいた50代ほどの男が紙袋を持って崇礼門のそばの階段を登っていた」と話した。イさんは「1~2分後、崇礼門左側の1階樓閣と2階樓閣の間から赤い花火が上がった」とし「崇礼門に上がった男は火花が起こると階段を下り、南山の方に消えた」と付け加えた。警察は目撃者の陳述から放火である可能性が高いものとみて捜査を進めている。

◇崇礼門(南大門)=1962年12月、国宝1号に指定された国内を代表する文化財だ。漢陽都城の8門のうち最も重要な正門であり、現存する国内城門建物としても最も規模が大きい。現在、ソウルに残っている木造建物のうちで最も古いものだ。朝鮮王朝が漢陽に遷都後、1395年(太祖4年)に建築を始め、1398年に完工された。2005年5月、崇礼門周辺に広場が造成され、2006年3月、虹霓門が一般に開放された。

焼失前

崩壊、全焼した惨状

初期消火の段階で破壊消火が認められず、火が大きく広がった。
出火から1時間あまりの段階での報道。
朝鮮日報より。


2008/02/10 22:41:16 韓国国宝第1号・崇礼門で出火

まだ崩落に至らない段階の南大門

 10日午後8時50分頃、南大門の名で親しまれている韓国国宝第1号、崇礼門(ソウル市中区)から出火した。

 午後10時現在消防車約40台と消防官約80名が消火作業を行っている。

貴重な文化財が目の前で崩れ落ちていく様は衝撃的だった。
こうした木組の複雑な木造建築は、見た目以上にたくさんの木材を使用している。一般家屋だったら、消火が終わったと思われる状態でも、奥に火種が残っていれば、やがて火の手が上がる。一度、内部の木組に火がついてしまうと、水が届かないので手が付けられない。今の時期、ソウルは乾燥しているだろうから、燃料が豊富にあるところで火が燃えているのと変わらなくなる。こうなってしまうと、もう破壊消火もできなくなるだろう。文化財保護という名目で、韓国の文化財庁は、スプリンクラーの設置を認めていなかった。


南大門火災:「国宝第1号」崩壊、放火の可能性も(下)
(略)

◆スプリンクラーもなし

 火災が発生した崇礼門内部には、スプリンクラーなど初期消火装置が全くなかった。文化財庁関係者は「文化財には“内部施設保存のため消防設備を設置しなければならない”という規定がなく、現在関連規定を作成しているところだった」と説明する。
(以下略)

2006年には、南大門は100年振りに開門した。


2006/03/03 19:50:13100年ぶりに開門した崇礼門

崇礼門開放式の様子

ソウル市中区は3日午前、国宝第1号の「崇礼門(南大門)開放式」を行い、正祖大王華城回京、御駕行列、崇礼門生活史再現など、さまざまな行事を行った(写真=聯合ニュース)。

この年には南大門の調査が行われ、図面が作られているという。その図面を元に、韓国政府は復元を決めた模様だ。復元には2年以上はかかると見られる。
放火と失火の両面で捜査 復元には2年以上か 南大門 2008年02月11日11時28分

ところで、今回の
 南大門炎上
で、日本ができることがあるとすれば、多くの木造建築物を国宝・重文として指定している
 日本の文化財保存・管理技術
が役に立つのではないか。
まず、文化財保護のための法整備。
昭和24(1949)年1月26日、金堂壁画の模写のために用意された電気座布団から出火し、法隆寺金堂が焼損した。毎年、1月26日の
 文化財防火デー
には、法隆寺金堂の焼けた壁画や木材を収めている収蔵庫で法要が営まれ、法隆寺を始め全国の文化財で防火訓練が行われている。そして、この火災が契機となって、文化財保護のための法律や条令が作られた。
韓国では、まだ法整備が行き届いていない。韓国の木造文化財保護は、残念ながら立ち後れているという。南大門だけでなく、多くの木造建築が火災に遭えば焼失を免れない、危機的な状況に晒されているという。
朝鮮日報より。


2008/02/11 07:30:44 国宝級の木造文化財13カ所、火災に無防備

国宝級の木造文化財は事実上、火災に対してほぼ無防備だったといっても過言ではない。国会文化観光委員会は国政監査のたびにこの点を繰り返し指摘してきたが、結果はさほど改善されていなかった。

 ヨルリン・ウリ党の禹相虎(ウ・サンホ)議員は2年前、「寺などの国宝級木造文化財に対する消防対策現況」と題する報告書をまとめている。これによると、国宝指定されている全羅南道順天市の松広寺国師殿および霊巌郡の道岬寺解脱門などが1度の火災で全焼してしまう恐れがあるという。

 また、国宝級の木造文化財13カ所のうち、火災発生時に、消防車が5分以内に到着できる所はわずか2カ所にすぎず、残りは30分以上かかるほか、消防ヘリコプターが5分以内に到着できる所も慶尚南道梁山市にある通度寺の1カ所だけで、残りの建築物は火災の危険にさらされていた。

 こうした点を理由に、国宝級木造文化財の近くに消防署を設置したり、消防ヘリコプターが5分以内で向かえるように対策を講じるほか、文化財の特徴を考慮した「文化財消防法」の制定などが急がれる、と指摘されてきた。

次に技術支援。南大門の再建には、防火設備を持ち、まさかの出火に対応できる環境作りも必要だ。こうした面では、法隆寺金堂という犠牲を払って、以後文化財保護のノウハウを積み重ねてきた日本の技術が参考になるのではないか。
木造での再建には、宮大工の知恵も必要だろう。現在、韓国にどのくらい日本の宮大工に相当するような伝統木造建築の専門技術者がいるのか分からないが、もし、日本の宮大工の技術が助けとなることがあれば、
 大陸・朝鮮半島から木造建築技術を移入した日本の1500年後の恩返し
ができるかもしれない。

もし
 日韓文化交流
というのなら、南大門炎上への文化財保護の観点からの支援が、日本がいま出来る、最良のものではないだろうか。

続き。
南大門復元に関する中央日報の記事。


<南大門火災>崇礼門の復元は可能なのか

実測図面は残っているが原形の回復は事実上困難

11日0時40分、燃えた崇礼門の瓦が“どどっ”という音とともに崩れ落ちた。

火災が起きてから3時間40分後の出来事だった。炎に包まれた‘国宝第1号’の姿に文化財関係者はもちろん、韓国中の人々が驚きで我を忘れた。

今回の火災で崇礼門の大々的な復元工事は避けられなくなった。崇礼門は太祖4年(1395年)に着工し、3年後に完工した。以後、世宗(セジョン)と成宗(ソンジョン、朝鮮第9代王)時に補修工事が行われたが、建築当時の原形はそのまま保存された。

このような背景から、崇礼門の復元を懸念する声も高くなっている。カン・テヒョン国立中央博物館保存科学室長は「文化財は一度損傷すると原状への復帰が事実上困難だ。特に崇礼門は火災に脆弱な木造建築物でより深刻だ」と述べ「復元にも相当な期間を要するものと見られる。結果的に文化財管理がずさんだった。一般に開放したのは良かったが、もう少しセキュリティと管理を徹底すべきだった」と指摘した。

火災現場を見守っていたファン・ピョンウ文化連帯文化遺産委員長は「2階の楼閣の瓦とその下の塗り土の間からずっと煙が出ていた。初期消火に失敗したようだ。はじめからはしご車を動員すべきだった」とし「今の状況では全面的な解体と補修は避けられない」と話した。

崇礼門は1960年代初めに大々的な解体補修工事をしたことがある。その当時、最高の技師と呼ばれたチョ・ウォンジェ氏が復元工事の総監督を務めた。チョ氏は現在進行中の景福宮(キョンボックン)復元事業の総監督である申鷹秀(シン・ウンス)氏の師匠でもある。以後、崇礼門で大きな工事は行われなかった。一部瓦の張り替えなど小さな補修作業があっただけだ。

崇礼門の昔の面影をまた元に戻すのは事実上不可能だ。代わりに崇礼門を復元するための資料は十分に保存されていることが分かった。文化財庁建築文化財課の関係者は「崇礼門に関する精密実測図面がある。模様画の配色や建物に関する部材別の実測図面もある。資料が揃っているので技術的な次元での復元作業には困難はないとみられる」と話した。

一方、世界文化遺産への登録推進事業のためフランスのパリに滞在していた兪弘濬(ユ・ホンジュン)文化財庁長官は「崇礼門火災」の一報を聞いて、日程を変更し、11日午前に急きょ帰国する予定だ。

中央日報 Joins.com
2008.02.11 10:33:26

韓国の復元工事が求める水準がわからないから、何とも言えないな。
しかし、2006年の図面って外からの実測図面だけなら、
 1962年の解体修理時の図面
が必要だと思うんだけど、それは保存されているのだろうか。なければ、もっと以前の図面を探してこなければならないだろう。
木造で作り直すなら、木の組み方に配慮しなくてはいけないが、韓国は大きな材が取れるような巨木を自前で用意できているのだろうか。
薬師寺の再建事業では、国内産の木がなくて、台湾から資材を求めた。伊勢神宮は式年遷宮のために、造林して木を準備している。いきなり建設すると言っても、木は生ものだから、乾燥させる時間が必要だ。以前、札幌の自宅を改築する時、すなわち一民家を建てるときだって、山で木を3年くらいかけて乾燥させて使ったのだが、歴史的建造物の再建となると、木の扱いは時間がかかるのではないのか。

残った部材をできるだけ使う再建工事って、日本は結構得意。
身近なところでは、春日大社の造替がそうで、
 使える部材は継いで使う伝統
がある。
ただ、南大門というと韓国国民にとっては
 民族の誇りの象徴
だろうから、日本の文化財保存・管理技術で支援すると言っても
 日本
という言葉だけで拒否反応があるかも知れないのが、ちょっと不安。
南大門は、日韓併合期に、城郭の部分を撤去された過去がある。
朝鮮日報より。


2006/11/02 18:53:55「100年ぶりに崇礼門の城壁を復元」

復元する部分

 国宝第1号の崇礼門(南大門)の城壁が、およそ100年ぶりに本来の姿を取り戻す。

 ソウル市中区は、崇礼門に連結していた朝鮮時代の城郭を2008年までに左右10メートルずつ復元することにした。1907年に日帝が取り壊して以来、100年ぶりだ。当時日帝は、道路開設を理由に崇礼門の左右の城郭を撤去し、城門だけを残した。

 中区は、現在三角の形態でしか残っていない城郭を当初の四角形に復元する。また、崇礼門の下の地盤も堀り、現在より1.6メートル低め、原型そのままの姿に戻すことにした。

 2002年の精密安全診断と昨年の地盤調査の結果、門の蝶番石(門を閉じる石の構造物)、土台石(一番下の基礎石)、薄石(平たく薄い石)などの遺構(昔の建築の残存物)が現在の地表より1.6メートル下で発見されたためだ。これを復元すれば、崇礼門の高さは現在の17.6メートルから19.2メートルに高まる。文化財委員会の考証・審議などを経て、来年下半期に着工する予定。

 1398年(朝鮮太祖7年)に建立された崇礼門は、現在ソウルに残る木造建築物の中で最も古く、1962年に国宝第1号に指定された。崇礼門の中央通路である虹霓門は、今年3月に開放された。

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2008-02-07

『佛教藝術』296/2008-1 毎日新聞社

定期購読している『佛藝』が朋友書店から届いた。
今号は、どれもちょっとずつ専門と引っかかる論文。
題目と斜め読みだけ記しておく。
・菩薩立像の身体比率からみた法隆寺金堂壁画 松原智美
法隆寺金堂壁画には藍本(手本)があったことは確かだが、その藍本が唐のいつの時代のものであったかを、頭部とそれ以外の部分の身体比率を画像から測定して、比較検討した労作。CGの援用が、藍本の年代比定に「印象批評」ではなく、数値的に使えるということを示したことでも画期的だ。
松原氏は、写真による身体比率測定が、あくまで歪みなどがあると断った上で
1. 金堂大壁の菩薩立像は唐・高宗期の藍本による
2. 3号壁の藍本は、大壁の藍本から菩薩像を抜き出して利用している
3. 3/4/7号壁の身体比率は、高宗初期のものではなく、高宗後期から末期の可能性
4. 大壁の藍本は遅くとも天智朝には将来された
5. 法隆寺金堂再建時に、大壁の藍本が利用されると共に、当時の趨勢であった高宗後期から末期の身体比率が3号壁などに援用されて菩薩像が描かれた
と推定している。なお、初唐のインド風の画像は、貞観年間末に玄奘や王玄策がもたらした大量のインドの文物の影響によるとする。
・鶴林寺太子堂内陣荘厳の意想 林温
鶴林寺太子堂内陣の絵画の意匠を細かく分析し、荘厳の意図と現在は失われている普賢菩薩像が本尊ではなかったかと述べる。
・院政期 興福寺にかかわる大仏師 根立研介
麻木脩平氏の根立論文への反論に対する再論。
・快慶及びその周辺作品にみる来迎形阿弥陀三尊像の成立と展開 大澤慶子
初期快慶の作を細部にわたって検証し、来迎三尊像の造形の新たな展開の背景を探る。

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2008-01-20

一次資料の魅力を引き出す難しさ 深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記』文春新書

一次資料に基づいて書かれた歴史書は、これまでにも数多ある。これまでわたしが読んだものは、読んだ後に
 一次資料そのものを読みたい
と痛切な飢餓感を感じるものが多かった。

深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』はどうか。
残念ながら、一次資料の持つ魅力を存分に引き出せたと言えない。

原因はいくつかある。
一つは、
 時代背景を説明するために、一次資料の紹介部分を削った
ことだ。井関隆子の日記が書かれた天保11(1840)年1月1日から天保15年10月11日までの5年間が激動の時代であったことを説明するのに、かなりの紙幅を割いている。
二つは
 一次資料の現代語訳がぞんざい
という点だ。井関隆子の日記は文字も文章も流麗である。その
 一次資料のよさ
を現代語訳が生かし切っていない。
 文は人なり
という。井関隆子の魅力を伝えるためには、もっと現代語訳の部分に心を砕くべきであろう。

これは編集者の問題でもあるのだが、
 日記の体裁を破らず、時代背景を入れ込んで編集する
という手もあったはずだ。日記本文の分量が少なく、時代の流れが読めない編集になっており、短い本文に同じ資料が重複したりする不備のために、非常に浅薄な印象を受けるのは、『井関隆子日記』の資料としての価値を考えるならば、実に惜しい。

新書が矢継ぎ早に出ていて、編集者の力量が追いついてないというのを痛感させる出来である。

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2008-01-18

『唐研究12』の悲劇

あまりにも悲しすぎる。
午後6時過ぎ、京都の朋友書店から電話が来た。
 あの〜、定期購読されている『唐研究』の12号についてなのですが
天聖令特集号となり、一昨年から、朋友書店に
 入荷したら、すぐ届けてね
と頼んであった『唐研究』だというのに。
 実は、人気があって品薄となり、版切れ、「複製本」販売という形になりますが、よろしいでしょうか
だって。
 価格は普通の『唐研究』と同じで、印刷は悪くなります
という情けない話。こんなことなら朋友の入荷を待たないで、さっさとどこかで入手しておけば良かった。写真は諦めるとして、論文は読みたいから、複製本で購入する、と返事をした。

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2008-01-17

4分43秒でやっつける日本史

takechiさん経由。
学習用というよりは
 日本史ギャグを楽しむ
といった趣。
創聖のアクエリオン
の主題歌の替え歌のバックに
 日本史資料集
が挿入されるという
 一見学習フラッシュ
だけど、あまり受験の役には立たないかも。

サビの部分がツボにはまりました。

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2008-01-11

謎の現説案内メール→平城第423次(東院地区中枢部)発掘調査現説@1/19 平城宮東院

先ほど、過去への案内が奈文研から届いた。
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 秋暑の候、皆様方にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。