2018-08-28

江戸城 夏の正装は「裸足」

 城中で座布団なんてものは使わない。
という話を読んだのは何でだったか。
江戸幕府は
 武家の政権
というわけで、幕末に掛けても
 割と真面目に武を押し出す傾向
がある。
『徳川制度史料』より。


四月朔日 御城揃 五ツ時
(略)
御城中ハ勿論老中方ヘ囘勤其外式立候ノ時共、今日ヨリ九月八日迄ハ足袋不用候事、但若シ痛ミ所等有之足袋ヲ不用シテ不叶候節ハ、前廉ニ届出候事 夏足袋願ハ三月末ニ月番迄指出セバ附札ニテ相濟ムナリ。
尤モ長袴着用ノ時ハ足袋勝手次第ナリ、足ノ見得ザルニ因ル故ナラン、

というわけで
 旧暦の四月一日から九月八日までは正装では「足袋は穿かない」
ことになっていた。もし
 足が痛いなどの不都合があって足袋を穿く必要があれば、事前に月番に届け出て許可をえなくてはいけい
のだった。
 夏期は足袋は穿かない
というのが、武士の嗜みのようだが、大体時代劇というと
 官僚は特に季節構わず足袋を穿く
のが通例。
しかし
 足が見えないからじゃないかな
というコメントと合わせて、
 長袴を着けている時は、足袋を穿いても構わない
というのが面白い。
長袴というのは、
 浅野内匠頭 殿中松の廊下で刃傷に及ぶ
シーンで、みんなが穿いている、あの裾のうんと長い、重い儀式用の袴だ。ま、たしかに
 足は見えない
よね。

おまけ。日テレニュース24に上がっていた
 アニメでみる“忠臣蔵” 2分でわかる物語
http://www.news24.jp/articles/2017/12/14/07380512.html
松の廊下のシーンも収められている。

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2018-08-16

旧軍将官だって統帥(軍隊の統率と指揮)で「必要な条件を満たしてやらないで要求し、あるいは干渉するのは愚劣であって統帥ではない。」と認識

戦後日本は
 旧軍の理不尽な竹槍精神主義からは脱却
したと思っていたのだが、最近は、
 精神一到 何事か成らざらん
と、間違った方向の精神主義で
 国家の貧困を隠蔽する
のが流行している。たとえばこれだ。
船田元衆院議員の8/13付メールマガジン「サマータイム制度の導入について」より。


コンピュータなどの時間設定の変更は、律儀で真面目な国民ならば十分乗り切れるはずだ。

アホか、俺たちを殺す積りか、とIT業界からは怒号と悲鳴が上がっている。
 21世紀に竹槍でコンピュータの時間管理切り替えが出来ると思っている
のかと。

ところで、
 悲惨な敗戦を経験した旧軍の将官
は、
 実戦経験に鑑み、竹槍精神主義の愚劣さを指弾
している。
戦後台湾で「白団」の外籍教官として軍を指導した日本旧軍将官達は次のような報告をしている。


民国40(1951年 昭和26年)年6月20日
陸軍第32師民国40年度第1期教育全般的訓練経過の概況報告
陸軍第32師 外籍教官室
(略)
統帥の要訣部下に戦勝条件を付与すると共に、部下の職責・人格を尊重して不当な干渉をしないことである。必要な条件を満たしてやらないで要求し、あるいは干渉するのは愚劣であって統帥ではない
(以下略)

1951年からすでに半世紀以上を経過した今
 日本の指導者層は、旧軍将校の反省すら知らず、ひたすら統帥の名を借りた愚劣に走っている
ということだろう。

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2018-08-15

「哲史文」の素養亡き技術第一主義は国を滅ぼす 及川古志郎海軍大将の戦時下(昭和18年 1943年)における反省

最近
 哲史文といった人文系の教育には意味が無い
という議論があって
 大学を高等職業訓練校に変貌させる案
がじわじわ進んでいる。

ところで、日本が先の大戦で、敗色が濃くなっていた昭和18年のこと、
 哲史文亡き技術教育に邁進した陸海軍の軍人教育への反省
が海軍大学校で行われていた。
実松 譲『海軍を斬る』図書出版社 1982年2月25日より


 戦況が悪化の一途をたどりつつあった昭和十八年のある日のこと、場所は目黒の海軍大学校(いまの国立予防衛生研究所)の一室である。聞き手は京都帝国大学の高山岩男教授(哲学)、同席していたのは東大教授の矢部貞治であった。海軍大学校校長・及川古志郎は、しずかに語り出した。
「日本は、米英両国を敵にまわして戦っている。こうした事態になった理由はいろいろあるだろうが、その主因の1つは、わが陸海軍の軍人教育は、もっぱら戦闘技術の習練と研究だった
 つまり"戦争屋"つくりに専念したことである。かれは言葉をついだ。
「すべての軍人にとって大事なのは、政治と軍事との正しい関係とはどういうことなのか、ということである。こうした教育をかえりみなかったことが、いけなかった」
 及川によれば、それが政治と軍事との間に葛藤をきたし、ついに破綻をきたした。
この禍根をふかく掘りさげて究明し、文武の統合の道を樹立しないかぎり、日本は救われない

この時、海軍大学校に呼ばれていた高山岩男は、次のように述べる。


哲学と兵学
元京都帝国大学教授 高山岩男
 昭和30年の秋だったと思うが旧知の及川古志郎大将が拙宅を尋ねて参られ、旧陸海軍の中堅だった10名ほどが集まって岡村寧次大将宅で研究会をやっているので、月に1回くらいそこで哲学の話をしてくれぬかというお頼みであった。
 実は及川大将とは対米開戦間もなく、海軍大学校長のとき講演を頼まれ、その後彼が兵理学と称したものの研究に協力して以来、大将の悲願を私は知っていたのである。
 それは明治以後発足した陸海軍人育成の学校教育戦闘技術の研究錬磨に全力を注ぎ、将帥に不可欠の「軍事と政治の調和統合」という大事なものを疎かにして来たこの欠陥を修正するのでなければ日本は救われぬ。そのため戦争哲学というかその種の「兵理学」を根本から哲学的に検討し、これを建設したいと悲願を吐露され、協力をもとめられた。
 私は明治維新を担当した武士たちをたたき上げた経学・史学・文学の三位一体を大将は現代風に復活したいと願っていると解し、難問中の難問で力はないが、協力を約し、海軍大学校で研究を始めた。その後戦局も苛烈となり、未完のまま敗戦を迎えて、放棄されていたわけである。
(以下略)

「偕行」平成5年3月号 「白団」物語より。

高山岩男のいう
 経学・史学・文学の三位一体

 哲史文
である。
及川古志郎が
 文武の統合の道
と言ったとき、
 文
として念頭にあったのが、この
 哲史文
だ。

第二次世界大戦中の出来事を自分の都合のよいように勝手に
 美化・簡略化
し、こうした戦中・戦後の
 真摯な反省
を知らず、顧みず、再び
 戦闘技術の研究錬磨に全力
を注ぐのと同じ形態の教育に移行しようとしている政府は
 先の大戦で命を失った数多の犠牲者への敬意を欠いている
としか、いいようがない。

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2018-03-11

神戸税関で150周年記念特別公開 10:00〜16:30まで、毎時0分と30分、先着15名を普段公開してない屋上へご案内 神戸港が一望できる@3/24

神戸税関で
 神戸税関150周年記念特別公開

 3/24 10:00-18:00
に行われる。目玉は、
 普段公開してない元貴賓室
とやはり普通は入れてくれない
 10:00〜16:30まで、毎時0分と30分、先着15名を普段公開してない屋上へご案内
という特別の案内だ。
神戸税関の公式サイトから。


庁舎特別開放
 神戸税関では、春の特別企画として、通常休日は閉館している広報展示室・中庭を一般開放します。今年は神戸税関150周年記念の年のため、普段は一般公開していない元貴賓室の公開神戸港が一望できる庁舎屋上に希望者をご案内します。屋上案内は、集合場所に集合した先着15名様を毎時00分と30分から案内開始し、最終案内開始時間は16時30分になります。
 また、神戸税関の東隣にあるデザインクリエイティブセンター神戸においても11時から18時の間「オープンKIITO」が同時開催されます。
 ぜひ、この機会に神戸税関庁舎にお越しください。
■開催内容
日時:3月24日(土曜)10時から18時
場所:神戸税関本関庁舎(神戸市中央区新港町12番1号)
入場無料、予約不要、駐車場なし
■問い合わせ先
神戸税関広報広聴室
電話:078-333-3028
email:kobe-koho@customs.go.jp

神戸税関屋上からは
 神戸港が一望できる
そうで、上記サイトにはその光景も紹介されている。
お近くの方、神戸ファンの方は3/24 神戸税関へGO!だ。

なお、同時に開催される
 オープンKIITO
の案内はこちら。
オープンKIITO 2018

当日のチラシ(PDF)
http://kiito.jp/schedule/files/2018/03/openkiito_2018_.pdf


春の植物標本ハーバリウムを作ろう!(参加費500円)
たま駅長がジャンプするかわいいペーパークラフトをつくろう!
世界に一つだけのオリジナルデコフレームを作ろう!
好きな毛糸を選んでニットのポンポンを作りビーズをトッピングして自分だけのブローチを作ろう!
日本刺しゅうの絹糸を使ってオリジナルアクセサリーをつくろう!
自分だけのマークをつくってオリジナルの缶バッチをつくろう!

などといったワークショップも開催される。

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2017-12-12

アジ歴エラいっ! 地名・人名・出来事事典公開&事典データダウンロード

アジ歴、エラいぞ!!!!


アジ歴地名・人名・出来事事典
アジ歴のデータベースでキーワード検索をしてみたけれど、見たい資料がヒットしない...。
そんな経験はありませんか?
アジ歴が公開している資料は作成当時のままの文書なので、正しく検索するためには当時の用語で検索する必要があります。
そこで、探したい資料を検索するためのキーワードを選択できるコンテンツを作成しました。
「アジ歴地名・人名・出来事事典」を使って、あなたの見たい資料を探してみましょう!
(キーワードとなる基本語は、今後も随時追加していきます。)

というわけで、上記リンク先の3つある検索ボタン
Aji
から、探したい種別を選んで検索!というシステムだ。
そして、
 超エラい
のは、この検索ボタンの下の

全ての事典データ(Excelファイル)をダウンロードできます。

と書かれたダウンロード用ボタンがあることだ。
 Interactiveなネット利用
の真髄じゃないか!!!!

もし、現在の事典で足りないようなら、アジ歴にrequestも出せるだろう。それ以外にも、さまざまな使い道がありそうだ。

アジ歴、素敵なクリスマスプレゼントをありがとう!!!!

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2017-09-21

国立国語研究所が提供する日本語歴史コーパスに『万葉集』約10万語分の「奈良時代編Ⅰ万葉集」が加わる@9/29

これは画期的! 今から公開が待ち遠しい。
先ほど、国立国語研究所から来た告知メール。


このたび、国立国語研究所では『日本語歴史コーパス』(CHJ)の一部として、下記のデータ(ver.2017.9)をコーパス検索アプリケーション「中納言」上で公開します。

  「奈良時代編Ⅰ万葉集」(短単位データ 1.0 / 長単位データ 1.0)
  http://pj.ninjal.ac.jp/corpus_center/chj/nara.html

奈良時代編の第一弾として、日本最古の和歌集である『万葉集』約10万語分が加わりました。
あわせて、今回より、校訂本文と原文(万葉仮名)の両方の前後文脈(KWIC)が確認できるようになっています。ぜひ、お試しください。

なお、公開時期は、2017年9月29日18時以降 を予定しています。
この間、一時的にCHJ中納言が利用できなくなります。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

何がうれしいと言って
 校訂本文原文(万葉仮名)の両方の前後文脈(KWIC)が確認できる
点だ。

従来の文学研究では
 比較的恣意的な語彙選択に基づく研究
が許されていた。簡単に言うと
 研究者が「気になった文字列」だけを抜き出して、論じる
というのが
 文学研究の論文
として成立していた。例えば
 『万葉集』に見える〜という語の用法について
なんて題名の論文がその類だ。

いまや
 コーパスがそうした研究の「不備」や「思い込み」を正す
時代だ。同じことは
 思想史や文学史
にも起きている。
 思想史や文学史を「編集」する側の好み
ではなく、原典資料の電子化によって
 どのような思想や文学が存在したか
を示せるようになってきている。

こうした状況下では、もちろん
 データベースを駆使する能力
は前提になるが、それ以上に
 文脈に沿って正確に読み込む能力
が必要だ。これまで電子化テクスト利用下の
 用例研究
が陥りがちだったのは、電子化の副産物とも言える
 大量の用例
を前にした読み手が
 個々の用例の緻密な読みを放棄
して持つに至る
 同じ文字列であれば一意に定まるといった「誤解」
で、
 きちんと読めば意味が異なっているのが理解出来る「同じ文字列」を同列に論じる瑕疵
が、少なからぬ論文で見られる。特に
 比較文学・比較思想の分野
では
 当該言語の習熟度の違い
によって、
 本来あり得ない「誤読」が論文の主眼になる
ことすらあった。例えば、日中で意味の異なる「鬼」などがそうだ。

こうした「誤解」を撃破するのが、コーパスを用いた研究だろう。
今後の進展を期待したい。

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2017-08-28

ドイツのパンは美味しい(その4)ドイツでは富は歴史と文化に奉仕する

今回、学会が開かれたのは、通称
 キール大学
と呼ばれる
 CAU(Christian-Albrechts-Universität zu Kiel)
で、
 クリスティアン・アルブレヒト大学キール
という校名が示すとおり、
 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公のクリスティアン・アルブレヒトが開いた大学
である。
創立は1665年。日本は寛文五年。四代将軍家綱の治世にあたる。アイザック・ニュートンが万有引力を発見し、フェルマーが死んだ年でもある。
戦前はナチスドイツにいち早く協力、1933年には強制的同一化政策に従い、多くの学生や教員が大学を逐われた。
戦前には5人、戦後には7人のノーベル賞受賞者を輩出している。
日本史と密接に関係のある人物では、リヒャルト・ゾルゲが卒業生である。

ノーベル賞受賞者の数だけでいえば、日本に、キール大学に匹敵する大学は存在しない。
しかも、このキールは、大都市ではなく、人口わずか24万人の港湾都市なのである。
これまで、最も人口が多くなった時期でも30万人を少し超える程度だった。

フィヨルドの南端に位置するキールは、天然の良港を擁し、バルト海の要衝である。キールと北欧を結ぶ大きな定期便のフェリーが港に姿を見せていた。
 北ドイツ
というよりも
 北欧への入口
という趣が深い。

近代において、キールは
 軍港
として発展した。第一次大戦、第二次大戦、いずれでもキール港は重要な役割を果たした。そのため、第二次世界大戦の後半には、徹底的な爆撃によって旧市街地は瓦礫と化した。
ドイツの街では、よく
 ドレスデンの復興
が知られているが、ここキールも同様に破壊され尽くした旧市街地を、戦後、瓦礫から復興したのである。知らないで通ると
 古い建物の建ち並ぶ旧市街地
が拡がっているが、これらはいずれも復元・再興された建物なのだ。

当然ながら、
 キール大学も大きな被害
を受けた。
しかし、いま、キール大学の古いキャンパス周辺には
 元々あった大学附属の博物館
が建ち並んでいる。もちろん、これらも戦後再び作り直されたものだ。今回は
 Medizin- und Pharmaziehistorische Sammlung(キール大学附属医薬史博物館 Brunswiker Str. 2, 24105 Kiel, Deutschland )
 Zoologisches Museum der CAU(キール大学附属動物学博物館 Hegewischstraße 3, 24105 Kiel, Deutschland )
 Kunsthalle zu Kiel(Düsternbrooker Weg 1, 24105 Kiel, Deutschland. 古代美術博物館を併設)
 Botanischer Garten Botanischer Garten Kiel der Christian-Albrechts-Universität zu Kiel(キール大学附属植物園 1665年の大学創立当時から計画される。現在は移転し規模を拡大)
を参観した。そこで痛切に感じたのは
 文化に対する投資の厚さ
である。

たとえば、植物園。自慢の温室はいくつかに区画され、それぞれの部屋は、温度と湿度とが厳密に管理され、植生にあった環境が再現されている。温室は維持管理に金の掛かる施設だが、それだけでなく、コレクションも充実している。
Bg3
俗に
 100年に1度だけ花が咲く
といわれてるアガベ。もちろん100年よりは短い期間で咲くのだが、花が咲くと本体は枯れてしまう。上の茶色いぽよぽよしたものが花。なんという幸運。
Bg1
キール大学附属植物園の誇る多肉植物コレクションの1部。デカいサボテン。
Bg2
これも多肉植物。多肉植物マニアが迷い込んだら、喜びの余り死ぬんじゃないかと思うような充実したコレクションが展開されている。
Bg4
オオオニバスと人の背丈より高い蓮。東大寺の大仏さんの前に金色の蓮が飾ってあるが、大きさは似たようなモノ。花が咲いた姿を是非見たかった。

温室内では、鳥や亀なども飼育されていた。

もちろん、温室外にも植物園は拡がっている。世界中から集められた植物が、大陸ごとに分けて植えられている。高山植物(北ドイツなら余裕で低地で高山植物が栽培できる。北海道でも可能)の庭もあれば、水生植物の庭、木本の庭などが展開されている。植物園全体に一体いくら掛けているんだろう!!!

植物園だけではない。
古代美術博物館は、
 かつて、古典研究のために19世紀に発掘したギリシャ・ローマの彫刻や壺
が並んでいるのだが
 一部は石膏のレプリカ
に代わっている。恐らくは
 第二次世界大戦の後半の爆撃
によってオリジナルが粉砕されたために、こうしたレプリカが元のように置かれているのだろう。たとえレプリカだったとしても、一見して
 ギリシャ・ローマの彫刻や壷絵の変遷を理解出来る展示
であり、キュレーターの腕が冴え渡る。
しかも、これらの展示物は
 キール大学の古典研究室が自前で発掘したもの
のようだ。
 ギリシア・ローマの発掘
って、それだけでも物凄く資金が必要なんだけれども、一体戦前のキール大学はどれほどこうした発掘を援助したのだろう。そして、これら考古学的成果は、単なる美術史的遺物なのではなく
 ギリシャ・ローマ研究
に用いられたのである。

後で詳しく書くけれども
 動物学博物館

 子どもを連れて行くと、たぶん動物学の虜になる展示
が犇めいていた。

歴史と文化を守るために、潤沢な予算が与えられている。
それがキール大学附属施設を見た感想である。

富は文化と歴史に奉仕する。

日本では
 文化や歴史は「富のアクセサリー扱い」
だが、ドイツでは
 文化や歴史の方が富より遥かに重要
なのだ。
そして、キール大学は、単に博物館が充実しているだけではない。先端的な研究も盛んに行われている。

人文系が消滅の危機にある日本と、歴史と文化を瓦礫から再興して維持するドイツ、かつて
 東西の経済大国
と謳われた2つの国は、21世紀になって、かくも大きな格差を見せている。

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2017-07-03

偽史の作られ方

パソコン草創期の人達は、まだ生きている。
インターネット草創期の人達もそうだ。
商業化以降の日本のインターネットの状況なんて、まだ「歴史」というのはほど遠い。
でも、着々と
 「商業化以降のインターネットの偽史」
は作られている。
理由は簡単だ。
1. 商業化以降のインターネットについて「書き手」が若い
2. 2ちゃんねる以前をそもそも「知らない」
3. 2ちゃんねる以前を知らなければ、商業化以降のインターネットの人の出入りの意味が分からない
4. 「書き手」が若い上に、それを「審査」するおじさん・おばさんの「ネット親和力」がそもそも低い
5. 両者が、インターネット商業化以降の作られた「偉人伝」を批判できないまま、鵜呑みにして「論文化」しているor「論文」を容認している
6. 結局、こうしたゴミみたいな「論文」だけが残る←今ココ
だ。
パブ記事と、そうでないものの区別がつかないまま、
 商業インターネット偉人伝

 論拠
として、論文が生産される。
わたしのように、古くからネットにいる人間は笑っていられるけれども、
 その内、わたしたちのようなネットの古代民は死に絶える
わけで、
 書かれた偽史が横行
するだろう。

いや、凄いんですよ、ほんとに。

ネットジャーナリズムが未熟なのもあるけれども、何より問題なのは
 すべてにおいて、専門的な書き手の数の絶対値が少ない
ことだ。
80-90年代の『月刊アスキー』の筆者程度の実力と見識があれば、まともなのだが、そういう人は
 学術論文などという金にもならない文章は書かない
からな。

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2017-01-29

「云云」と書いて何と読む? 余聞

現代日本語で
 云々
と書いてあったら
 うんぬん
と読むのだけれども、その話を聞いて思い出したのが
 『史記』封禪書
だ。
 封禅(ほうぜん)
とは、中国の帝王が行った
 とんでもなく大規模な祭祀
である。吉川忠夫先生による『世界大百科事典』の定義より。


中国の帝王がその政治上の成功を天地に報告するため,山東省の泰山で行った国家的祭典。〈封〉と〈禅〉は元来別個の由来をもつまつりであったと思われるが,山頂での天のまつりを封,山麓での地のまつりを禅とよび,両者をセットとして封禅の祭典が成立した。

もともとは、
 山頂で「封」、山麓で「禅」の祭
を行っていたのだが、その後両方を
 泰山で行う
ことになった。上記記事は次のように続く。

封禅説の成立は戦国末以後のことであって,それには方士が深くかかわっていたものと考えられる。史実として確認できる最初の封禅は秦の始皇帝28年(前219)に行われたそれであり,つづく漢の武帝の元封1年(前110)に行われたそれによって詳細が明らかとなる(略)その後,後漢の光武帝,唐の高宗や玄宗,宋の真宗たちも莫大な国費を投じて封禅を行った。

で、

泰山において政治上の成功の報告を行うとともに不死登仙を求めるところの封禅の説

という封禅を行うことが、
 中国皇帝の見果てぬ夢
となった。

で、
  『史記』封禪書
には、春秋時代の知恵者、斉の管仲が述べた
 過去の帝王が封禅の祭を行った山の名前
が列挙されている。管仲は、これまでに72人の帝王が封禅の儀式を行ったけれども
 名前を覚えているのは12
として、封禅を行った帝王と祭を行った山の名前を挙げていくのだが、


無懷氏封泰山、禪云云虙羲封泰山、禪云云神農封泰山、禪云云炎帝封泰山、禪云云、黃帝封泰山、禪亭亭。顓頊封泰山、禪云云帝俈封泰山、禪云云封泰山、禪云云封泰山、禪云云、禹封泰山、禪會稽。封泰山、禪云云、周成王封泰山、禪社首。

無懐氏以下9人の古の帝王が、
 云云山で禅の祭を行った
と言っている。
「云云」は、山の名としては
 うんうんさん
であって、
 うんぬんさん
ではないらしい。

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2016-11-28

TBSドラマ「JIN=仁」にも登場した 「日本近代化の原点」長崎市の「精得館」遺構を発掘抜きで破壊して建てられる小学校で教師は子ども達に過去と未来を教えられるのか 「精得館」遺構破壊の危機 せめて着工前に「緊急発掘」を!

TBSで人気を博したドラマ
 JIN=仁
の故地として紹介されている一つが
 長崎の精得館
である。


『精得館』(現・長崎県長崎市西小島1丁目7-1付近)
1857年(安政4年)、幕府から医学教授を依頼されたオランダ人医師・ポンペが設立した『医学伝習所』(松本良順らもここで学んだ)と、その後1861年(文久元年)に併設された養生所(病院)が統合され、1865年(慶応元年)に改称されたのが『精得館』である。それまでにも多くのオランダ人医師が来日し、個人的に医術を広めるというケースはあったが、幕府の組織として本格的に学校と病院が建立されたのはこれが初めてのこと。ポンペの帰国後は、同じくオランダ軍医のアントニウス・ボードウィンが医学所で教鞭を執っていた。
明治期になってからは『長崎府医学校病院』と改称され、現在の『長崎大学医学部』の前身となったとされる。

この解説で抜けているのは
 1. 精得館は、近世日本で初めてベッドサイド教育(入院患者による臨床教育)を行う、付属病院を併設した医学校として発足
 2. 精得館には、医学校・付属病院の他に、近代科学を教育する「分析窮理所」も併設された
という2点である。まさに
 日本近代化の原点の地
なのだ。
そして
 精得館は後に大阪に移転して、京大のルーツの1つである大阪舎密舍となった
のである。つまりは
 精得館は、医学や化学・物理を含む日本の近代高等教育の原点
であり
 今に続く日本の大学を胚胎した施設
だったのだ。精得館の分析窮理所に招かれたオランダの化学者
 ハラタマ(Koenraad Wolter Gratama 1831-88)
は、
 日本最初の理化学教師
であり、
 系統的に化学と物理を教えた
のだった。

さて、上のリンクを辿ると、現在「精得館」遺構は、長崎市立佐古小学校の中にある
20161128_60930
ことが分かる。

長崎でも
 少子化の進行で小学校の統合
が進んでいる。そのため
 佐古小学校も近隣の小学校と統合され、統合される新小学校校舎は佐古小学校跡地に建設
されることが決まった。問題は
 佐古小学校は、奇跡的に「精得館」遺構を保存して建っている点
である。

普通の自治体であれば
 佐古小学校の下に埋まっている「精得館」遺構の調査をしてから、新たに小学校を建設するか、あるいは他の土地に小学校を建設し、「精得館」跡を「近代化遺産」として整備
しようと考えるだろう。大抵の自治体では
 文化財は教育委員会が扱う
からだ。ところが
 長崎では「文化財は観光関連部署が扱う」
とかで
 精得館遺構に興味を持たない上に何の価値も見いださない
らしく、
 建設前の「緊急発掘」は行わない
のだという。いや、凄すぎて俄には信じられない。

わたしがこの事実を
 11月13日に大阪市立大学医学部で開かれた「日本医史学会関西支部」の学術大会
の席上
 長崎大学の相川忠臣先生のご発表
で初めて知った。
実を言うと、恥ずかしいことに
 「精得館」はもう跡形もなくなっているだろう
と勘違いをしていた。
長崎大学図書館の「日本古写真ボードインコレクション」には
 6152 星取山からの長崎港鳥瞰
という1枚のパノラマ写真が収められている。1864年、長崎の医学校に赴任したボードインが撮影させた写真である。この写真の右手に分析窮理所(右)・医学所(中)・養生所(左)が写っている。その部分を拡大する。
20161128_64155
 この全ての遺構
が、現在の佐古小学校の下に埋もれているのだが、相川忠臣先生のお話では
 精得館の外構の石垣も、奇跡的に保存されている
のだそうだ。
相川忠臣先生のスライドより。
Img_3147_2
これを見ると
 新小学校校舎は精得館遺構を破壊しないと建設できない
ことが分かる。そして
 緊急発掘の予定は全くない
というのだ。

この1、2ヶ月で
 精得館の遺構が完全に破壊されるかどうかが決まる
とのことだった。

遺構は、一度破壊されてしまえば、永遠に失われてしまう。

果たしてどうなのだろう。
 日本近代化の原点の地を碌な発掘もせず、永遠に破壊して建設される小学校で学ぶ子ども達
に、新小学校の教師達は
 胸を張って、過去と未来を教えることが出来る
のだろうか。

小学校を建て直すな、とは言わない。せめて
 精得館の遺構を緊急発掘して、日本近代化の原点の地を後世のために記録
して欲しい。そして
 新小学校で学ぶ子ども達

 自分達の学校が、現在の日本に繋がる近代教育胚胎の地に建っているという誇り
を持って欲しい。

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